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2019年9月3日火曜日

中国の公安を避けて、ベトナムとの国境を越えるトラックに脱北者は恐怖に包まれて、体を縮めて座っていた。

北朝鮮からの脱北者たちは、2009年9月にトラックの荷台に乗って、中国の国境からベトナム北部のむらまで移動した。中国の公安に逮捕されないように、ベトナムとの国境を越えて猛スピードでトラックが走った。トラックに全員が恐怖に包まれて体を縮めて座っていた。
 9人の脱北者は周囲を警戒しながら、ベトナムとの国境がある中国・広西チワン族自治区の山道に体を潜めた。中国で逮捕されると、脱北者は北朝鮮に強制送還される。刑務所である教化所で、残酷な虐待を受けた。中国からベトナムに密入国して、ハノイの在ベトナムの韓国大使館に向かった。夜中に無人の山奥を、暗がりを這いながらも歩いた。しかし、在ベトナムの大使館の韓国人の職員が、駐在国を優先して、脱北者を受け入れを拒否した。脱北者を連れて他国に密入国するように指示した。欧米の他国の大使館に密入国するために、英語の文章を丸暗記した。警察官が取り囲む欧米の大使館に密入国した瞬間を、欧米の報道機関に秘密裏に捉えてもらい、国際的な圧力を加えた。大使館員が密入国を拒否するも、国際報道機関が脱北者を速報で公表したため、致し方なく脱北者を保護した。
 脱北者は、1994年頃から北朝鮮から国外への難民が急増した。1993年の大水害と干ばつにより食糧難が深刻化して、大飢饉となった。2018年時点までに約31,500人が韓国に亡命して、韓国人となった。脱北は、まず中国に逃避した。国境警察官が、国境付近で脱北者を逮捕して、不法入国者として北朝鮮に送還した。韓国に入国しても、一部の脱北者は、社会的偏見や差別を受けて余計者として虐待された。 



2019年8月23日金曜日

北朝鮮兵士は、韓国軍とアメリカ軍の砲撃により崩壊した戦車の側で戦死して地面に死体が横たり散乱した。

多富洞の戦いは1950年8月13日から、北朝鮮軍兵士は倭館(Waegwan)の北にある韓国の仁洞(Indong)で、韓国軍とアメリカ軍の砲撃により崩壊した戦車の側で戦死して地面に死体が横たり腐敗して散乱した。食いつくされた牛馬の骨も散らばっていた。釜山の周囲数10kmに守りを固めた国連軍に対して、北朝鮮軍が多富洞の谷間村に攻勢を集中させた。韓国軍が突撃と逆襲をして、形勢を挽回して、北朝鮮軍の攻勢を止めた。
 朝鮮戦争における総犠牲者数の推定はさまざまである。1つは500万人としています。そのうち120万人強が19か国から送られた兵士でした。韓国軍では約217,000人、北朝鮮軍は約406,000人、中国軍は約60万人、アメリカ軍は約36,000人が含まれる。その他の約300万人以上は民間市民であり、総計で約500万人にも達する。朝鮮戦争における戦闘だけでなく国境の両側での大虐殺により、犠牲者数は、朝鮮半島の戦前人口の約10%に達した。北朝鮮の死傷者数は人口の約12%から約15%であると推定された。
 朝鮮戦争は、北朝鮮軍が1950年6月25日に突如に南部に侵攻して勃発した。数十年にわたる日本軍の占領の後に、朝鮮半島は第2次世界大戦の終戦時に、連合軍によって2つに分割された。アメリカと韓国に対抗するソビエトや中国と北朝鮮が終戦後の数年間にわたって深い分裂が生じて、小競り合から、1950年6月25日に北朝鮮軍の突然の侵攻に至った。国際連合は21か国から軍隊の派遣と援軍の支援をして、主にアメリカ軍とイギリス軍が韓国軍を支援した。朝鮮戦争は約3年間も継続して、双方に大きな進撃と撤退を伴って、膨大な犠牲者が出た。約200万人を超える朝鮮半島の民間市民が命を落とし、17か国から約200万人近くの兵士が殺さた。朝鮮戦争は停戦で終結したため、韓国と北朝鮮はまだ戦争状態にある。



