2019年12月31日火曜日

アメリカ軍の海兵隊員は、エニウェトク環礁の戦いで背後から日本軍兵士の狙撃兵により殺害されて仰向けに倒れた。

アメリカ軍の海兵隊員は、エニウェトク環礁の戦いで背後から日本軍兵士の狙撃兵により殺害されて仰向けに倒れた。海兵隊員は、直前に日本軍兵を殺害するために使用したナイフをまだ握しめていた。後方には殺害された日本軍兵士の死体が倒れていた。日本軍の飛行場の建設に関わった軍属の労働者の約290人も全滅した。約299人の内訳は、約55人が日本人で、約235人は強制連行された朝鮮人であった。
1944年2月19日にエンゲビ沖から、連合軍はマーシャル諸島のエニウェトク環礁に上陸した。日本軍兵士の戦闘に耐えられない病気で負傷した人は自殺した。再編成されて、部隊として戦闘に戻り、戦闘で全滅死した。弾薬の供給と食料が枯渇して、衛生的状況は非常に劣悪であり、多くの日本軍兵士は、割り当ての任務を遂行が不可能となった。日本軍は2月22日に2回にバンザイ突撃をして全滅した。2月22日に終結したエニウェトク環礁の戦いでは、連合軍は約10,367人のうち約348人が死亡、約866人が負傷し、日本軍は駐留した約3,500人のうち約3,380人が死亡して、105人が捕虜になった。
 世界初の水素爆弾が、1952年11月1日にエニウェトク環礁でアンビー・マイク作戦の核実験で炸裂した。1948年4月から1958年8月の間に、アメリカは、水素爆弾の最初の実験を含め、マーシャル諸島の環礁で約43の核実験を強行した。約2億3900万ドルの放射線浄化プロジェクトの後に、環礁は1980年に再び居住の安全性を宣言された。約850人の住民が島に生息している。半減期が約24,110年であるプラトニウムを約45cmのコンクリート・ドームで蓋をした。2019年5月に国連総長が、マーシャル諸島は、海面から約1.8mであり、冠水と浸水で放射性物質の流出の危険性を警告した。


2019年12月30日月曜日

サイパンの戦いで、多数の日本軍兵士が殺害された死体が塹壕内で積み重なり散乱した。

太平洋戦争におけるサイパンの戦いが、1944年6月15日から7月9日までサイパン島で勃発した。上陸したアメリカ軍に対して、日本軍は6月15日から17日まで総力を上げて近接した戦闘による夜襲の突撃をした。アメリカ軍は夜襲を待ち構えて圧倒的な武器で対抗して、日本軍は壊滅した。アメリカ軍の陣地の前の塹壕には、多数の日本軍兵士が殺害された死体が塹壕内で積み重なって散乱した。アメリカ軍は、塹壕内外で積み重なった日本軍兵士の死体を検死した。
 日本軍の軍司令部はアメリカ軍のサイパン島の上陸に対して、夜襲によって撃退する命令を出した。日本軍兵士は、6月15日夜間から6月16日真夜中にかけて、アメリカ軍に対して4回の夜襲の突撃をした。アメリカ軍の照明弾の下で猛烈な砲撃と射撃による反撃により、6月16日明け方までに約700人が殺害されて死亡した。サイパン島に上陸したアメリカ軍兵士も、約2,500人の戦死傷の犠牲を伴った。6月16日午後17時夕方頃には、日本軍の軍司令部は総力による再度の夜襲を命じた。6月17日午前2時30分頃にも、6月16日と同様に夜襲の突撃をした。夜襲を予期していたアメリカ軍は、連夜の日本軍の夜襲に対してあらゆる武器により猛反撃した。日本軍兵士は、撃ち倒されて壊滅状態となった。6月1ユチまでに、日本軍はサイパン島の海岸の防御から撤退して、丘陵や山岳地帯に内陸に移動して防衛した。



2019年12月29日日曜日

ベトナム戦争にてアメリカ軍は1967年12月8日に多数の南ベトナム解放戦線の青年兵士を射殺した。

ベトナム戦争において、1967年12月8日にアメリカ軍は空軍師団の兵隊をベンキャット地区フオックビン州を移動させる通路を確保した。ジャングルの中を侵攻して、南ベトナム解放戦線や北ベトナム兵を探索して、道路を封鎖して、偵察の任務を遂行した。1967年12月8日に多数の南ベトナム解放戦線と思われる兵士を射殺した。アメリカ軍が、その戦闘後の周辺を探索すると、8人の南ベトナム解放戦線の青年兵士の死体が散乱していた。
 1966年にアメリカ軍はベトナムに駐留する兵士数が約40万人に増員され、1967年には約50万人にも増大した。1965年12月から1967年12月までの2年間は、アメリカ軍兵力は約2.6倍増え、戦死者総数は約14,.385人と約10倍以上にもなった。南ベトナムのジャングルでゲリラ戦が展開され、アメリカ軍の強力な兵力をあまり発揮できず、人間であるアメリカ軍兵士は重い負担をかけらた。ゲリラ戦中に、無力感が虐待と虐殺につながり、怒りや不安感などを抱えた。1968年1月に、フエやサイゴンを含む約100以上もの都市と陣地に、ベトナム解放戦線と北ベトナム軍が複数攻撃をした。1968年2月11日から17日の1週間で、ベトナム戦争で最大数の約543人ものアメリカ軍兵士が殺害された。1968年3月16日朝に、アメリカ軍が数百人もの非武装の民間人を殺害したソンミ村虐殺事件が起きた。見えない敵に狂気を強めて、理由もないのに人を殺しまくる悲惨な無差別な残虐行為を引き起こした。流血と犠牲がアメリカ軍に衝撃を与えて、ベトナム戦争の転換点となり、アメリカ軍のベトナムからの遅々とした撤退に影響を与えた。1969年の最大数の約54,900人から1972年には約69,000人に削減された。


2019年12月28日土曜日

窒息でもがき死んだフランス軍兵士の死体がマジノ線の要塞の回廊に積み重なった。

第二次世界大戦の西部戦線において、1940年にドイツ軍は電撃戦でフランスを急襲して侵攻した。1940年5月18日早朝に、ベルギー国境沿いにあるモンメディ要塞地区のブロック2の要塞は、ドイツ軍により全ての兵器が粉砕された。フランス軍の要塞からの砲撃が停止すると、ドイツ軍は攻撃を防ぐためコンクリートなどで造られたブロック2の要塞を爆破した。フランス守備隊兵士は、ブロック2からブロック1の要塞に避難するも、直ちにその要塞も破壊された。ブロック1の要塞の回廊に退避していたフランス守備隊兵士は、要塞の換気装置が破砕した上に、要塞に生じた火災の煙と煤が回廊に流れ込んだ。一酸化炭素により、要塞のフランス守備隊兵士は全員が窒息した。窒息でもがき死んだ多数のフランス軍兵士の死体が要塞の回廊に積み重なった。
 1935年から1937年にかけて、フランスのマジノ線のモンメディ要塞の砦は、緊縮策の結果、2つの歩兵ブロックからなる小要塞のみが構築された。フランスの防衛線であるマジノ線は、1930年代にドイツとの国境に沿って建設され、アンドレ・マジノ戦争大臣にちなんで名付けた。主にラフェルテからライン川まで延びて、要塞もライン川やイタリアの国境に沿って伸びた。北東線の主な要塞には、22の地下の大要塞と36の小要塞、およびブロックハウス、バンカー、鉄道が含まれた。1940年5月10日にマジノ線がアルデンヌの森で途切れたベルギー北部経由でフランスに侵攻したドイツ軍の侵略を防御できなかった。1940年5月16日にドイツ軍は、後方からマジノ線の最西端のラフェルテにある隔離された要塞から攻撃した。難攻不落と信じた要塞は、フランス防衛にはほとんど役に立たない無用の長物であった。マジノ線の地下壕や砲台、機関銃座の跡がのどかな野原の中にぽつんと取り残された。



2019年12月27日金曜日

長崎原子爆弾で崩壊した長崎市内で、残存したその場しのぎの家で、1945年9月14日に被爆者の母と子供の家族が暮らした。

1945年8月9日午前11時2分に投下されて炸裂した長崎原子爆弾で崩壊した長崎市内で、残存したその場しのぎの家で、被爆者の家族が暮らした。家族は、長崎原子爆弾による破壊が引き起こされる前の家があった場所に戻った。1945年9月14日に瓦の真ん中に、家族は粗野な掘っ立て小屋の粗野な小屋を作った。 母と息子はいつもの粗末なご飯を食べた。原子爆弾による被害により、爆風と火災によるすさまじい破壊が、瞬間的に生じた。即ち、広範囲の建物が破壊されると同時に、火災が発生した。長崎原爆における建物の全壊全焼の範囲は、爆心地から2km以上離れた地点にまで及んだ。
 長崎原爆の被害は、爆心地から約800メートルまでのほとんどすべてが完全に破壊された。長崎県の報告によると、「人間と動物は爆発地から約1km以内はほぼ瞬時に死んだ」。約2.4km以内のほとんどすべての家屋が破壊され、紙などの乾燥した可燃物が即座に爆破され、爆心地から約3km離れたところまで到達した。長崎市の約52,000戸の住宅のうち、約14,000戸が破壊され、約5,400戸がさらに深刻な被害を受けた。無傷で残存した家はわずか12%であった。暴風雨がなかったにもかかわらず、市内全体で多数の二次火災が発生した。消火活動は給水管の破損により妨げられ、約6週間後も長崎市は水不足に苦しんだ。9月中旬になっても、死と腐敗の匂いが場所に広がっていた。長崎原爆の被害は不詳である。推定値は、最初に約40,000人が原爆死し、約60,000人が被爆した。1946年1月までに、死者数は約7万人にも及び、最終的には5年以内に死者数は約14万人と2倍に達した。



2019年12月26日木曜日

ドイツ軍の激烈な攻勢により、スターリングラードの途上の荒野に膨大なソビエト軍兵士の死体と破壊された戦車が散乱した。

第ニ次世界対戦にて、1942年7月にドイツ軍は、東部戦線からスターリングラードに向けて撤退するソ連軍に対して攻勢を仕掛けた。ドイツ軍は激烈に攻勢する戦闘により形勢を逆転して、ソ連軍は敗退して撤退して膨大な戦死傷者を被った。その途上の荒野に膨大なソビエト軍兵士の死体と破壊されたソビエト軍の戦車が散乱した。ドイツ軍の攻勢は1942年6月28日から始まり、ヴォロネジ付近のドン川に侵攻した。混沌としたソビエト軍の撤退により、ドイツ軍は急速に侵攻できて、ドイツ国防軍が大攻勢に転じた。7月5日までにヴォロネジ近くのドン川に到達して、スターリングラード都市を占領する戦いにソ連軍を巻き込んだ。ドイツ軍の攻勢を遮断するために、ソ連軍はあらゆる戦死傷者の犠牲を招いた。
 スターリングラード攻防戦が1942年6月28日から1943年2月2日まで勃発した。第二次世界大戦の独ソ戦において、ソビエト連邦領内のヴォルガ川西岸に広がる工業都市のスターリングラードを巡り繰り熾烈な攻防戦となった。ドイツ、ルーマニア、イタリア、ハンガリー、およびクロアチアからなる枢軸軍とソビエト赤軍との悲惨な戦闘となった。スターリングラードは、ドイツ軍のブラウ作戦における熾烈な攻防戦に巻き込まれた。
 史上最大の戦闘に拡大して、例えば日露戦争の奉天会戦や第一次世界大戦のヴェルダンの戦いを上回った戦闘員、犠牲者、ならびに経済損失を拡大した野戦に陥った。緒戦の頃は枢軸軍側の優勢に進み、市街地の90%以上を占領した。スターリングラード攻防戦の戦死傷者数は、第一次世界大戦のソンムの戦いなどの激戦を遥かに超える規模で、枢軸側が約85万人、ソビエト側が約120万人、総計計200万人前後に達した。街は瓦礫の山と化し、開戦前に約60万を数えたスターリングラードの住民は、終結時点で約9,800人にまで激減した。第二次世界大戦の最大の犠牲者数であり、歴史上で13世紀のモンゴル帝国のバグダッド包囲殲滅戦などと並ぶ人類全史上でも屈指の凄惨な戦闘となった。 


