清国にて儒教の孔子の生誕地である山東省身の曲阜から外国を排外する義和団の乱が1900年に勃発した。西太后政権が支持して宣戦布告したために、海外から8カ国連合軍 (ドイツ・イタリア・日本・ロシア・イギリス・アメリカ・オーストリア)が中国に干渉するために7月14日に天津を侵略して、8月15日から翌年の9月7日まで北京を占領した。天津では、8カ国連合軍により扶清排外する義和団や疑われた膨大な中国人市民が虐殺された。
パレスチナはシリア南部の地域的名称であった。第2次世界大戦後に1947年11月29日にパレスチナ分割決議案が国連で採択され、1948年5月14日にユダヤ人のイスラエルが独立した。対抗したアラブ諸国との中東戦争から、イスラエルはヨルダン川西海岸とガザ地区を侵略した。1987年12月6日にイスラエル軍と衝突してパレスチナ人が死亡した。反乱が蜂起するインティファーダにより内戦が続いた。それをイスラエル軍は圧倒的な武力で弾圧した。内戦の犠牲者となったパレスチナ人は子供らを救護しながら逃避した。
日露戦争において、中国の遼寧省の東北部で両軍による激烈な遼陽会戦が勃発した。日本約13万人でロシア約22万人による戦闘で、甚大な死傷者となり日本は約2万2千人、ロシアは2万5千にも達して、日本軍が侵略した。日本軍が特に激戦となった首山堡南高地で1904年9月1日に塹壕の中の多数の戦死者を収容した。白兵突撃させ首山堡を確保させ戦死した橘周太を美談と英雄に祭り上げて正当化した。
太平洋戦争にて、サイパン島で日本軍とアメリカ軍と1944年6月15日から7月9日までの激しい戦闘により膨大な戦死傷者が出た。日本兵士や在留日系市民らはサイパン島の最北端のプンタン平原の通称バンザイクリフの岬に追い込まれた。アメリカ軍の投降勧告を聞き入れず、悲惨な恐怖と玉砕に洗脳され飛び込み自殺をした。岬の約80m下の海岸は真赤に染まり死体で埋まった。
アフガニスタン紛争にて、2001年から2014年までタリバーン勢力、アルカイーダ武力勢力、アメリカ軍等の新政府が厳しい内戦をした。2013年8月には首都カブールのインディガンジー子ども病院に、重傷の子供が声にならない声で泣き叫んだでいた。両手と下肢に包帯されるも、戦争による貧困で医療材料と人材が絶対的に不足して治療も困難であった。
ベトナム戦争の末期にて、ベトナムのサイゴン市のダカオ地区にて、1968年1月からテト攻勢をした北ベトナム解放戦線と南ベトナム政府軍が戦闘した。一般市民であった露天商の妻が戦闘に巻き込まれて流れ弾で射殺された。主人は呆然として立ちすくみ、その後に病院に移送するも死亡した。
ロシア革命の1917年からレーニン政権が樹立された1922年までのロシア内戦により、大規模なロシア難民が発生した。特に1922年の冬期は記録的な寒波となり、約900万ものロシア市民らが餓死と凍死した。散乱した死体が積み重ねて山積みされて、多数の墓標が林立していた。
アフリカ中央部のルワンダでは、多数派のフツ族と少数派のツチ族の間で、1990年から1994年まで内戦に陥った。フツ族により約100万人ものツチ族の大虐殺が1994年4月から7月に起こった。1994年7月頃には首都キガリの周辺のニャマタにて大虐殺がされていたた。教会内外には無数の死体が散乱して、異様な悪臭と、死体が腐敗していた。その内乱後には、隣国のゴンゴ内にて、難民した両民族における紛争が継続した。
太平洋戦争末期の沖縄戦で、1945年4月1日に沖縄本島にアメリカ軍が侵攻した。沖縄は日本本土における1億総玉砕の最前線となった。4月6日から航空機で本格的な特攻をするも、4月7日に戦艦大和が撃沈し、沖縄戦は激化した。アメリカ軍海兵隊がパトロール中に日本軍兵士を射殺して検死をした。
イラン・イラク戦争が、1980年9月22日から1988年8月23日まで継続した。ペルシャ湾の石油資源、イスラム教のシーア派とスンニ派の対立、中東諸国及び欧米諸国の干渉などの複雑な要因で、約8年もの長期戦争により膨大な犠牲者と火種を残した。両軍ともにイスラム教の信仰で突撃を繰り返して、戦死者の遺体が砂漠などに散乱した。
第2次世界大戦にて1944年6月10日に、ナチスドイツ軍はフランスの中部のオラドゥール・シュル・グラヌの全村民を無差別に虐殺した。全ての村民はフランス抵抗勢力として、男性197名、女性240名、子供205名の合計642名が、ナチスドイツ軍により火あぶりの焼死あるいは射殺された。散乱した多数の無差別な犠牲者の遺体残骸が集積された。
エルサルバドル内戦が、1980年10月から1992年6月の停戦まで、アメリカ軍が支援する右派軍事政権と反米国が支援する反政府民族解戦線(FMLM)が悲惨な戦闘をした。1982年3月に選挙阻止を訴えた反政府のゲリラと弾圧する政府軍とが激烈な戦闘をした。サン・フェリベ等では、虐殺された市民を含めたゲリラ兵士の死体が政府軍のトラックに放り込まれた。
第2次世界大戦の北アフリカ戦線が、1940年9月のイタリア軍のエジプト侵攻から、1941年2月からイタリア防衛のためにドイツ軍が参戦した。1943年5月のチュニジア戦から撤退するまで長期に戦闘された。撤退しながらのドイツ軍からの追撃弾の砲撃に被弾したアルジェリア人兵士が戦死した。ラバの死体とともに黄色い穀物が周囲に散乱した。
アメリカ合衆国の陸軍兵士は、インディアンを保留地に追い込み民族浄化していた。終に1990年2月29日に、騎兵隊と砲兵隊が、中北部のサウスダゴタ州ウンテッド・ニー・クリークで、突然の発砲からスー族の約350名の半数も無差別に虐殺した。インディアンとの最終内戦となり、1991年1月1日にアメリカ民間人らが、氷雪に散乱たインデアンの遺体を検証した。
第2次世界大戦後に、ヨーロッパからの北アメリカの植民地解放は悲惨な戦闘を伴った。特にアルジェリアでは、フランスに対して1954年11月1日にアルジェリア民族解放戦線(FLN)が独立紛争をした。フランス軍はFLNを撲滅のために、1957年に圧倒的な武力で首都のカスバ掃討を行って多数のアルジェリア人の犠牲者を出した。ド・ゴール復帰政権は1961年1月の国民投票で民族自決となり、アルジェリアが1962年7月1日に独立を正式に決定した。