2019年7月23日火曜日

朝鮮戦争の多富洞の戦いで、破壊された北朝鮮軍の戦車の側に、殺害された北朝鮮兵士の腐敗した死体が散乱した。

朝鮮戦争の多富洞の戦いで、1950年8月13日に多数の北朝鮮軍兵士が殺害されて、戦車が破壊された。その破壊された戦車の側に、殺害された北朝鮮兵士の死体を9月22日に検証した。戦場には腐敗して食いつかされて兵士の死体や牛馬の屍体も散乱していた。
 朝鮮戦争は、1950年6月25日午前4時に北鮮軍の砲撃から30分後には約10万の北朝鮮軍兵士が38度線を越えた。北朝鮮軍は韓国軍を圧倒し、6月28日にソウルを占領した。アメリカ軍と国連軍が7月7日から軍事介入するも敗走を重ねて、8月5日には釜山にまで追い詰められた。釜山の周囲を固めたアメリカ軍と国連軍に対して、多富洞という谷間の村に、北朝鮮は8月13日に集中攻撃した。韓国軍の白師団長の突撃から逆襲して、形勢を挽回して、北朝鮮軍の攻勢を止めた。釜山橋頭堡が破綻を免れて、朝鮮戦争の転機となった。
 1950年から1953年まで続いた朝鮮戦争中に、アメリカ軍は北朝鮮の町や都市を爆撃した。さらに農村部の襲撃は農地の洪水と作物の破壊をもたらした。南北を分ける38度線および中国と北朝鮮の国境の間では、すべてのものの上に立っている建物を爆撃した。アメリカ軍は、北朝鮮と中国の国境を越えて、世界初のジェット戦闘による空中戦を集結した。1980年代に空軍は北朝鮮を焼夷弾で襲撃した。北朝鮮のあらゆる町、韓国のいくつもの町も全焼した。アメリカ軍は戦争中に約635,000トンの爆薬を落とし、焼夷弾のナパーム弾を32,557トン投下した。朝鮮戦争により、朝鮮市民の惨めさ、病気、痛み、苦しみ、飢餓は激烈に悪化した。
 朝鮮戦争の総死傷者数の想定は、韓国軍は約217,000人、北朝鮮軍は約406,000人、中国軍は約60万人、そしてアメリカ軍は約36,000人である。約300万人以上の朝鮮半島の市民は戦闘で殺害されて、特に国境の両側で大虐殺された。朝鮮半島の戦前の人口の約10%も虐殺された。北朝鮮における死傷者数は人口の約12%から15%であった。3年ほどの間に、韓国の人口の20%が直接の戦争による犠牲者として、あるいは飢餓と被爆により戦死した。北朝鮮の金日成は朝鮮戦争による北朝鮮市民の犠牲を逆用して、「戦争のための我々の準備で最も重要なのは、全国民に米国帝国主義を憎むように教育することだ」と宣告した。



2019年7月23日 
Japan No War (JNW) 日本平和の市民連盟 視聴回数 240,000回

2019年7月19日金曜日

北朝鮮の人民裁判で反動分子と断定され、死刑を宣告されると、直ちに市民の面前で、棍棒で頭部を破砕して殺害した。

朝鮮戦争は1950年6月25日午前4時において、北緯38度線から北朝鮮軍が突如の侵攻して勃発した。北朝鮮の奇襲でパニックに陥った韓国に対して、6月28日には、北朝鮮軍が韓国の首都であるソウルを侵略した。1950年7月2日に、北朝鮮のソウル市民会館前の路上で、韓国のソウル警察所長が人民裁判された。人民裁判で反動分子として断定された。人民裁判が死刑を宣告すると、直ちに人民裁判の面前で、棍棒で頭部を破砕して殺害した。膨大なソウル市民は大混乱に陥り、土地と家や家族を失って、難民が発生した。
 北朝鮮の侵略地域に対する占領方針は、朝鮮労働党政治委員会が策定した。その方針は、1) 政治的・思想的な敵対者を粛清する。2) 韓国青年を徴兵して、義勇軍として北朝鮮の人民軍を補助させる。3) 道路や橋などのインフラの復旧に韓国市民などを使役して強制労働させる。4) 韓国の地下組織を掃討して、北朝鮮幹部が実験を握る。5) 食糧などを徴収する。6) 韓国農民の支持を得るために土地を早期に無償分配する。
 韓国軍は6月28日に北朝鮮の南方侵略を阻止するために、残存していた韓国軍と難民が避難していた漢江大橋をもろともに爆破した。膨大な韓国軍兵士と難民は、漢江の以北に取り残された。北朝鮮軍は7月3日に漢揚江を渡河して南方に向けて急侵略した。アメリカ軍は6月26日の韓国軍の支援から6月27日から韓国への武力支援して朝鮮戦争に参戦を指令された。アメリカ軍が仁川の上陸してから攻勢に転じる9月16日まで、韓国南部の各地では、鮮血で染める悲惨な朝鮮戦争の戦闘により、兵士だけでなく市民も巻き込まれ、膨大な犠牲者出しながら、その死体が散乱した。