2019年12月25日水曜日

日露戦争の黒溝台会戦にて、激烈な戦闘の沈旦堡にて、日本軍とロシア軍の人馬の死体が厳寒の凍結した荒野に散乱した。

日露戦争の黒溝台会戦において、激烈な戦闘が勃発した沈旦堡において、膨大な日本軍とロシア軍の騎兵隊の人馬が犠牲となり、厳寒の凍結した荒野に死体が散乱した。日本軍は韓山台の付近をロシア軍の約10万人にも及ぶ大軍の猛攻から攻撃目標と想定した。その隣の沈旦堡から韓山台に援軍する指令が出た。ところが、1月25日夜ごろからロシア軍による沈旦堡付近の戦況が激烈になった。日本軍は、黒溝台の陣地から撤退して窮地に追い込まれるも、1月29日夜間にロシア軍に夜襲をかけて、1日29日朝に日本軍は黒溝台を再占領した。黒溝台を攻撃していたロシア軍は、夜襲により攻撃中止を急遽に命令されて総退却した。
 日露戦争中の1905年1月25日 から1月29日にて、黒溝台会戦が勃発した。ロシア陸軍の作戦目標が沈旦堡であったことから沈旦堡付近の戦闘とも言う。ロシア軍の大攻勢により起きた日本陸軍とロシア陸軍の戦闘であった。ロシア軍側の奇襲により始まった。兵力で劣勢だった日本軍は、緒戦は苦戦して膨大にな犠牲を伴った。結果的には日本の辛勝で終結した。日本軍は約54,000人に戦死傷者は約9,300人、ロシア軍は約96,000人に戦死傷者は約10,600人に及んだ。日本軍は野戦で初めて本格的に機関銃を装備した塹壕戦となり、ロシア軍の大軍の突破を阻止した。第一次世界大戦では大量の機関銃を装備した塹壕戦の合戦となり、膨大で甚大な戦死傷者の犠牲に陥った。



2019年12月24日火曜日

レニングラード近郊のヴォルホフで、ソ連軍がドイツ軍の封鎖を突破して、戦死したドイツ軍兵士の死体が積雪上に散乱した。

レニングラード近郊のヴォルホフでは、ソ連軍がドイツ軍の封鎖を突破しようとして激戦となった。戦死したドイツ軍兵士の死体が、積雪上に散乱した。11月下旬のヴォルホフ川沿いのソビエトの攻撃は、最初のドイツ軍に対する反撃であった。東部戦線の中央部と南部では、ドイツ軍は依然として攻撃を維持していたが、ソ連軍のヴォルホフ川東岸の防衛と前線への反撃が、ドイツ軍の侵攻を止めた。ドイツ軍は、東部戦線で初めて主導権を失い、防御態勢を余儀なくされた。日本軍はソビエト連邦を極東から攻撃しない極秘情報から、極東軍は西に向かって最前戦の東部戦線に援軍が送られた。レニングラードの包囲の防御を強化することも東部戦線で重要な目的であった。11月下旬には、ヴォルホフ川沿いのソビエト軍は、新たな攻撃で主導権を握り、一部のドイツ軍が撤退した。
 1941年6月22日にドイツ軍が突如としてソ連国境を越えて侵攻した。約300万人ものドイツ軍兵士が、ソ連国内を蹂躙した。緒戦は、ドイツ軍はソ連軍を圧倒して侵攻した。11月半ばにモスクワの約30kmにまで侵略した。この頃から雪が降り始めて零下約30度にも達した極寒のソ連下ではドイツ軍は疲弊した。ソビエト軍兵士は、最初の冬の期間に対して、ドイツ軍兵士よりも少し改革的であった。氷点下から保護を強化するために、紙とストローがブーツと制服の下に詰められた。ロシア軍は防御的な陣地を保持していたため、ソ連軍の攻撃からドイツ軍は野外で防御することを余儀なくされた。ドイツ軍にとって、脅威となる感染症の流行が、彼らを侵攻を留めた。冬服は見つかりませんでした。1941年6月に圧倒的な勝利を収めたドイツ国防軍は、連戦した夏の制服はすり減りむき出しになり、冬服ではなく、ドイツ軍は携行するすべての衣服を身に着けて、動作が鈍くなった。ドイツ軍兵士が着ていた革ブーツは、ロシアの冬季には適応せず、寒さを浸透して、さらに凍傷を引き起こした。1941年の冬にドイツ軍がチフヴィンを攻撃したとき、突然とロシアの寒さが始まったた。ドイツ軍は冬服と適切なシェルターが不足して、敵のソ連軍の射撃よりも厳寒で多くの犠牲者を出した。12月5日に信じられないほどの寒冷前線がこの地域を移動し、気温は華氏マイナス30度以下に下った。ドイツ軍兵士たちは、むき出しの夏の制服を着て軍務で文字通り凍死した。



2019年12月23日月曜日

沖縄戦の火炎放射器で、塹壕に潜んだ日本軍兵士が丸焦げに焼き尽くされ白骨化した。

太平洋戦争の沖縄戦において、日本軍は塹壕に籠城して、アメリカ軍の膨大な爆弾と銃弾に対して最後に全滅するまで抵抗した。火炎放射器によって、塹壕に潜んだ日本軍兵士が丸焦げに焼き尽くされて、塹壕内にうずくまったまま焼死した死体が黒化して白骨まで浮き出た。太平洋戦争の沖縄戦に至るまでに、日本軍はサーベルからロケットなど様々な武器を駆使して、アメリカ軍に対抗した。太古からの工夫されたヨーロッパの要塞でさえも、近代的な格段の武力により、もろくも壊滅した。圧倒的なアメリカ軍の武力により、日本軍は地下壕などのほら穴に潜むしかなかった。沖縄戦の日本軍は、塹壕に籠城して、アメリカ軍の膨大な爆弾と銃弾に最後に全滅するまで抵抗した。アメリカ軍海兵隊の機関誌「ガゼット」の1945年7月号には、アメリカ軍が日本軍を壊滅する武力として、人類史上から駆使された最も原始的な火力が沖縄戦では最も威力を発揮した。
 アメリカ軍は塹壕の正面入り口を爆破して、日本軍をガソリンを注いで火炎放射器で攻め寄せた。アメリカ軍は火炎放射器を備えた重装甲車により、日本軍の陣地をひとつずつ焼滅する馬乗り攻撃を展開した。日本軍兵士が1人でも生き残ると、占領した地域でも背後から攻撃を受ける危険性が残った。徹底した掃討戦で日本軍の犠牲は膨大になった。アメリカ軍は、強烈な火力を動員して、日本軍兵士が塹壕から攻撃に出る猶予もなく、穴に閉じこめたまま塹壕の上から狙撃する馬乗り攻撃をかけた。自殺攻撃する日本軍兵士には、アメリカ軍兵士の背中に搭載する火炎放射兵器よりも、火炎放射戦車ははるかに脅威となった。燃料容量は4ガロン(15リッター)から290ガロン(1,102リッター)で、発射時間5-10秒から2.5分まで噴火して、範囲は40ヤード(36.6メートル)から80ヤード(73.2メートル)に達した。
 第1次世界大戦にて、ドイツ軍が初めて1917年7月にベルギーのイープル付近で、火を噴出する火炎放射兵器を使用した。太平洋戦争の諸島を占領に対して、アメリカ軍が火炎放射兵器を使用した。沖縄戦から火炎放射兵器を戦車に装着して狙撃を防御した。ベトナム戦争にて、火炎放射兵器は、非人道的な戦争兵器として国際的に認識された。アメリカ国防省は、1978年に火炎放射器の戦術的使用とさらなる開発を停止する指令を発行した。但し、火炎放射器を禁止する国際協定はない。ロシア軍は、1999年にグロズヌイの戦いでチェチェン反乱軍に対して火炎放射器を使用した。



2019年12月22日日曜日

銃殺されたモロ人剣士は、ジュラメンタードの自殺攻撃で、1910年3月9日にアメリカ軍第2騎兵隊のロドニー将校を殺害した。

フィリピンのモロ人が、フィリピンのセブ島のアストゥリアスにおいてアメリカ軍に対して反乱を起こした。モロ人剣士はジュラメンタード(Juramentado)の自殺攻撃により、1910年3月9日にアメリカ軍の第2騎兵隊のロドニー将校を殺害した。モロ人剣士は、アメリカ軍兵士により銃殺されて、イスラム教徒として殉教死した。占領と侵略をするアメリカ人兵士や警察に対抗して、ジュラメンタードと呼称され、殺されることを予期して、殉教の形態としてジハードをする自爆攻撃を挙行した。ジュラメンタードは、イスラム教徒のジハードによる無差別な暴力行為とは異なり、イスラム教徒でなくてもジュラメンタードは犠牲的で、計画的で、時には非常に熟練した殺人者となり、鋭い武器で武装した武勇な自爆攻撃を達成した。
 アメリカは米西戦争後に、ミンダナオ島とスールー諸島を含むフィリピンの領土を侵略した。スペインがアメリカに敗れて以来、フィリピン列島内のスペインの植民地はすべて、パリ条約でアメリカに割譲されて、米西戦争は終結を告げた。スペイン領の植民地化に勝利したアメリカ軍に対して、モロ人は土地の引き渡しを拒否して闘争を続けた。モロ人共同体の主権に基づく紛争は、今日でも群島に影響を与え続けている。モロの反乱(1899年–1913年)は、米比戦争後にモロ人とアメリカ軍の武力紛争が勃発した。モロ人は、ミンダナオ島、ジョロ島、近隣のスールー諸島を含むフィリピン南部に居住するイスラム教徒の民族である。イスラム教徒のモロ民族は、フィリピン人、アメリカ人、日本人、スペイン人に対する暴力的な武力闘争は約400年にわたる民族解放運動であった。モロ人による抵抗運動は、フィリピンからの独立戦争へと引き続いた。スペインの侵略者との何世紀にもわたる戦争により、モロ人の間で「ジハードの文化」が生まれれた。
 近年のイスラム教系のモロ民族は、イスラム国家の分離独立を求めて1970年代にモロ民族解放戦線(MNLF)が武装闘争を展開した。1976年に政府と停戦協定を結んだが、1978年に別の武装組織がモロ・イスラム解放戦線(MILF)を設立した。1996年のジャカルタ協定の締結によりMNLFは武装解除した。2001年から内部対立による紛争が再燃した。


