日露戦争の旅順攻撃にて日本軍兵士は、膨大な日本軍の戦死した死体を後送した。1904年8月19日より8月24日の第一回旅順総攻撃だけでも、参戦した日本軍兵士50,700人中に、実に15,800人の死傷を犠牲にした。ロシア軍も約3.000人の重大な損失を被った。第2回総攻撃前半戦(9月19日-9月22日)、第3回総攻撃(11月26日-12月6日)にて203高地を奪取した。第1回から第3回旅順攻撃で日本軍は戦死約15,400人、戦傷約44,000人が犠牲となった。ロシア軍は、戦死約16,000人、戦傷は約30,000人が犠牲となった。
第一回旅順總攻撃は、904年8月19日に、乃木希典第三軍司令官は日本軍の各師団に旅順の要塞総攻撃の命令を下した。そもそも旅順要塞の攻略戦により、ロシア海軍のバルチック艦隊の東洋回航以前にこれを奪取して、旅順港内のロシア艦隊を撃破して、日本艦隊を旅順口の封鎖線を解いて戦力の温存をとげる。それは日本海軍の要望のもとに旅順攻撃が行われた。日本海軍の焦眉の急を告げて、正攻法を採用する時間がになく、強襲法がとられた。
8月19日に旅順総攻撃の命令の下に、日本軍の各師団は一斉に侵攻開始した。しかし、敵陣のロシア軍は堅固で容易に侵攻を許れず、日本軍は肉弾となって突撃した。無益にに死屍を山腹に積み重ねた。日本軍師団はようやく磐竜山の東堡塁と西堡塁を奪取した。しかし、ロシア軍は間断なく逆襲した。ロシア軍は剣を以て突き、銃を以て殴り、射撃の間もなく互いに石礫を投じ、格闘を反復した。ロシア軍は退いた後に近隣の砲台から弾丸を日本軍に雨霰の如く注いだ。日本軍はその確保に多大の犠牲を払った。
8月24日に日本軍師団の決死隊が強襲につぐ強襲を以て占領した望台は、たちまち敵のロシア軍に奪還され、日本軍兵士は殆んど全滅した。堡塁の内部には、日本軍兵士の死体で埋められた。斜面から斜面も死体で以て覆われ、死体により地隙の残った処はない有様であった。遂に乃木希典司令官は第1回旅順総攻撃を断念して、午後4時に強襲の中止を命じた。8月19日より8月24日の第一回旅順総攻撃は、両軍にとって真の墓になった。