2019年3月5日火曜日

国連軍が占領した北朝鮮地域で、国際婦人連合は、大量虐殺された朝鮮人の死体が発掘された塹壕を視察した。

アメリカ軍を主体とする国連軍が占領した北朝鮮地域で、国際婦人連合の一行は、大量虐殺された朝鮮人の死体が発掘された塹壕を視察した。大量虐殺されて埋められた市民の死体は腐敗して異臭が発生した。
 1950年6月に北朝鮮から突如に侵攻を受けた韓国軍は崩壊して、政府と南部の大邱付近まで退却した。大邱付近まで撤退して、7月からアメリカ軍(国連軍)の参戦した。韓国軍と警察は左翼勢力の暴動を恐れて、保導連盟事件で市民を大量虐殺した。1950年7月には、アメリカ軍は避難民の暴発を恐れて、老斤里事件で市民を大量虐殺した。韓国地域に侵略した北朝鮮軍と左翼勢力も、韓国軍・警察だけでなく市民と家族などを大量虐殺した。9月に国連軍の仁川上陸作戦で戦局が激変して、撤退する北朝鮮軍は、韓国の市民を無差別に大量虐殺と大量拉致をした。
 北朝鮮軍が北朝鮮の奥地まで撤退した1950年11月に、中国義勇軍(中共軍)の参戦で戦局が激変した。1951年1月にソウルが再び陥落して、韓国の中部まで中国軍が南下した。3月からは北緯38度の休戦ライン辺りで戦線が膠着した。
 韓国軍は、南部地域の智異山などの山岳地域のパルチザンと戦闘した。朝鮮戦争で南部から退却しなかった北朝鮮軍がパルチザンと合流して戦闘が激しくなった。パルチザン掃討作戦の韓国軍によって、北朝鮮のパルチザンによって、市民が大量虐殺された。北朝鮮のパルチザンに市民が協力すれば韓国軍に虐殺された。北朝鮮のパルチザンに市民が協力しなければ、パルチザンに虐殺された。1951年2月に韓国軍は、慶尚南道居昌で居昌虐殺事件により、市民を大量虐殺した。朝鮮戦争が1953年7月に休戦後も、南部山岳地帯で1955年頃まで戦闘が続いた。




2019年2月23日土曜日

アメリカ軍が上陸した日に、韓国の国家警察により、労働組合指導と平和維持活動家が殺害された。

第2世界大戦の終戦により、朝鮮半島で勃発した政治的暴力により、朝鮮半島は日本軍からの解放後に最初の2人の死者が2人出た。アメリカ軍が上陸した9月8日に、国家警察により、労働組合指導と平和維持活動家が殺害された。朝鮮占領はアメリカ・ソ連ともに準備が足りず、両軍が朝鮮を把握できず、一貫した占領政策がなかった。特に主要都市であるソウルで大きな政治混乱を生む一因となった。
   韓国では、朝鮮が日本の植民地統治から自主独立を取り戻した出来事を光復と呼称され、光復を記念する毎年8月15日を光復節の祝日に定めた。1945年9月9日からアメリカ軍が朝鮮半島に侵攻して、先に入っていたソ連軍とともに朝鮮半島における日本軍の武装解除にあたった。先にアメリカ軍とソ連軍の間で締結されていた協定に即した。ソウル(京城府)と仁川を既に占領していたソ連軍は38度線の北へ後退した。朝鮮半島の38度線より南側はアメリカ軍が占領した。
 ソ連が支持した朝鮮人民共和国が1945年9月6日に樹立されるも、アメリカは朝鮮民主党を支持して、各地の朝鮮委員会を約1年を要して解体した。朝鮮半島南側の大韓民国は、1948年に建国宣言をした。 アメリカ保護下で旧植民地体制と国家警察の維持に対して、1948年から朝鮮戦争が勃発した1950年まで武装ゲリラが闘争した。