2019年12月21日土曜日

広島原爆の炸裂後から、焼失せず残存したコンクリート製の広島駅構内には多数の日本軍兵士が避難していた。(広島)

広島原爆の炸裂後から、広島駅構内には多数の日本軍兵士が避難していた。構内から南側の駅前広場には、全身火傷や裂傷などや原爆症で約2,000人以上もの被爆者が救護を求めて押し寄せた。翌日の8月7日には、広島駅は軍用線であった宇品線から次第に復旧して、8月8日に山陽本線が部分開通して、列車は被爆者を運搬する救援列車と物資の搬入列車となった。
 広島原爆の爆心地から約1,850mの広島市松原町の広島駅は、窓枠などは爆風で吹き飛ばされた。広島原爆の爆風は、増築したばかりのの待合室をもぎ取り、屋根は押し下げれられた。爆風後の熱線等により、火災で屋根は抜け落ち内部は全焼した。広島原爆によって、建て増し部分の待合室が倒壊し、駅舎の屋根も押し下げられて変形した後、火災によって内部は全焼した。焼け跡からは後日、待ち合わせ中の陸軍幼年学校生徒の約20人をはじめ78人の遺体が見つかった。広島駅の職員も約11人が原爆死した。広島駅のホームの方から大勢の乗客が線路を走り越えて、広島市光町の東練兵場の方に走って逃げた。広島駅では、ホームの上屋根が本線上の客車の上に落ちかかって全線が不通になった。
 広島駅は日本で最初のコンクリート駅として、1922年にモダンな駅舎に建て替えられた。山陽本線をはじめ、呉線、芸備線、宇品線が発着し、年間乗降客は1941年には約1,000万人を越えた。原爆投下当時、広島は産業的にも軍事的にも重要な都市であった。周辺に多くの軍隊の陣地があり、最も重要なのは広島城にあった南日本全土の防衛を指揮した陸軍第2軍司令部であった。広島市は日本軍にとり小規模な補給基地であり、大量の軍事備品も備蓄していた。通信センター、海運の重要な港、軍隊の集会場所でもあった。戦争産業の蜂の巣であり、飛行機やボート、爆弾、ライフル、拳銃用の部品を製造していた。当時に空襲による被害を受けていなかった京都に次いで日本で2番目の大都市であった。家は瓦屋根の木材で作られ、工業用建物の多くは木枠の周りに建てられて、広島市全体は、火災による被害を非常に受けやすくなっていた。広島の人口は、戦争の初期に約381,000人を超えていたが、原爆投下の前は、日本政府の命令による体系的な避難により人口は約340,000から350,000であった。1945年12月までに、広島市人口の半数弱の約140,000人が原爆死した。


2019年12月20日金曜日

シチリア島の戦いにて、戦死したあるいは死にかけたイタリア軍兵士たちが、パレルモの近くの道路に横たわった。

1943年7月に、第ニ次世界大戦のシチリア島の戦いにて、戦死したあるいは死にかけているイタリア軍兵士たちが、島の首都であるパレルモの近くの道路に横たわった。イタリア軍兵士は、アメリカ軍に追われている間に、イタリア軍のトラックが地雷に激突して大破した。ジープの近くでは、衛生兵がアメリカ軍将校の傷を縫合していた。1945年7月22日に、アメリカ軍はシチリア島のパレルモを占領した。その後に、イタリア本土に9月3日に侵攻した。
 1943年5月13日に、チュニジアのドイツ軍が降伏した。地中海南岸のアフリカ大陸は連合軍が占領した。連合軍は早期のヨーロッパ大陸への侵攻するために、チュニジアから空軍の支援も受けて、1943年7月10日にシチリア島へ上陸した。シチリアの枢軸軍がイタリア本土に撤退して8月17日に終結した。連合軍は約16万人のうち約23,934人が戦死傷の犠牲となった。枢軸軍は約23万人のうち約142,000人が戦死傷の犠牲となった。1943年7月24日にムッソリーニが逮捕・幽閉された。新しい政権が対外的な戦いの継続から休戦の交渉中に、連合軍は9月8日にイタリア半島の無条件降伏と休戦を表明した。この休戦に対抗して、ドイツ軍はイタリア半島全土を占領して、再びファシスト国家を樹立した。



2019年12月19日木曜日

第二次世界大戦にワルシャワ―・ゲットーでユダヤ人の死体の四肢が揺れながら、運搬車の荷台の端から突き出た。

ワルシャワ・ゲトーにおいて、ユダヤ人の死体の四肢が、運搬車の両側から落下した。死体の腕が揺れて、運搬車の荷台の端から突き出た。とても残酷な光景となった。葬儀屋は、大量の死体を墓に埋葬するために、オコポワ通りのユダヤ人墓地に、死体を積んだ運搬車を引張っていた。 死体の腕が運搬車の荷台の側面にぶらぶらと下がっていた不気味な光景であった。その背景には、ユダヤ人墓地への入り口があった。1941年9月19日の誕生日に、43歳のドイツ空軍兵士のハインツ・ヨースト (Heinz Jöst) は、ワルシャワ・ゲットーでカメラを持って散歩して違法に撮影した。ナチス・ドイツは、ワルシャワ・ゲットーの厳しい現実をカメラで撮影して記録した。ニュースやプロパガンダの写真を撮影した。ワルシャワ地域はドイツの多数の軍事基地を包含し、東部戦線における軍事輸送の重要な交差点としても機能した。多くのドイツ軍兵士が街を通って、ユダヤ人のワルシャワ・ゲットーを撮影した。ハインツ・ヨーストが1941年の数日間にゲットーで撮影した150枚以上の写真が残存した。その他にも約10冊の写真集が残存した。ナチス・ドイツ軍がポーランドに侵攻してワルシャワを占領して、約50万人ものポーランド系ユダヤ人を、わずか約3.86Km平方に監禁した。1940年10月2日にゲットー構築が命令されて、1940年11月16日にゲットーは封鎖された。
 ワルシャワ地域のドイツ空軍の補給部隊に勤務していハインツ・ヨースト兵士が撮影した。彼は、ワルシャワの他の写真と「ワルシャワ・ゲットー: アドルフ・ヒトラーの記録」と書かれた革製のアルバムとなった。アルバムに含まれる109枚の写真のうち、56枚はゲットーに関連するものであった。ドイツ軍兵士が寒いが晴れた日に車に乗ってゲットーに来て、歩き回って屋外で写真が撮影した。撮影の正確な日付は不明である。写真は困難な状況下のユダヤ人の生活環境で、ゲットーで路上で倒れた人々、子供たちが物乞いをして、ゲットーの路上に悲惨さを示唆した。ユダヤ人はカメラを無視するように求められたり、兵士のカメラに向かって立ち微笑んだ。ハインツ・ヨーヒトは亡くなる直前まで、写真を隠した。1987年にイスラエルの博物館に引き渡れて公表された。



2019年12月18日水曜日

カンボジア軍女性兵士が、殺害され放置された兵士の死体を見守りながら慟哭して悲しみ恨んだ。

ベトナム戦争において、北ベトナム軍は1970年3月29日にカンボジアに侵攻した。カンボジアのタインクォク(Taing Kauk)の戦いで、1970年9月13日に多数のカンボジア軍兵士らが、北ベトナム軍により殺害された。道路の土に殺害された死体の上半身に毛布をかけて顔を隠して放置して並べられた。カンボジア軍女性兵士が、その死体を見守りながら慟哭して悲しみ恨んだ。カンボジア軍兵士は、プノンペンから48マイル離れたタインクォク町の近くで北ベトナム軍と衝突して撤退した。他の地域から救援を得たカンボジア軍は、北ベトナムとベトコンから1970年10月12日にタインクォクを奪還した。
 カンボジアで1970年3月18日に軍事クーデターで、親アメリカ派のロン・ノル政権が樹立された。それに対抗するために3月29日に共産主義系の北ベトナム軍とベトコンはカンボジアに侵攻して東部から北東部を占領した。さらにクメール・ルージュは、カンボジア南部および南西部の解放区に潜在した。 1970年4月にカンボジアは、内戦状態に陥った国内の北ベトナム兵士とベトコンを駆逐するために、アメリカ軍にカンボジア侵攻を認可した。1970年4月に南ベトナム軍とアメリカ軍は、ホーチミン・ルートの途絶するために、カンボジア東部に短期間の侵攻して更に戦線を拡大して、6月には撤退した。ロン・ノル政権は、北ベトナムの侵攻に対して、カンボジア在住のベトナム人を大量虐殺した。1969年から1973年までに、アメリカ軍は親アメリカ派政権の樹立と支援と、共産主義のクメール・ルージュ勢力を排除するために、カンボジアに約50万トン以上もの爆弾を投下して焦土となった。1969年から1970年春まで、アメリカ軍はカンボジア空爆をアメリカ市民を隠蔽した。アメリカ軍の猛烈な空爆が、カンボジア国土が焦土化して大規模な飢餓となり、地域市民の反資本主義と親共産主義が大虐殺の悲劇を招いたクメール・ルージュを浸透して潜在させた。




2019年12月17日火曜日

沖縄戦に巻き込まれて、少女は親兄弟や身内にも看取られることもなく、1945年5月20日に寂しく死亡した。

太平洋戦争の沖縄戦にて、少女は親兄弟や身内にも看取られることもなく、1945年5月20日に寂しく死亡した。その放置されたままの死体の上に、アメリカ軍兵士が毛布をかけて、痛ましく見守った。沖縄の市民の疎開は海上封鎖で困難となり、約50万人の市民が残存した。逃げ場を失った市民だけなく日本軍と戦闘に参戦した市民は、凄惨な戦闘に巻き込まれ、次第に悲劇的な無差別の戦死傷の犠牲となった。沖縄での戦いは、全戦没者は約200,656人、そのうち沖縄の民間市民の犠牲者が約94,000人以上に達した。民間市民の犠牲は太平洋戦争の地上戦として日本国内最大となった。
 沖縄戦にて最も激烈な首里の戦闘が、1945年5月20日から首里が陥落した5月31日まで激突した。アメリカ軍海兵隊は、1945年5月20日朝の進撃に先立って、まず艦砲射撃、砲撃、戦車などで首里高地と55高地に猛爆撃を加えた。海兵隊は丘陵頂上で、いくつか白兵戦を交えてから、丘陵地の日本軍を壊滅した。戦車で大名岩山まで侵攻して、55高地裏側の洞窟にたてこもった日本軍と民間市民に無差別に砲撃をあびせた。一帯の陣地を確保して、55高地の下方に、さらに侵攻した。海兵隊は蜘蛛の巣の陣地に立てこもる日本軍を掃討した。5月20日の朝に、海兵隊は砲撃の援護を受けながら、大名丘陵を南東からと東から二方向から激しく攻めあげた。5月20日過ぎには軍司令部の首里にアメリカ軍が押し寄せた。日本軍は約5万人が生存するも、アメリカ軍を対抗する戦力は乏しかった。日本軍司令部は、太平洋戦争の戦場のように、戦傷者を殺害あるいは自殺を強要した。突撃が可能な者だけをアメリカ軍の射撃に身をさらし全滅して果てた。生存者は島尻地区に逃避するか、最後の一兵士と市民まで戦い抜くか重大な選択を迫られた。沖縄戦による沖縄の犠牲から、1972年の沖縄返還まで、アメリカの占領下であった。




