太平洋戦争末期にてフィリピンの首都マニラの戦いで、イントラムロスの廃墟内に、日本軍に虐殺された小さな男子の死体が転がっていた。側にもうひとりの女性の死体があった。イントラムロスはマニラの市内にある67平方kmの歴史的な城壁地域である。
1945年1月に、アメリカ軍がフィリピンに帰還すると、マニラ解放の戦いが始まった。日本軍は押し戻されて、最終的にはイントラムロス城壁内まで後退した。アメリカ軍は、城壁に囲まれたマニラ都市に激しい砲撃をして、イントラムロス内で16,665人以上の日本軍兵士が死亡した。イントラムロスの8つの門のうち2つがアメリカ軍の戦車によって大破した。爆撃はイントラムロスの大部分を崩壊して粉砕した。マニラの戦いでは、1945年2月3日から3月3日に、100,000人以上のフィリピン人男性、女性、子供が死亡した。
イントラムロスへの攻撃は2月23日午前に140門の砲撃で開始され、その後アメリカ軍の148部隊がケソン門とパリアン門の間の城壁を破って攻撃し、129部隊がパシッグ川を渡り、政府造幣局付近を攻撃した。イントラムロスの戦闘は2月26日まで続いた。2月23日、日本軍は人質として捕らえられていた約3000人の民間人を、グループの男性のほとんどを殺害した。野口大佐の兵士と水兵は1,000人の男女を殺害した。
3月4日に、アメリカ軍はイントラムロスを確保して、マニラは正式に解放された。この戦いでアメリカ軍兵士1,010人が死亡、5,565人が負傷した。日本軍による故意のマニラ大虐殺と日米軍による砲撃と空爆の両方で、少なくとも10万人のフィリピン民間人が死亡した。日本軍はマニラの戦いに参戦した17000人のうち、16,000人が戦死した。