2019年1月4日金曜日

朝鮮戦争の直後に、韓国軍は思想政治犯を射殺して死体を塹壕下に捨て、死体の検証して生存した囚人たちを直ちに処刑した。

朝鮮戦争が勃発した1950年6月25日の勃発時には、韓国政府は大田刑務所に左翼系の国民保導連盟員、左翼事件の関係者や被疑者らが約2,000を拘束していた。特に国防警備法・特別措置令・布告令違反で逮捕された者は、全て思想政治犯人として、1950年7月8日から10日の間に処刑にて直ちに虐殺された。トラックから思想政治犯を引きずり下ろして、射殺された多くの死体は塹壕下に捨てられた。死体の検証して、射殺後に生き残っていた囚人たちは直ちに処刑にて虐殺された。
 朝鮮戦争が勃発した直後から、戒厳令下にて、大韓民国の韓国軍も北朝鮮の人民軍も、軍事裁判にて処刑執行人となった。両国家権力は、敵対国の協力者や容疑者となった民間市民を、反逆者として虐待と虐殺をした。戦争下における軍事的対決の危機の防衛のために、民間市民ら自国に服従と隷従に導いた。韓国軍あるいは人民軍は、占領した地域で、軍事裁判や人民裁判によって、反対勢力や左・右翼の関係者や容疑者を処刑した。朝鮮戦争の直後から、北朝鮮の人民軍が南下して押し寄せて来た。大田などの南下領域でも、韓国軍は7月8日から16日の間に人民軍に同調する思想政治犯人や民間市民らを急遽に虐殺して抹殺した。アメリカ軍と韓国軍は9月16日に仁川から上陸して、9月28日にソウルを奪還して。人民軍を以北まで撤退させた。韓国軍が朝鮮半島の南部を再占領した時には、人民軍に付随した容疑者や民間市民らを摘発して報復的な虐殺をした。


2018年12月15日土曜日

朝鮮戦争にて韓国の臨時首都であった大邱の農村部の民家では多数の銃殺された北朝鮮兵士の死体が散在した。

朝鮮戦争にて1950年8月29日に、韓国の臨時首都であった大邱の北方約30kmの農村部で、韓国軍とアメリカ軍は北朝鮮軍との厳しい戦場となった。民家では多数の銃殺された北朝鮮兵士の死体が散在した。

 朝鮮戦争は、1950年6月25日に北緯38度線で北朝鮮軍が韓国に向け突然侵攻して勃発した。北朝鮮の大攻勢に、韓国側は大混乱になり南部に撤退した。6月27日に国連安保理が北朝鮮非難決議を採択した。韓国政府はソウルから33km南方の水原に首都を移転した。6月28日に北朝鮮軍はソウルを完全占領した。6月30日に北朝鮮軍は漢江を渡河して南進を再開した。7月1日に臨時首都の水原は崩壊した。アメリカ軍米軍が釜山に上陸し北上した。7月2日北上したアメリカ軍が大田に到着した。7月3日に漢江から北朝鮮軍が殺到して、韓国の防衛線は崩壊した。7月7日にアメリカなど16カ国の国連軍が編成された。北朝鮮軍の南部侵攻によりアメリカ軍は大田から撤退した。その後に国連軍も合流したが、韓国臨時政府は大邱まで撤退した。7月20日に北朝鮮軍は大田を占領して、8月8日から大邱に侵攻した。朝鮮半島南端の釜山に臨時政府が押し込めた。優勢な北朝鮮軍に、国連軍は防戦一方の反撃をした。9月15日に国連軍は仁川を奇襲して、北朝鮮軍は挟撃され北部に撤退した。


2018年12月11日火曜日

北朝鮮から撤退した韓国の警察が、息子を全羅南光陽にて左翼思想犯人で殺害して、母親は息子の死体の前で絶望して慟哭した。

朝鮮戦争が1950年に勃発する以前から、北朝鮮から撤退した韓国の警察が、1948年10月に全羅南光陽にて、共産主義の左翼思想犯人の容疑者として殺害された。朝鮮人の母親は、殺害された息子の死体の前で絶望して慟哭した。
 韓国軍もアメリカ軍及び北朝鮮軍も一方的に犯した虐殺は、完全に隠蔽されて真相は不明となった。朝鮮戦争の前後の民間人の虐殺に関しては、政府は完全に守秘して忘却した。朝鮮戦争の勃発前後における集団の大量虐殺は主要な報道機関や有識者も沈黙した。同一の民族間の意図的に組織された軍隊により民間人に対する虐殺があった。朝鮮戦争後も、被害を受けた民間人は虐殺の衝撃と恐怖から、政権から虐待を受けないように沈黙を保持して続けている。