2019年12月16日月曜日

撤退していた北朝鮮軍により、右翼として虐殺された死体が野原一面に並べられた。

朝鮮戦争で北部に撤退していた北朝鮮軍により、右翼として虐殺された死体が野原一面に並べられた。北朝鮮は人民裁判を通じて、人民軍は約13万人にものぼる市民を大量虐殺した。韓国地域の大半を占領した北朝鮮軍と左翼勢力は、韓国から撤退する過程で、韓国軍・警察・公務員の家族たちと地主などを大量虐殺した。さらに1950年9月15日の仁川上陸作戦で戦局が不利になると、急いで北部へと撤退する北朝鮮軍が韓国の市民を無差別に大量虐殺し、膨大な有力者を北朝鮮へ連れ去った。
 逆に朝鮮戦争直後の韓国軍は、南部に退却する過程で、軍と警察は転向した左翼勢力の蜂起を恐れて大挙即決処分した保導連盟事件が発生した。1950年7月26日老斤里で避難民の中に紛れ込んだ北朝鮮の遊撃隊への恐怖心と過剰防衛意識を持ったアメリカ軍によって、無差別に民間市民が無差別に大量虐殺された。
 1950年6月25日に北朝鮮軍が事実上の国境線としていた38度線を越える6.25事変により、韓国に侵略を仕掛けて朝鮮戦争が勃発した。3年間も持続した挑戦戦争で、南北の北朝鮮と韓国には膨大な犠牲者が出た。北朝鮮軍兵士や韓国軍兵士だけでなく、民間市民も含めて数百万人が戦死傷した。6.25戦争は、朝鮮半島の歴史上の戦争で最も被害が甚大となった。
 戦死者数は韓国軍が約137,899人、国際連合軍は約4,0670人、北朝鮮軍は約50,8797人、中国軍は約148,600人に昇った。 行方不明や捕虜数は韓国軍は約32,838人、国際連合軍は約9,931人、北朝鮮軍は約98,599人、中国軍は約25,600人に達した。戦傷者は韓国軍は約45,0742人、国際連合軍は約104,820人、北朝鮮軍は膨大で不詳、中国軍は約798,400も犠牲となった。6.25戦争により民間市民の被害が最も多く、韓国だけでも約100万人が死亡した。約10万人を超える戦争孤児と約1,000万人を超える離散家族が発生した。朝鮮半島の全人口の半分以上が戦争の犠牲となった。



2019年12月15日日曜日

カンボジアのシェリム・アップ州にて、子供が1990年に地雷に被爆して、両側の下腿が爆破されて切断された。

カンボジアのシェリム・アップ州にて、子供が1990年に地雷に被爆して、両側の下腿が爆破されて切断された。蚊帳の中で、苦悩しながら横たわった。1975年にカンボジアの共産主義勢力によって、強制排除された。1979年までクメールルージュによる大量虐殺、アメリカ軍による爆撃、ベトナム占領など数十年にわたる戦争のために、最も大量の約600万個もの地雷が埋められたままである。毎年数十人以上もの市民が、戦闘で残存した地雷やその他の不発弾により、被爆負傷や被爆死している。地域の道、田んぼや農地、裏庭などに埋没している。特に子供たちは、通学する道路で被爆して、犠牲者の約3分の1にも達した。地雷の目的は、人を殺すためだけでなく、手や足だけを吹っ飛ばして傷ついた兵士により必要な兵士の戦力を奪うことであった。カンボジアでは約4万人が地雷によって四肢を切断された。
 シェムリアップ北に約25kmにカンボジア地雷博物館がある。カンボジアには数百万個の地雷が地中に潜在している。シェリム・アップ州は、巨大な宗教建築であるアンコールワットの玄関口にある。アンコール・ワート付近で地雷博物館は、元クメールルージュ軍により子供兵士から徴兵されたアキ・アラーが創設した。自力で地雷を除去しては、地雷を展示して、1977年に地雷博物館を解説した。2006年に強制閉鎖されて、シェリム・アップから約40kmも離れたバンデアイスレイ寺院付近に2007年に再開設した。地雷除去する村々には、下肢や上肢が地雷で切断された子供が多くいた。すべての村には、約20%がまだ地雷原や不発弾が潜在している。特に死傷者の約70%は、カンボジアの北西部の約750kmのタイ国境沿いに集中している。地雷禁止国際キャンペーンは1997年にノーベル平和賞を受賞した。



2019年12月14日土曜日

広島原子爆弾により被爆死した被爆者の墓碑に多数の「原爆死」の文字が刻み込まれた。

広島原子爆弾により被爆死した被爆者の墓碑に多数の「原爆死」の文字が刻み込まれた。広島市の北部三滝山の墓地の一角に、原爆死の墓碑がある。年齢も若年期から高齢期まで無差別に散乱していた。広島原子爆弾によって、広島市内は被爆の犠牲者の膨大な墓場となった。市内に膨大にに散在する墓碑や墓場には、多くの「原爆死」が記載された。永久に行方不明となり身元が不明な「原爆死」となり墓石も存在しない甚大な被爆死が散在した。
 墓石には、「原爆死」した日時と年齢および名前と家族構成だけが記載された。原爆死した日時は、最も多くは広島原爆が投下された1945年8月6日の熱線と爆風である。墓碑には、四女・8月6日・原爆死・36歳、六女・8月6日・原爆死・28歳、八女・8月10日・原爆死・20歳・原爆死と刻まれた。被爆してから約1周間程度は心身には特記なかった。しかし、約1周間から10日程度で放射線により重篤な原爆症となり、約3週間程度から原爆死者数が急増した。墓碑には、ニ男・9月6日・44歳・原爆死、長男・12月4日・原爆死・59歳と刻まれた。



2019年12月13日金曜日

日中戦争で日本軍の猛烈な射撃で中国軍のゲリラ兵士が戦死傷した。

日中戦争で日本軍の砲撃で中国人兵士が戦死傷した。太平洋戦争が開戦しち翌日の1941年12月9日に、中国は正式に戦線を布告した。1941年1月1日に、アメリカ・イギリス・ソ連・中国など22国が、連合国の宣言をした。日中戦争は、国際的な包囲網が形勢された。日中戦争で日本軍の砲撃で中国人兵士が戦死傷した。四川軍が四川反日戦争から抜け出したとき、1945年7月に四川軍兵士は戦死傷症した。
 日本軍に対するゲリラ活動が頻発した。ゲリラは地下道の網目を廻らして潜伏した。日本軍がゲリラを掃討する前に避難した。抗日ゲリラの潜在する村は、絶滅して無人村とした。
 河北省豊潤藩家峡村では約1,230人を虐殺した。村民を大量虐殺して、村を焼失した。殺し、焼き尽くし、奪い尽くす三光作戦を強行した。日本軍は、1941年9月から1942年1月に湖南省の長沙を2回ほど侵略するも撤退した。1944年4月に日本軍は、大陸打通作戦で、中国大陸を南北に横断するも、八路軍・新四軍の反抗で撤退した。



2019年12月12日木曜日

北ベトナム軍から突然に奇襲を受けたアメリカ軍兵士が、致命傷を受けて死にゆく兵士を抱えながら見守った。

アメリカ軍海兵隊兵士がベトナム戦争において、ベンハイ河の南側の村に侵入した。1966年9月2日に、非武装地帯であった村にて、北ベトナム軍から突然に奇襲を受けた。アメリカ軍兵士が、致命傷を受けて死にゆく同じ部隊の兵士を抱えながら見守った。フエから北約100kmにある非武装地帯は、ベンハイ川に沿って大部分を流れ、近くの島はベトナム戦争中に北ベトナム軍によって支配されていた。
 ベトナム戦争にて、1966年9月当時は、南ベトナムの戦闘は中立とした非武装地帯の周辺に限定されていた。アメリカ軍は1966年9月からディックハウスⅣ作戦(Dickhouse)で、非武装地帯の村に侵攻した。非武装地帯を横切って南ベトナムに侵入する北ベトナム軍を侵略した。北ベトナムと南ベトナムの間の非武装地帯(DMZ)からわずか南2Km離れた地域にアメリカ軍海兵隊が上陸した。アメリカ軍は、ベトナム人村民を村から強制退去させた。アメリカ軍海兵隊が、一時的に再編成するために後退した時に、北ベトナム軍が三方向から突撃してはジャングルの茂みに潜伏した。作戦は9月18日にアメリカ軍が撤収して正式に終了した。ディックハウスⅣ作戦で、アメリカ軍兵士は約36人が戦死して、北ベトナム軍兵士は死体数から少なくとも約200人以上が戦死した。
 非武装地帯(DMZ)は、条約又は協定により、軍事施設と軍事活動または兵員を禁止する領域である。DMZは北朝鮮と韓国の38度線など、事実上の国際的な国境を形成する場合がある。多くの非武装地帯は中立の領土と見なされる。非戦闘の場合でも、戦闘を制御することは許可されない。紛争地域では軍事力を維持する側が、先に撤退した側に合意が与えられた後に、紛争地域が非武装地帯となる。


2019年12月11日水曜日

沖縄本島の山裾の塹壕の入口に、日本人の少年兵が殺害された死体が仰向けになった。

沖縄本島の山裾の塹壕の入口に、日本人の少年兵が殺害された死体が仰向けになった。アメリカ軍の火炎放射器で、少年兵は塹壕内で重度の火傷となった。塹壕内にガスが充満して窒息状態とまり入口から這い出して殺害されて仰向けになった。実戦では不十分な武装のままに、戦闘の最前線にも参戦して、多くの犠牲者を出した。鉄血勤皇隊は、アメリカ軍の戦車に爆弾を持って体当たりして自爆するために突撃させられた。アメリカ軍に対する斬り込みをさせられて射殺された。通信隊として砲弾などの中を伝令を携えて突進した。戦陣訓により、捕虜にならないように自決させられた。戦場では自分が生きるためには何でもして、人間が人間でなくなるのが戦争と元兵隊が証言した。
 太平洋戦争末期の沖縄戦の防衛のために、日本軍司令部は14歳から19歳の沖縄の学徒を防衛召集して動員した。法的根拠もなく日本軍史上初の鉄血勤皇隊を結成した。鉄血勤皇隊は、沖縄戦において陸軍二等兵として正規部隊に併合された。兵役法の改正もなく、1944年12月の陸軍省令の改正で、沖縄や諸島と台湾などに限り、14歳から17歳未満も志願して防衛招集が可能とされた。しかし、沖縄の志願は、事実上の学校ぐるみの強制となった。中学校や師範学校以外の少年は、護郷隊に編入された。戦後になっても、17歳未満である鉄血勤皇隊は、兵役法に該当せず兵士として認めていない。
 沖縄戦では、21校の中学校の全ての生徒は戦闘に動員された。14歳から19歳の男子生徒は、上級生が鉄血勤皇隊に、下級生は通信隊に編入された。15歳から19歳の女子生徒は、主に戦場の看護活動に編入された。沖縄戦により、学業半ばで、大多数の生徒が殺害された。鉄血勤皇隊の動員数は約1,780人、戦死者は約890人で、死亡率は約50%にも達した。1944年3月22日に、沖縄守備軍が創設されてから、次第に学生は軍隊に編入された。日本軍司令官が1945年6月23日に自決する直前に、鉄血勤皇隊の隊長に遊撃戦により戦闘を続けるよう命令した訓令の原文が米国立公文書館に実在した。