2018年10月8日月曜日

朝鮮戦争にて、虐殺された北側朝鮮市民の死体が1950年10月22日に平壌で散在していた。

朝鮮戦争(6・25戦争)期間に、平壌で虐殺された北朝鮮の民間市民の死体が1950年10月22日に散在した。南北ので起きた民間人虐殺は、戦争の残酷から、報復は報復を生み、悲憤と憎しみ、傷だけが大地に残った。
 朝鮮戦争の傷や痛みは軍人だけでなく、民間市民にも及んだ。南北の民間市民は戦争の期間にわたって避難民の苦痛を経験し、戦争物資を生産するために動員されて、生存のために凄絶な虐待を受けた。膨大な犠牲者により、北朝鮮の民間市民の死者数だけでも約200万人にも達した。北朝鮮側は公式記録で、連合軍と韓国軍が38度線以北の地域を占領した1950年10月と11月50日余りの間に、約17万2000人を虐殺したと主張した。旧ソ連の文書では、朝鮮戦争期間に爆撃や虐殺による民間市民の犠牲者は約28万2,000人と推定した。北朝鮮で受けた民間市民の犠牲者は約40〜48万人と推算した。
 朝鮮戦争中に左右翼の思想により報復が報復を生む悪循環が繰り返された。北朝鮮地域で戦争期間に起きた虐殺はほとんど右翼青年に執行された。北朝鮮政府は、アメリカ軍が最も深刻な被害の新川郡虐殺事件を起こしたと主張した。土地改革を巡って右翼青年は38度線以南に下り、地下に隠れた。朝鮮戦争期間に北朝鮮地域に投下された爆弾は、約47万6,000トンだった。第二次世界大戦中にドイツに投下された弾数をはるかに超えた。残っていた民間市民と後退して北に来た難民たちも疑惑を受けて処罰の対象となった。民間市民の犠牲は右翼が後退する過程でアメリカ軍の爆撃に遭遇して、約3万5,000人余りが死亡した。左翼と右翼の間に行われた虐殺の傷は南と北に深い不信と憎悪の感情を残した。
 朝鮮戦争期間に北朝鮮地域で民間市民の死亡者数が増加したもう一つの要因は、アメリカ軍の大規模な空襲だった。戦争初期から制空権を掌握したアメリカ軍は、1950年6月29日から停戦発効前まで絶えず襲撃をした。戦争期間に北側地域に投下された爆弾は、約47万6,000トンであった。太平洋戦争期間である3年8ヶ月の間、各国に投下した爆弾量だけでなく、二次世界大戦の期間にドイツに投下した爆弾の数をはるかに超える量であった。米軍は爆撃で北朝鮮の都市地域と産業施設も破壊した。1952年6月23日の空襲で、アメリカ軍は、効果的な攻撃のために、空襲には空母四隻、約500機以上の飛行機を動員した。空襲で米空軍の爆撃機は、わずか数分の間に約900トンの爆弾を水豊ダム上などに投下した。アメリカ軍は、産業施設に加え、農業施設も空襲を敢行した。



2018年10月3日水曜日

北朝鮮軍は、アメリカ軍兵士の両手を有刺鉄線で背中に縛って射殺して、後頭部に弾丸が炸裂した。

 アメリカ軍には、北朝鮮が1950年7月9日に捕虜して翌日に処刑したアメリカ軍兵士の死体を発見したのは衝撃的であった。4名の死体は路地に散在して、両手は有刺鉄線で背中の後ろで縛られて、後頭部に弾丸が炸裂していた。アメリカ軍が北朝鮮に侵攻中には、鉄道のトンネルに約100人の処刑されたアメリカ人捕虜を見出した。アメリカ軍は激怒して、北朝鮮捕虜に対する無差別の復讐的殺人行為が激化した。  
 20世紀のイデオロギー戦争は、無数の残虐行為と非人道的虐殺を生み出した。1950年から1953年まで、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と大韓民国(韓国)の軍隊は、民間人や捕虜までも殺害した。韓国軍の警察が、約40人の衰弱した北朝鮮人を、手が縛ってライフルで射殺した。突然の北朝鮮が1950年6月25日に侵略した後には、北朝鮮人に対する処罰は厳しかった。数百人以上もの北朝鮮の囚人らは、自らの墓を溝掘りを強制した後に、射殺された。北朝鮮の侵略中に起きた残虐行為に対する苦痛と復讐から、韓国政府は報復的措置を命じた。朝鮮戦争の開戦期に北朝鮮の侵略による広範な残虐行為は、李承晩政権に対して抵抗する韓国人も信任に導いた。1950年6月から9月まで、約26,000人の韓国人の民間人が北朝鮮によって殺害された。大田広域だけでも、北朝鮮の退去後に約5,000人の死体が発見された。ソウルを解放時にはアメリカ軍は、数百人の死亡した韓国人の男性、女性、および子供たちで悪臭で満たされた溝を検証した。