2019年12月11日 
Japan No War (JNW) 日本平和の市民連盟 視聴回数 340,000回

2019年12月10日火曜日

コソボのナガフ村で、数人の友人らが死体安置所から連れてきた息子の死体に母親は慟哭した。

1990年1月29日にコソボの自治を廃止するユーゴスラビア政府の決定に抗議したエルシャニ・ナシム(28歳、男性)は殺害された。数人の友人らが死体安置所から連れてきた息子の死体に母親は慟哭した。母親は、両腕を広げて嘆き悲しみ、他の人々は泣きながら集まって死体の世話をした。家族と隣人は、死体の周りを取り囲んで同情しながら悲しむ母親を慰めた。部屋の内部で女性らは、お互いを握りしめていた。キリスト教とイスラム教が共感した図像ともなり、レンブラントの絵をも連想させた。
 彼はセルビアの暴政とアルバニア人に対する文化的弾圧に抵抗する平和的な抗議に参加していて、セルビア軍親衛隊に殺害された。若者の自治主義者とセルビア軍との間にいくつかの衝突をした。1月27日にセルビア軍親衛隊は、ナガフの村から数km離れたラホヴェツの集会に行った数人の若者を待ち伏せた。1月29日に抗議者たちに実弾を発射して、約4人が死亡して、約32人が負傷した。
 10年近く経過してからコソボ紛争が勃発した。1998年3月にドレニカでセルビア軍による最初の大規模攻撃があった。1999年4月12日にアルカンと虎は準軍事的民兵であるセルビア軍がナガフの村に侵入して略奪して灰と焼いた。1999年6月には、国際刑事裁判所が戦争犯罪でアルカンを起訴した。1999年6月10日の国連決議1244に基づき、NATOはコソボ治安維持部隊(KFOR)がマケドニアおよびアルバニアからコソボに入国した。セルビア軍と武装解除されたコソボ民族主義者の対立に注意を払わなかった。2008年2月17日にコソボ議会が、コソボ共和国の独立を宣言した。しかし、国連はコソボを国家として承認できていない。(写真:ジョルジュ・メリヨン)


2019年12月9日月曜日

太平洋戦争の終結後に大東塾の14人が終戦日の8月25日午後3時に、代々木練兵場の片隅で切腹して死亡した。

太平洋戦争は、帝国日本が連合軍に敗退して1945年8月15日に降伏してポツダム宣言(第13条)「全日本国軍隊ノ無条件降伏」を受諾により終戦した。それを納得できず不服とした集団が集団自殺した。天皇のお役に立てなかった自己責任をとるのを義務とした。右翼団体「大東塾」の14人が8月25日午後3時に、代々木練兵場の片隅で切腹して死亡した。大東塾は、1939年4月3日に結成された伝統右翼であった。維新寮を、東方の大国である大東塾と改称して、大東塾が動く時は維新の決起と畏怖された。1945年にGHQにより解散されるも、1954年に再結成された。
終戦時に、降伏を阻止するクーデターが軍関係者の一部に蜂起したが未発に終結した。抵抗するゲリラ戦は勃発しなかった。その他に「尊攘同志会」の12人が終戦日に1945年8月15日に東京都港区の愛宕山に籠城して抗戦を決起した。警察官に午後6時頃に突入されて集団自殺して、10人が死亡して2人が保留された。   
 終戦に関連して自殺した軍関係者や右翼団体は約500人以上にも達した。自殺した兵士は約527人であった。極東裁判では、A級戦犯は7人のみで大多数は免責された。BC級裁判では約937人にも達した。上層には刑罰、下層には重罰となり、市民に対する復讐裁判となった。


 1945年8月14日深夜に皇居において、一部の陸軍省と近衛師団の兵士が、日本の降伏を阻止のために決起した。近衛師団長と参謀を殺害して、偽造した師団長命令で皇居を占領した。大本営幹部の説得に失敗して、一部は自殺あるいは逮捕されて、1945年8月15日正午に日本帝国が敗戦して降伏する終戦詔書の玉音放送が日本放送協会のラジオで日本全国に流れた。正式に降伏文書が調印されたのは1945年9月2日である。


1945年8月14日の御前会議にて、ポツダム宣言の受諾を最終決定した。大東亜戦争終結ノ詔書には、敗戦と降伏の言質はない。「朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ」と天皇制護持を最優先とした。Radio Tokyoの国際放送が英語訳文書(Imperial Rescript on the Termination of the War)を朗読し、外国向けに放送した。アメリカ側でも受信され、1945年8月15日付のニューヨーク・タイムズ紙に全文が掲載された。


『大東亜戦争終結ノ詔書』原文(昭和20年8月14日)

朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク 朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ

抑々帝国臣民ノ康寧ヲ図リ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遣範ニシテ朕ノ拳々措カサル所 曩ニ米英二国ニ宣戦セル所以モ亦実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス

然ルニ交戦已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海将兵ノ勇戦朕カ百僚有司ノ励精朕カ一億衆庶ノ奉公各々最善ヲ尽セルニ拘ラス戦局必スシモ好転セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス 加之敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル

而モ尚交戦ヲ継続セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ

朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内為ニ裂ク且戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ

惟フニ今後帝国ノ受クヘキ困難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル 然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所耐ヘ難キヲ耐ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス

朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム

宜シク挙国一家子孫相伝ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克く朕カ意ヲ体セヨ


"Imperial Rescript on the Termination of the War"

To Our Good and loyal subjects:

After pondering deeply the general trends of the world and the actual conditions obtaining in Our Empire today, We have decided to effect a settlement of the present situation by resorting to an extraordinary measure.

We have ordered Our Government to communicate to the Governments of the United States, Great Britain, China and the Soviet Union that Our Empire accepts the provisions of their Joint Declaration.

To strive for the common prosperity and happiness of all nations as well as the security and well-being of Our subjects is the solemn obligation which has been handed down by Our Imperial Ancestors, and which We lay close to heart. Indeed, We declared war on America and Britain out of Our sincere desire to secure Japan's self-preservation and the stabilization of East Asia, it being far from Our thought either to infringe upon the sovereignty of other nations or to embark upon territorial aggrandisement. But now the war has lasted for nearly four years. Despite the best that has been done by every one -- the gallant fighting of military and naval forces, the diligence and assiduity of Our servants of the State and the devoted service of Our one hundred million people, the war situation has developed not necessarily to Japan's advantage, while the general trends of the world have all turned against her interest. Moreover, the enemy has begun to employ a new and most cruel bomb, the power of which to do damage is indeed incalculable, taking the toll of many innocent lives. Should we continue to fight, it would not only result in an ultimate collapse and obliteration of the Japanese nation, but also it would lead to the total extinction of human civilization. Such being the case, how are We to save the millions of Our subjects; or to atone Ourselves before the hallowed spirits of Our Imperial Ancestors? This is the reason why We have ordered the acceptance of the provisions of the Joint Declaration of the Powers.

We cannot but express the deepest sense of regret to Our Allied nations of East Asia, who have consistently cooperated with the Empire towards the emancipation of East Asia. The thought of those officers and men as well as others who have fallen in the fields of battle, those who died at their posts of duty, or those who met with untimely death and all their bereaved families, pains Our heart night and day. The welfare of the wounded and the war-sufferers, and of those who have lost their home and livelihood, are the objects of Our profound solicitude. The hardships and sufferings to which Our nation is to be subjected hereafter will be certainly great. We are keenly aware of the inmost feelings of all ye, Our subjects. However, it is according to the dictate of time and fate that We have resolved to pave the way for grand peace for all the generations to come by enduring the unendurable and suffering what is insufferable.

Having been able to safeguard and maintain the structure of the Imperial State, We are always with ye, Our good and loyal subjects, relying upon your sincerity and integrity. Beware most strictly of any outbursts of emotion which may endanger needless complications, or any fraternal contention and strife which may create confusion, lead ye astray and cause ye to lose the confidence of the world. Let the entire nation continue as one family from generation to generation, ever firm in its faith of the imperishableness of its divine land and mindful of its heavy burden of responsibilities, and the long road before it. Unite your total strength to be devoted to the construction for the future. Cultivate the ways of rectitudes; foster nobility of spirit; and work with resolution so as ye may enhance the innate glory of the Imperial State and keep place with the progress of the world. 

2019年12月8日日曜日

ドイツ軍に殺害された2人のアメリカ軍兵士の死体に、イタリア人の女性がローマ解放日にバラの花びらの切り抜きを捧げた。

第二次世界大戦において、連合軍がローマを解放した1944年6月4日に、ドイツ軍主体の枢軸軍に殺害された2人のアメリカ軍兵士の死体に、イタリア人の女性と若い娘は、バラの花びらの切り抜きを捧げた。バラの花びらが墓の代用となった。女性らは、さえも墓を与えらず、放置されていた二人の男性の死体を弔慰した。連合国はローマを解放したが、イタリアの占領にはさらに約11か月も要した。イタリアにおけるドイツ軍は1945年5月2日まで降伏することを拒否した。
  連合軍のイタリア戦線は、1943年7月10日からシチリア島を侵攻して8月7日に集結した。1943年9月3日からイタリア本土のカラブリアに上陸した。イタリア戦線は、イタリア半島が山地が多く防御側に有利で、連合軍の進撃は非常に遅滞した。ローマ解放のために、1944年1月22日にイタリア本土のローマまで約70kmの港町であるアンツィオに上陸して、難攻して1944年6月5日にローマを占領した。特にローマ南部のモンテ・カッシーノで1月17日から5月18日まで、連合軍は4度にわたり攻撃を受けて、大軍を投入してドイツ軍は撤退したが、甚大な犠牲者を伴った。連合軍は膨大な約55,000人もの、ドイツ軍は約20,000人が戦傷した。特に日系アメリカ人が主体の第100歩兵大隊は約3,147人のうち戦死者が約338人にも達した。442歩兵連隊は約2,8000人のうち、約半数の1,400人も戦傷した。


2019年12月7日土曜日

広島市内の草津救護病院にて病理医が1945年10月13日に死んだ被爆者の遺体を剖検をした。

広島市内の草津救護病院にて病理医が、1945年10月13日に死んだ被爆者の遺体を剖検をした。内蔵などを取り出して、病理医が病理学的診断をするために観察した。草津救護病院の臨時剖検所は、県立病院救護所の組織に組み込まれた時に設置された。病理医は、京都府立大学の荒木正哉教授が担当した。写真は、79歳の女性が広島原子爆弾に被爆して、10月12日に被爆死した。その遺体を剖検するために、廿日市工業学校の救護所から廻送された。
 原子爆弾が投下された直後は、とても厳しい状況下で医療救護だけでなく、原子爆弾の災害の調査がされた。その過程で、多くの資料、病理標本、記録などが蓄積された。最も早期に原子爆弾の被爆による病理学的な所見は、陸軍省調査団の山科清が早期に死亡した被爆者の病理解剖の標本と詳細な記録である。陸軍軍医学校の山科清は大本営調査団らと、原子爆弾が炸裂した8月6日から2日後の1945年8月8日に、広島市内に参入した。まず膨大な被爆者が似島検疫所に収容されて死亡した遺体を、山科清博士自身が自ら執刀して解剖した時から貴重な病理解剖の所見が記録された。被爆死した遺体の組織を、病理標本を作成して顕微鏡で詳細に病理診断をした。8月10日から広島沖合の似島検疫所にて剖検を始めた。8月11日から京都帝国大学調査団も参入した。東京大学の都築正男は、広島で被爆して8月24日に死亡した女優を急性放射能症と診断して、世界初に原爆症の第1号をカルテに記載した。文部省学術研究会議の原子爆弾災害調査研究特別委員会の医学部門の責任者として8月30日に広島市内に入り、現地調査・被爆者救護にあたった。
 1945年8月29日から10月13日にかけて、広島医専の玉川忠雄は早期放射線で被爆死した19症例に病理解剖をした。被爆後間もない混乱の中、民心の悲嘆、動揺、不安その他の情勢から剖検は広島県衛生部の反対に遭遇した。脱毛、皮下溢血ほか前人未知の病態を呈する事例の多発から、変死体の処理という名目で許諾された。1例目は26歳の女性で、爆心地から約1.3Kmの鉄砲町で被爆して8月27日に死亡した。2例目は58歳の男性など、19例が剖検された。広島逓信病院の敷地内に工兵隊が建てたバラック小屋を改修して臨時剖検室とした。しかし、剖検記録、標本、写真等は連合軍最高司令官総司令部(GHQ)の主導による日米合同調査団によりアメリカ軍に強制的に徴収された。長期間にアメリカ陸軍病理学研究所(AFIP)に保留されて、1973年に日本に返還された。GHQは、9付き19日に原子爆弾の調査内容を日本人が公表することを禁止した。1946年2月から8月までの期限付きで、許可申請で認可したが、1951年まで日本人の研究発表は抑圧された。


2019年12月6日金曜日

首都のアテネと海岸沿いのテサロニキで多数の子供たちが栄養失調に陥り餓死に至った。

第二次世界大戦にて、同盟国がギリシアを1941年から1944年まで占領した。首都のアテネと海岸沿いのテサロニキにて多数の子供たちが栄養失調に陥り餓死に至った。ドイツ、イタリアとブルガリアの侵攻により、ギリシャが占領されて、膨大な飢餓と餓死が発生した。飢饉による犠牲者のほとんどは、ギリシアの主要な都市中心部であった。特に、1941年から1942年の最初の冬季が最も悲惨で死亡率が最高となった。アテネとピレウスでは、飢饉による餓死が約4万人を超えたと推定された。アテネだけでも、1日に約300人以上が死亡した。都市中心部に避難してきた難民は、難民地区の収容所に逃げ込んだ。やせ衰えた餓死の死体は、生き残って親族が配給カードを保持するためか、密かに墓地や路上に放棄された。病人や負傷者は放置されて、路上で物乞いをした。ゴミ山の周りで犬と格闘して、生物を摂食した。ギリシア全土で、略奪、拷問、処刑、民間市民の虐殺も執行された。
 早くもナチス・ドイツは、1941年5月中旬に戦利品として本国に向けて、入手可能なすべての主要な原材料と農産物を搾取した。て本国に返送された。生存するための最小限の食料と原材料も確保されなかった。占領国に支払う賠償金で、ギリシアは1942年6月には制御不能な約89倍もの超インフレに陥った。主に、下層階級、労働者、失業者、従業員が飢饉の犠牲になった。反抗的な企業は没収されて、あらゆる製品は搾取した。橋、鉄道、既存施設などが破壊された。ギリシアを北アフリカ戦線の補給基地に転換した。ブルガリアも、肥沃な地域の大半の食料を搾取して本国に返送した。逆に、イギリスが対抗してギリシアを海上封鎖して、逆に飢饉を深刻化した。1942年夏頃になってから国際赤十字が物資の分配に一部介入した。1943年頃から、ドイツ軍はギリシア人レジスタンスのよるゲリラ活動に対抗して、特に農村部で大規模な報復による村民を虐殺した。




2019年12月5日木曜日

日本軍は潘家峪の約1,237人(そのうち約650人が女性と子供)の中国人の村人を虐殺して、約1,000軒の家と住民を焼き尽くした。

1941年1月25日、日本軍は河北省豊潤県の潘家峪の村を包囲して、約1,237人(そのうち約650人が女性と子供)の中国人の村人を虐殺して、灯油とわらぶきで約1,000軒の家と住民を焼き尽くした。潘家峪の村には、惨劇の前に、約220世帯があり、これ付近は反日勢力のの常駐所であった。1941年1月25日の夜明けに、唐山、宜仙、前安、豊潤などに駐留する約3,000人以上もの日本軍が共同で派遣され、突然と潘家峪の村を包囲した。日本軍は家から家へと探索し、村の西にある大規模な穴に村人を強制連行した。その後に正午から夕方まで虐殺が引き続いた。壁に立つ日本軍のライフルと機関銃で、中国人の村人を狙い撃ちにした。家から逃避できた少数の中国人を除いて、残りはすべて虐殺された。日本軍が発砲した後も、まだあきらめず、死体の山に手榴弾を投げて、死体を爆破して粉砕した。日本軍は村中を掃討して、村人の約32人を虐殺して、死体を焼却した。約30人以上の中国人自生は、地下室で日本軍兵士に性的虐待された後に、悲惨にも虐殺された。
 日本軍による潘家峪の惨劇を三光作戦または三光政策の根拠とした。三光とは北京語で「殺し尽くし・焼き尽くし・奪い尽くす」を意味する。日本軍の過酷なふるまいに対する中国側の呼称としても用いられた。1931年~34年の国民党軍に対する瑞金掃討作戦や中国共産党の八路軍に三光作戦または三光政策が適用したと言われた。ただし、日本軍には三光作戦あるいは三光政策の記録はされていない。旧日本軍が第二次世界大戦中に河北省豊潤県潘家峪村で起こした虐殺事件について、村民委員会は日本政府を相手に中国の裁判所で訴訟を起こし、日本政府に対して潘家峪事件の被害者に対する謝罪と約60億元(約980億円)の賠償を求める準備をしていると2014年7月14日に報道された。中国の第二次世界大戦中の虐殺の被害者が、日本国内ではなく、初めて中国の国内の裁判所を通じて日本政府を相手取り集団訴訟を起こす準備がされた。


2019年12月4日水曜日

ボスニアのビイェリナでボスニア人との最初の戦闘でアルカンと虎のセルビア義勇親衛隊が、イスラム教徒の民間女性を銃殺して死体を蹴った。

1992年3月31日にボスニア北東部のビイェリナでボスニア人との最初の戦闘中に、アルカンと虎と呼称されるセルビア義勇親衛隊が、ボスニアのイスラム教徒の民間市民を銃殺して死体を蹴った。セルビア準軍隊部隊は、ボスニア戦争中に数千人を虐殺した。後にアーカンらは戦争犯罪で告発された。アルカンと虎の部隊が、ボスニアのイスラム教徒を家屋から引きずり出して街路で銃殺した。セルビア青年兵士が、左手にタバコを持ち犠牲となったうつ伏せの女性を黒いブーツの右足で蹴った。周囲には大量出血した家族らの死体が散乱した。虐殺を撮影して公表したロン・ハヴィブは、アルカンらに誘拐されて拷問を受けて、3日後に釈放された。
 セルビア義勇親衛隊は志願制によるユーゴスラビア人民軍が支援するセルビア系の準軍事組織であった。ユーゴスラビア紛争中に設立したジェリコ・ラジュナトヴィッチ(偽名アーカン)の指揮下で戦闘に加わった。その部隊はアルカンの虎と呼ばれ、クロアチア(1991年 - 1992年)、ボスニア・ヘルツェゴビナ(1992年-1995年)、コソボ(1998年-1999年)紛争に参戦した。戦車やヘリコプターを含む兵器で武装した約1万人の訓練された兵力となった。アルカンの虎がボスニア・ヘルツェゴビナのビイェリナを攻撃し、最初の民族浄化の下に約100人の非セルビア系市民は虐殺されて町を追放された。
 旧ユーゴスラビアの国際刑事裁判所は1997年9月30日にイスラム教徒集団に対する最悪のジェノサイドの戦争犯罪でアルカンを告発した。裁判前に、アルカンは2001年1月15日に、ベオグラードのホテルで暗殺された。セルビア人にとって、アルカンは敵からの憎悪と恐怖となり愛国者として埋葬された。



2019年12月3日火曜日

ナチス・ドイツ軍がポーランド占領して即決の絞首刑をポーランド人の犠牲者2人に執行して、街灯柱に吊られた。

ナチス・ドイツ軍はポーランド占領して、1941年に即決の絞首刑をポーランド人の犠牲者2人に執行して街灯柱に吊った(The black book of Poland, p68/750, 1942)。その側で2人のドイツ軍兵士が一瞥した。最も虐殺された集団の1つは、非ユダヤ人ポーランド人市民であった。ナチスは少なくとも約180万人のポーランド人市民を虐殺した。さらにナチス・ドイツ軍はレズノでポーランド民間市民を壁に沿って立たせて撃ち殺した。1939年に、ワルシャワでポーランド市民が逮捕されて、1942年にラド近くのロシ村で約54人のポーランド人が公開処刑された。ナチス・ドイツは、1939年9月1日にポーランドに侵攻して、最終的に人種的に純粋なドイツ人による地域の再定住に道を開くために、東ヨーロッパの数千万人のポーランド人や他のスラブ人を排除または根絶を望んだ。
 ポーランド侵攻の直前の1939年8月22日には、ヒトラーは指揮官に「同情や容赦なく、ポーランド系または言語のすべての男性、女性、子供」を殺害を認可した。ポーランドの情報源によると、ジェノサイドは約180〜277万人の非ユダヤ人ポーランド人と約270〜300万人のポーランド系ユダヤ人が虐殺された。ポーランド人は、ドイツ軍が無差別に一般市民を地域から排除するワパンカ政策の標的にさた。ワルシャワでは、1942年から1944年の間に、毎日約400人以上がワパンカのため虐殺された。
  約300万人の非ユダヤ系ポーランド人が、第二次世界大戦の渦中で殺害され、その大半は民間市民であった。ナチス・ドイツ軍とソビエト連邦軍によって殺害された。ポーランドに対する戦争は、アドルフ・ヒトラーの著書「我が闘争」では、東ヨーロッパ全域をドイツ人の生存圏を目的とした。1939年のポーランド侵攻の際に、親衛隊と警察部隊の特別行動部隊が戦線の後方にて民間市民の処刑した。1930年後半からの捜索リストに基づき、ドイツ人に対する抵抗勢力と疑う民間市民を社会的階級により殺害した。ポーランドは終戦までに、医師の約45%、裁判官・弁護士の約57%、教師の約15%、大学教授の約40%、上級技師の約50%、初級・中級技師の約30%、聖職者の約18%を失った。ドイツ民族(Volksdeutshe)によるドイツ陸軍部隊や自衛団もまたポーランドの民間市民の処刑に加わった。ドイツ軍に対する攻撃や殺害行為は地域全体が連帯責任を負わされ、復讐の処刑が行われた。ポーランド文化を破壊するため、ポーランド語の小学校は全て閉鎖して、学校教育を児童教育の数年間だけに制限した。
 ナチス・ドイツの目標は完全なゲルマン化であり、地域を政治的に、文化的に、社会的に、経済的にドイツ第三帝国に融合することであった。街路や都市の名前はドイツ風に変えた。特に精神病患者を殺害して根絶するために、1939年7月から秘密死にT4作戦が執行された。精神病患者の輸送の全てには親衛隊の特別部隊かによる武装隊員が付き添って、数時間後には皆殺して一人の患者も連れず戻ってきた。1939年から1945年までの期間に少なくとも約150万人のポーランド人市民がドイツ第三帝国に連れて行かれ、労働を強制された。多くは十代の少年少女であった。ドイツは西ヨーロッパからも連行されて強制労働をさせた。特に、ポーランド人は他の東ヨーロッパ人同様に劣等な存在と看做され、厳しく差別的に取り扱われた。