2018年8月27日月曜日

北朝鮮特殊部隊の1人の捕虜が、射殺された28人と巻き添え市民68人の死体を検証した。

北朝鮮の特殊部隊である31人が、韓国に侵入して1968年1月21日の1.21事態が勃発した。青瓦台襲撃と政府要人の暗殺指令を受けて、韓国軍の服装や手榴弾とサブマシンガンで武装して休戦ラインを越えた。夜間を利用して首都圏まで侵入したテロリズム事件となった。韓国軍は非常警戒態勢を確立して、28人を射殺して1人を捕らえた。1人の捕虜である金新朝が、一緒に侵入して射殺された仲間や民間の市民の遺体を確認した。
 青瓦台襲撃未遂事件(1.21 事態)は、1968年1月21に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の特殊部隊により大韓民国大統領府「青瓦台」への襲撃未遂事件が勃発した。青瓦台を襲撃して朴正煕大統領と閣僚の暗殺を狙って、北朝鮮特殊部隊の約31人は、韓国軍制服に変装して休戦ラインを突破して韓国領に侵入した。1月21日にソウル市内に入ると、日本製背広に着替え、青瓦台の約800m手前の北漢山まで侵入した。韓国人市民の通報によるゲリラ情報等により韓国当局に検問を受けて、自動小銃を乱射しながら逃亡して突入は阻止された。韓国軍と警察と2週間に及ぶ掃討作戦で、1人の金新朝は逮捕されて28人を射殺した。銃撃戦で韓国側は軍人・警察官と巻き添えの民間人の合計68人が死亡した。捕虜となった金新朝は、北朝鮮の特殊部隊であって、朴正煕の首を取りにやってきたと供述して、その後にはソウル市内の教会で牧師をしている。


2018年8月22日水曜日

朝鮮戦争で中共軍が最も南の方まで侵攻した戦闘にて、中共軍兵士の死体が放置されて散乱した。

朝鮮戦争にて、中国軍と北朝鮮の中共軍は、1950年12月に平壌を奪回して、1951年1月4日にはソウルを再占領して、国連軍は漢江の南に退却した。すごく極寒の冬の夜間に、ソウルから南に40キロ離れた西北部の都市である水原付近で、アメリカ軍は合流した。アメリカ軍本部近辺では戦闘の準備しても、兵士らは寝るときにも軍靴を脱げない。1月25日の夜間にも、戦闘が迫っていた。一晩中銃声が聞こえ、アメリカ軍の戦車が重い機械音を出して本部の前を通った。四方から銃声が激しく鳴って、兵士は浮目づかいで夜中を明かすしかなかった。次の日の朝、宿泊した本部の近くにあった街路地に、中国と北朝鮮の中共軍の死体が散乱していた。前日の夜中の激しい戦闘により、中国と北朝鮮が戦死者の死体を放置したまま撤退していた。その夜間は、朝鮮戦争で中国と北朝鮮の共産軍が最も南の方まで侵攻した。朝鮮半島のほとんどの地域では森林が破壊されて、戦場は常に荒廃した地域に変貌した。水原付近で行われた戦闘で、射殺された中国と北朝鮮の共産軍兵士は、アメリカ軍の管轄区域だった。中国軍は日中戦争や国共内戦の実戦と、ソ連が支援した最新兵器や日本軍の残存兵器で、中国軍が1950年10月19日に参戦して優勢だった。、度重なる戦闘で膨大な戦傷者や補給線が乏しく、侵攻が鈍化し始めた。アメリカ軍は最新兵器でようやく反撃して、3月14日にはソウルを再奪回したが、戦況は38度線付近で膠着状態となった。