2019年12月2日月曜日

コンゴ民主共和国にて、1990年代後半にフツ族のルワンダ国防軍によるピグミー族の大量虐殺が撮影された。

この写真は1990年代後半に、コンゴ民主共和国(DRC)内において、フツ族のルワンダ国防軍によるピグミー(トゥワ)族の大量虐殺が撮影された。1994年のルワンダ大虐殺では、多くのピグミー族も標的にされて、人口のほぼ30%が絶滅された。同様に、多くのピグミー族はコンゴ民主共和国の内戦でも殺害された。一部の男性兵士は遺骨を見ているが、大多数は無関心で、近くの遺骨の不一致に注意を払わない。大量虐殺を取り巻く脱感力と、写真の兵士が遺骨を再確認しない。この写真はピグミーが大量虐殺に直面した非人間化を示した。ピグミー族の死後の遺骨は依然として非人道的に扱われ、一緒に投げられて処理された。ピグミー族に対する絶滅の雰囲気と感情から、虐殺事件をルワンダ政府とコンゴ民主共和国政府は無視した。
 ルワンダは、人口の約85%を占めるフツ族と、人口の14%を占めるツチ族および人口の1%を占めるピグミー族の3つの異なる民族で構成された。ベルギー人の植民地にて、ツチは権力を握り、農民のフツ族は支配された。突然、ベルギーの国内紛争により、2つの民族間の対立が勃発した。フツ族は、少数派のツチ族に対して大量虐殺した。1959年に最初の選挙が行われる前に、フツ族はツチ族に反抗し、長年の復讐を望んだ。多くのツチ族が逃避したが、他のツチ族はより過激な政権に置く改革を断行した。反乱に関与したフツ族に対する弾圧の過程で多くのフツを虐殺した。フツ族が最終的に選挙で権力を握ったとき、反ツチ族による虐殺が徐々に増大した。ツチ族は、大量虐殺の標的にされた。フツ族はすぐにルワンダ国内で権力を得た後に、潮流が変った。フツ族は、非常に長期間でツチ族を虐殺し始めた。不安定な平和を大量虐殺させました。1994年4月6日に突然、ルワンダのフツ族の大統領であるジュベナル・ハビャリマナとブルンジのフツ族の大統領のシプリアン・ヌタラミラを乗せた飛行機がキガリ空港近くで撃墜された。ルワンダ軍隊と民兵グループはツチ族とフツ族の穏健派を殺害し始めた。アガテ・ウウィリンギマナ首相と10人のベルギーのボディガードが、最初の犠牲者の一部となった。全体として、7月までに約400,000のツチ族と約800,000人フツ族の穏健派がルワンダ民兵によって大量虐殺殺された。地元の役人と政府が支援するラジオは、フツ族市民は虐殺に参加するよう伝えた。フツ族の軍事側のルワンダ国家革命運動(MRND)は、大量虐殺の奨励と組織化に関与した。亡命者側のツチ族のルワンダ愛国戦線(RPF))は、反大量虐殺側で戦争を継続した。
 大量虐殺派のフツ族のドランプ政権の勢力は、この地域を避けてザイール頭部のコンゴ民主共和国に逃亡した。フツ族のルワンダ軍側は最終的にツチ族のRPFによって敗退し、約200万人のフツ族ルワンダ難民とともにザイールに逃亡した。その他にタンザニアとブルンジにも逃亡した。RPFのパウル・カガメ大統領は、ルワンダ国内の対立と暴動を弾圧した。さらにサハラ南部のアフリカの抑圧的政権を転覆した。
 フランス軍は、ルワンダの南西部のゾーンターコイズで、ツチ族の運動を弾圧した。フランスはルワンダでフツ族軍と民兵同盟を支援していた。ルワンダの少数民族であるツチ族を殺害する勢力となった。フランスは長年にわたりルワンダのフツ族のハビャリマナ政権を武装し、訓練し、資金を提供してきた。その間、ツチ族の少数派はすでに猛烈な迫害と大量虐殺を受けた。その背景があるも、国連と背後にある大国は、大量虐殺の事実を否認して、フランスの介入を承認した。



2019年12月1日日曜日

太平洋戦争の戦場となったクウェゼリン環礁で発掘された日本軍兵士の遺骨から銃殺も推定された。

太平洋戦争の太平洋諸島において、アメリカ軍が上陸したマキン島では1943年11月24日に、タラワ島では11月25日に、日本軍は全滅した。引き続いて日本軍は、クウェゼリン環礁では1944年2月6日に、サイパン島では7月7日に、テニアン島は8月2日に、グアム島は8月11日に、アンガウル島は10月19日に、ペリリュー島は11月23日に全滅した。
 第二次世界大戦で、日本人の外国における戦死者数は、約240万人にも達した。そのうち、約半数の約127万人もの遺骨が収骨されて、約113万人もの遺骨が未回収である。その中でも、戦艦の沈没から飛行機の墜落など、海中での戦死者数は約30万人、外国の戦場で未回収の遺骨が約23万人となり、総計で約53万人は収骨が困難をきわめた。
 クウェゼリン環礁の日本軍は、1944年2月6日に全滅した。クウェゼリン環礁のエニンブル島で、2014年3月に16体の人骨が体発掘された。そのうち9体はアジア系の人骨であった。あらたにエニンブリ島で、アジア系6体の遺骨が発掘されて、そのうち5体の遺骨から死因は銃殺であると鑑定された。その上層の3体の遺骨は、両腕を伸ばした状態でうつ伏せに土中に埋葬されたと鑑定された。1体の遺骨にては、後頭部に銃痕を認められた。銃殺される直前に、バンザイ攻撃をして銃殺されて、さらに拳銃でとどめを撃たれて虐殺されたと推察された。


第二次世界大戦の犠牲となった日本人兵士と民間市民の戦死者の遺骨が約37万柱を回収した。遺骨収容など外国などから持ち帰った戦死者の遺骨のうち、遺族に引き渡せない不詳の遺骨は、千鳥ケ淵戦没者墓苑(Chidorigafuchi National Cemetery; 〒102-0075 東京都千代田区三番町2)を納骨した。この墓苑の遺骨に対する拝礼式を、皇族も参加して厚生労働省が毎年5月下旬に挙行して、環境省が墓苑を管理している。千鳥ケ淵戦没者墓苑は、1959年に閣議決定により、無宗教の戦死者の遺骨を埋葬する墓苑である。第二次世界大戦の大東亜地域で苛烈な戦闘により膨大な兵士や民間市民が戦没された。戦後に遺骨が日本に帰還して、外国から遺骨収集が開始された。千鳥ケ淵戦没者墓苑は日本に帰還した不明な戦死者の遺骨が 納骨室に納める無名戦没者の墓である。370,069柱(2019年5月27日)の遺骨が墓苑の六角堂に納骨されている。



2019年11月30日土曜日

大芝国民学校の救護所では、広島原子爆で多数の被爆者が被爆死した引取もいない死体は、校庭で火葬をして白骨を土中に埋葬し周囲には残存した白骨が散乱した。

広島原子爆弾の爆心地から約4.7kmにあった大芝国民学校(現在の広島市立草津小学校)は被爆した直後から臨時の救護所に転換した。広島原子爆弾が炸裂した1945年8月6日当日から引き続いて被爆者が護送されて、重篤者は収容された。8月中には約3,000人も越えた被爆者が集積した。治療も十分にできずに、多数の被爆者が被爆死した。多数の引取もいない死体は、草津国民学校の校庭で火葬をして白骨を校庭の土中に埋葬した。火葬場の周囲には、埋葬して残存した白骨が火葬場に散乱していた。
 広島原子爆弾が、1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂により爆心地の周辺は壊滅した。広島市内には瞬時に原爆死した被爆者の膨大な死体が散乱した。たとえ生存した被爆者には、原子爆弾から放射された猛烈な爆風や灼熱の熱線や広範囲の火災などにより、火傷や外傷などの負傷を伴って、短期間に甚大な被爆死を発生した。さらに、数週間以内に原子爆弾からの放射線の被害による被爆死が激増した。
 その死体の処理のために、生存した身内や関係者らが、広島市内の至る所で火葬して白骨化した。その周囲から行方不明の多数の白骨を集積しては土中に埋葬した。特に臨時の救護所や残存した学校や病院の付近では、被爆病死した死体を処理する火葬が連日に舞い上がった。黒こげ胴体だけの死体の判別は、ほとんどできなかった。学校の校庭の片すみを掘って、焼残りの材木を集めて火葬にした。臨時火葬場は超満員の状況であり、それに必要な燃料がなくなると、保管していた天井板まで使用して火葬作業を続けた。収容した被爆者が次々に被爆して、それを火葬する人手もたらないほどであった。 
 大芝国民学校は臨時の特設救護病院となった。広島原子爆弾の爆心地から北 2.4kmにあった。校舎が大破して、一部は焼失した。校庭に避難者があふれたため、臨時救護病院になった。8月6日は周辺は火災にかこまれ、救護に当たった者は、動かせない重傷患者を残して、一時避難しなければならなかった。しかし、火の勢いが鎮まるとともに、救護者は引き返して再び任務についた。医師2人、歯科医3人、薬剤師2人、助産婦1人がいたが、その人たちの専門を越えた不眠不休の医療活動が、切実に必要とされた。