2018年8月17日金曜日

国連軍はナパーム弾によって、全身が黒化した北朝鮮軍兵士の焼死体を散乱させながら進軍した。

朝鮮戦争では、アメリカを初めとする国連軍によって、ナパーム弾が北朝鮮軍と中国軍の攻撃のために投下された。主燃焼材のナフサにナパーム剤の増粘剤を充填した油脂焼夷弾で、高温で広範囲を焼尽と破壊した。 アメリカ軍はナパーム弾によって、全身が黒化した北朝鮮軍兵士の焼死体を散乱させながら進軍した。朝鮮戦争では、B-29爆撃機から約32000トンものナパーム弾を北朝鮮に対して空襲をした。朝鮮戦争では、1950年9月27日から、国連軍は中国と北朝鮮の国境である鴨緑江に向けて侵略した。中国は、10月5日には北朝鮮軍の支援を決定した。10月19日に北朝鮮との国境である鴨緑江を越えて、人民志願軍と呼称した中国軍の大部隊が集結した。1950年11月1日から中国軍が大規模な攻勢を開始した。韓国軍は国境の南90マイルで中国軍に攻撃され壊滅状態となった。11月24日に国連軍は鴨緑江付近で中国軍に対する攻撃を開始に対して、11月25日には中国軍の方が第二次総攻撃を開始した。韓国軍を撃破した膨大な中国軍は山岳地帯から国連軍に襲い掛かった。遂に国連軍には11月29日に前進命令を撤回して退却の許可がなされた。中国軍の大軍と死に物狂いの戦いを繰り広げながら、11月30日から12月1日に「アメリカ陸軍史上最大の敗走」を犠牲を受けた。国連軍は撤退して壊滅を逃れたが、受けた損害は大きく死傷者数は約12,975人にも上った。




2018年7月19日木曜日

アメリカ軍兵士が、歩兵連隊の軍服を着服してアメリカ雑誌も携帯した中国人義勇兵を処刑して死体を見下した。

朝鮮戦争にて、中華人民共和国が1950年10月25日に参戦して、北朝鮮を支援した。中国義勇軍と北朝鮮軍は、南下に侵攻して12月5日には平壌を制圧して、1月4日には、ソウルを再奪還した。1951年初頭に、第5歩兵隊に所属したアメリカ軍歩兵士が、処刑した中国人義勇兵の死体を見下した。中国義勇兵の死体には、アメリカ軍の一般歩兵連隊の(General Infantry : GI)の軍服を着用して、アメリカ雑誌も携帯していた。アメリカ軍の治安維持活動の一環として、中国人義勇兵を秘密裏の窃盗として処刑した。アメリカ軍の地上軍の優位な武力とアメリカ韓国軍の強力な空爆により、中国人義勇兵と北朝鮮軍の南下に対抗した。最新兵器で態勢を立て直して反撃を開始して3月14日にはソウルを再奪回した。戦況は38度線付近で膠着状態となる。全戦線に塹壕を掘られ、中朝軍はさらに兵力を増強した。トルーマン大統領は4月1日にマッカーサーを解任した。1951年7月から休戦会談を繰り返すも不成立となり、最終的に1953年7月27日に板門店で休戦協定が調印された。



2018年6月13日水曜日

朝鮮人女性は、麗水・順天事件で虐殺された肉親の死体に慟哭して、鎮圧するアメリカ軍兵士が眺めた。

朝鮮人女性は、麗水・順天事件で虐殺された肉親の死体に慟哭した。事件を鎮圧するアメリカ軍兵士が彼女らを眺めた。大韓民国は1948年8月15日に建国した直後から、共産主義の南労党(南朝鮮労働党)が大韓民国軍に浸入した。全羅南道の麗水郡で大韓民国の警備隊第14連隊は、10月19日に南労党員が扇動して反乱軍となった麗水・順天事件が勃発した。反乱軍は麗水郡から隣の順天郡にも及んだ。大韓民国は直ちに鎮圧軍隊を投入し、10月27日に反乱軍は鎮圧された。その後に反乱軍は北部の山中へ逃げ込み、長期間ゲリラ戦が続いた。大韓民国の摘発は過酷を極めて、反乱軍に加えて、非武装の民間人約8,000名を殺害した。大韓民国国内の左翼勢力や反李承晩勢力の排除のために、12月1日に国家保安法を制定した。事件発生後に、共産主義者の反政府活動及び保守派の主導権争いで政情は不安定となり、経済的困窮が深刻化した。国家反逆の容疑を貼られた住民は長期間にわたり虐待された。




アメリカ・北朝鮮とは2018年6月12日の首脳会談で共同声明が著明された。
(1)米国と北朝鮮は、平和と繁栄を求める両国民の希望通りに、新たな米朝関係の構築に向けて取り組む。(2)米国と北朝鮮は、朝鮮半島での恒久的で安定的な平和体制の構築に向け、力を合わせる。(3)北朝鮮は、2018年4月27日の板門店宣言を再確認し、朝鮮半島の完全な非核化に向け取り組む。(4)米国と北朝鮮は、すでに身元が判明している者の即時送還を含め、残る戦争捕虜・行方不明者の回復に取り組む。

#Japan_No_War #日本平和の市民連盟 #JapanNoWar #JNW #Nonfiction

2018年6月8日金曜日

朝鮮戦争にて、北朝鮮に対する空爆により、多数の北朝鮮の小児たちが被爆して虐殺され死体が散乱した。

朝鮮戦争において、アメリカ軍と韓国軍による北朝鮮に対する空爆により、多数の北朝鮮に在住していた小児たちが被爆して虐殺されて、その死体が散乱した。その側で、母親が呆然と泣き崩れた。さまざまな高性能爆弾や爆薬が、無差別に農村部に降り注いで壊滅した。大爆撃と海上封鎖により、北朝鮮を孤島にして、補給ラインを寸断して、敗北させて撤退を迫るための戦略となった。特に1951年7月から8月に平壌の大爆撃により、難民が流出して人口が約50,000人まで縮減した。8月15日から北朝鮮の交通と補給ルートを壊滅した。10月19日から朝鮮戦争に参戦した中国軍は、空爆に対抗するために空軍をソ連から補強して制空権を保持した。双方は膠着状態に陥り、11月末から休戦会談に至り、断続的に暫定的な軍事境界線が協議された。膨大な犠牲者を伴いながら、双方が1953年7月27日に朝鮮戦争休戦協定に署名して、38度軍事境界線上で休戦の膠着が継続した。



アメリカ合衆国トランプ大統領は、北朝鮮労働党の金正恩委員長の会談で、2018年6月12日にシンガポール朝鮮戦争の終結に向けた合意文書に署名する調整を公表した(6月7日)。


#Japan No War, #日本平和の市民連盟, #JNW, #Nonfiction

2018年5月26日土曜日

朝鮮戦争の直前に、李承晩勢力の韓国警備隊、韓国軍、韓国警察などが済州島民を無差別に大量の虐待と虐殺をした。

朝鮮戦争の直前に、韓国の済州島の騒乱にて、韓国軍と警察による島民の大量虐殺が勃発した。駐留アメリカ軍による食料挑発で疲弊した上に済州島に多数の島民が帰還した。1947年3月1日の独立運動に対して、韓国警官隊が島民6人を銃殺して、約3,000人を逮捕した。それに反抗して、1948年4月3日午前2時に、済州島の全域でゲリラ蜂起して、韓国警察隊の12名を虐殺した済州島4・3事件が勃発した。南朝鮮国防警備隊、韓国軍、韓国警察、朝鮮半島の李承晩支持者などが1954年9月21日までの期間に済州島の島民を無差別に大量の虐待と虐殺をした。済州島は流刑地・左遷地として朝鮮半島から差別され、困窮した済州島民は、済州島4・3事件で日本に密入国して在日韓国・朝鮮人になる要因になった。韓国は共産主義労働党の扇動として、投入した膨大な韓国政府軍・警察により、島民の約27,000人以上が虐殺されて、住宅も約70%が焼き尽くされた。1992年4月には、済州島東部の旧左村・月郎峰の洞窟の中に、虐殺された白骨化した11遺体が発掘された。



2018年5月7日月曜日

朝鮮戦争にて、韓国南西部の全羅道で、韓国軍が朝鮮人のゲリラの死体を、棒に吊るして廃棄した。

朝鮮戦争にて、韓国南西部の全羅道で、韓国軍が朝鮮人のゲリラの死体を、棒に吊るして廃棄した。韓国軍は、1950年10月19日から中国が参戦した頃から、次第に戦闘するだけでなく、虐殺も始めた。北朝鮮によるゲリラ活動は、1951年1月に絶頂に拡大して活発化した。それに対抗して、韓国軍は大量虐殺として、1951年9月に韓国南部の居昌の市民を溝に追い込み、無差別に約600人を機関銃で虐殺したことが周知された。韓国軍とアメリカ軍はゲリラに対する「ねずみ退治作戦」で、1951年に数千人を虐殺したが、一掃することは不可能であった。1952年12月「ライフ雑誌」に女性写真家のマーガレット・バーク=ホワイトが「朝鮮における野蛮な秘密戦争」を公表した。