2019年11月29日金曜日

太平洋戦争のサイパン島の戦いにて、小屋に潜伏した日本軍兵士と交戦したアメリカ軍の海兵隊員は銃殺により戦死した。

太平洋戦争のサイパン島の戦いにて、前方の小屋に潜伏していた日本軍兵士と交戦して、アメリカ軍の海兵隊員は銃殺により戦死した。白兵戦により殺害されたアメリカ軍の海兵隊員の死体は、塹壕の中に身体が縮こまってうつ伏せに横倒していた。日本軍の死闘により、侵攻が頓挫したアメリカ軍司令本部は、1944年6月24日に陸軍司令官の無能を理由としてホーランド・スミス陸軍司令官を差し替えを指令した。ところが誤ってスミス陸軍司令官と同名であったラルフ・スミス陸軍幹部を解任してしまった。アメリカ軍の陸軍側が大憤慨して、太平洋戦争にて最悪の陸軍と海軍の抗争が勃発した。その抗争に巻き込まれて、脆弱になった前線で多数のアメリカ軍兵士が、日本軍兵士に殺害された。
 アメリカ軍が、サイパン島に1944年6月15日に上陸して、アスリート飛行場を確保した。約800人のアフリカ系アメリカ人が、第二次世界大戦で初めて戦闘に参戦した。占領した飛行場を防御するために、比較的に小島のサイパン島の全域に侵攻した。日本軍がサイパン島の北部に撤退して死闘を繰り返した。7月7日には、追い込まれた約4,000人の日本軍兵士が、最多数のバンザイ攻撃をして自滅した。日本軍兵士は、お酒によった狂人のように、剣を振り上げて叫けんで突撃した。突進する日本軍兵士の悲鳴、戦傷した兵士の叫び声、耳をつんざくような銃声が発生した。さらに日本軍は、攻撃の前線に女子や子共も含む民間市民を置き去りにした。アメリカ連合軍は約71,000人が従軍して、戦死は約3,426人、戦傷は約10,364人であった。日本軍は約31,000人が従軍して、戦死は約24,000人、上官の命令による戦傷者の自殺は約5,000人、捕虜が約921人であった。サイパン島の民間市民は、約22,000人が犠牲となり、その多くは自殺した。サイパン島では、膨大な民間市民が巻き込まれ、何百もの家族が降伏しないで、自殺するために崖から海に飛び込んだ。1944年7月9日にサイパン島の戦いは日本軍が、最後のバンザイ攻撃を挙行し全滅して終結した。自殺した女子と子どもを、新聞社は「日本の女性と子供のホコリ」と称賛した。東京大学からは「勇気が輝かしい光の閃光を発して、これは歴史上並ぶことのない自殺であった」と新聞に発信した。7月18日には大本営は豹変して、集団自殺は帝国の道ではなく、敗北であると公表した。第二次世界大戦後には、国体の擁護者は民間市民への自殺を奨励した命令は偽造されたと断言した。


































Japan No War (JNW)
 日本平和の市民連盟
2019年11月29日
Blogger投稿数
総計1,200回

2019年11月28日木曜日

ベトナム戦争にて、韓国軍は1968年2月12日にフォンニィ・フォンニャット村で無差別にベトナム民間市民を大量虐殺した。

ベトナム戦争において、1968年2月12日に韓国軍の作戦地域であったベトナムのクアンナム省フォンニィ・フォンニャット村で虐殺された民間ベトナム市民の死体で、ほとんどお年寄りや子供たちであった。アメリカ軍の上等兵が、韓国軍がフォンニィ・フォンニャット村に攻撃した直後に殺害された女性と子供の死体を撮影した。アメリカ軍による1968年3月16日のソンミ村虐殺事件よりも約1ケ月前に韓国軍による虐殺事件が勃発した。韓国軍のベトナム派兵は1964年9月に非戦闘先遣部隊が送り込まれ、1965年2月に工兵部隊を中心に約2,000を派遣した。戦況が悪化して、10月には約18,000人の戦闘部隊を本格的に投入した。韓国軍がベトナムから撤退する1973年3月までに延べ約325,517人に及び、アメリカ軍に次ぐ大量派兵となった。
 ベトナムのサイゴンのアメリカ軍司令部のサムシャープ(Sam H.Sharp)大佐は、2月18日に秘密報告書1部を軍司令部参謀長のタウンゼントに提出した。そのタイトルは「1968年2月12日に韓国軍による残酷な行為の疑惑」であった。アメリカ軍は4月29日に韓国軍に虐殺事件の有無を問い合わせた。韓国軍は6月4日に、大量虐殺事件は共産主義者による陰謀であると回答した。1968年2月12日の虐殺事件。場所:クアンナム(Quang Nam)省、ジエンバン(Dien Ban)県、フォンニィ(Phong Nhi)・フォンニャット(Phong Nut)村。状況:韓国軍海兵隊の2旅団1大隊第1中隊は、並べ縦隊を組んで街を通った時に狙撃を受て、村を攻撃した。前小隊から民間人を搬送させた後は、ほとんどのベトナム人は射殺された。犠牲と損失:79人(または69人)のベトナム人女性と子供たちが銃剣で刺殺されたり銃殺して虐殺された。韓国軍海兵隊の1人が負傷した。(作戦名:グェリョン1号作戦)
 その他の虐殺事件は、1970年1月10日、ガムチャルブの軍司令部で、ロバート・クック(Robert M.Cook)大佐も秘密報告書1部を参謀長に渡した。タイトルは「1969年4月15日韓国軍海兵隊による残酷な行為の疑惑」。ベトナム民間市民が約4人が死亡して12人が負傷し、韓国軍は約1人が死亡し4人が負傷した。翌日の1970年1月11日、ロバート・クック大佐はまた、虐殺事件の報告書を、同じ関係先に送る。虐殺事件のタイトルは、「1968年10月22日韓国軍海兵隊による残酷な行為疑惑」であった。ベトナム民間市民が約22人が死亡して約16人が負傷し、韓国軍の犠牲者数は不詳であった。
 アメリカ国立公文書館は、2000年6月にベトナム戦争における韓国軍によるベトナム人民間市民の虐殺に関するアメリカ軍側の公式文書や写真の初公開を<ハンギレ21>が入手してした。アメリカ国立公文書のアーカイブ(NARA: National Archives&Records Administration)から2000年6月1日に30年ぶりに極秘が解除された。報告書は、アメリカ軍司令部におけるレポートと写真、各種添付文書で構成された。報告書は、ベトナム戦にて、韓国軍によるベトナム人の民間市民の虐殺を確認したアメリカ軍の公式文書である。それまで国防省は「韓国軍のベトナムの民間市民の虐殺疑惑」と関連文書の実在は、一貫して否定していた。報告書は、「ベトナム民間人虐殺疑惑」と関連して3つの事件を扱っている。1968年2月12日のポンニ・ポンノト村で起きた虐殺事件の報告書で最も衝撃的なのは、添付された20枚の現場写真である。この写真は、韓国軍が村を攻撃し、撤退した後に、ヴォーン(J.Vaughn)アメリカ軍軍上等兵が到着して撮影した。ほとんどの犠牲者は、女性や子供であることが明らかである。但し、ベトナム戦争の最終責任者であるアメリカ軍が作成した秘密報告書であった。








2019年11月27日水曜日

ブーゲンビル島でアメリカ軍の掃討により、多数の日本軍兵士が殺害され、死体が森林のジャングルに散乱した。

太平洋戦争のブーゲンビル島の戦いにて、1944年3月18日に日本軍兵士はアメリカ軍陣地に夜襲をかけた。それに対抗して早朝のアメリカ軍の掃討作戦により、多数の日本軍兵士が殺害された。その死体が森林のジャングルの中に散乱していた。日本軍兵士は1944年3月8日からアメリカ軍の飛行場があるタロキナ岬に侵攻したが、圧倒的な武力で壊滅した。日本軍兵士の約2万人のうち戦死傷は約13,000人にも達した。その直前から食料や武力の補給は途絶えて、栄養失調による餓死や感染症で約4,000人以上は戦病であった。アメリカ軍は、降伏する日本軍兵士も捕虜とせずに、多数を虐殺した。ボーゲンビル島の戦いは、墓島(ぼとう)と呼称された。
 ブーゲンビル島は、ニューギニア島の東に位置しているパプアニューギニアの島である。ブーゲンビル島は、約2000m級の山脈とジャングルが連なる険しい地帯であった。アメリカ軍が上陸した1943年11月1日から終戦後の8月21日の降伏まで戦闘が持続した。主にアメリカ軍はフィリピンの戦いのために1944年11月まで攻撃して、その後は主にオーストラリア軍が攻撃した。日本軍兵士に対して1944年4月に通常は約750グラムの米配給が、1944年4月に約250グラムに削減され、9月からは米配給は停止した。日本軍兵士は、食料を育てて時給自足に陥った。士気は非情に低下して、強盗、不服従、反抗なども発生した。ジャングルで、見つけるヘビ、ネズミ、ワニなど全て食い尽くした。ブーゲンビル島の民間市民は、戦前の約52,000人の人口のうち最大で約13,000人が戦争中に死亡した。約144,000人のアメリカ軍兵士のうち約727人が戦死して、約30,000人のオーストラリア軍兵士のうち約516人が死亡した。約45,000人を上回る日本軍兵士のうちで約18,500人を越えて死亡した。アメリカ軍と交代したオーストラリア軍の攻撃に対し、戦時中から戦略的にも無意味で無駄な戦闘であったとの批判がある。


2019年11月26日火曜日

インドネシア軍は、軍事作戦地域のアチェ州の自由アチェ運動と戦闘して、殺害した一味の死体を木に縛り付けて運搬した。

インドネシア政府軍は、軍事作戦地域(GOM)としたスマトラ島北部のアチェ州のバユ郡で、自由アチェ運動(GAM)の武装勢力と戦闘した。インドネシア軍は、戦闘で殺害したGAMの一味の死体を木に縛り付けて運搬して排除した。GAMに対して、1999年2月に約28人の虐殺、5月に約46人の虐殺、7月に57人の虐殺など大規模で市民を含めた無差別な虐殺事件が頻発した。2003年から2004年にかけて、GAMに対してインドネシア軍は戒厳令下で大規模な侵攻をして、GAMは甚大な損害を受けた。
 1976年から2005年にかけて、インドネシア対する分離独立を求める自由アチェ運動(GAM)により、約15,000人以上のアチェ人が虐殺された。GAMは、GAMⅠ(1976-1979)、GAMⅡ(1989年-1991年)、GAMⅢ(1999-2002年)は3段階にわたり変遷した。GAMⅠでは、大規模天然ガスの利権をめぐり闘争するも小グループで支援もなく一掃されて鎮圧された。GAMⅡでは、リハビアとイランからの資金援助されて約1,000人規模の武装勢力となって、アチェはGOMに指定された。GAMの一味の疑いある村は全焼されてたり、家族は連行されて拷問を受けて、約10,000人が虐待と虐殺の犠牲者となった。GAMⅢは、1998年にインドネシア政府の政権交替により、インドネシア軍が撤退後から、GAMの反政府運動が活発化して、約27,000人規模となって大規模な紛争を引き起こした。
 インドネシアのスマトラ島北部アチェ州で、同国からの分離・独立をもとめるアチェ人の独立運動が1953年から勃発した。インドネシア共和国は、アチェをイスラム法に基づく自治区として、1949年12月にアチェ州が設置された。1950年8月に、オランダの植民地の統合を済ませたインドネシア共和国は、1950年8月に州再編を行い、アチェ州を北スマトラ州に併合した。アチェ人の武装勢力は、1953年にインドネシア共和国から離脱し、ジャワ島西部を中心にインドネシア・イスラム国を目指した。1960年にインドネシアの反スカルノ勢力によるインドネシア統一共和国に参加した。1961年にインドネシア統一共和国が鎮圧されて、アチェ・イスラム国として再び抵抗運動をして、1963年にアチェ特別州に統合された。1976年に自由アチェ運動(GAM)が結成されて、アチェ・スマトラ国として武装闘争した。インドネシア軍が、1979年にGAMは一旦は鎮圧されたが、1989年からアチェは特別軍事作戦領域(GOM)に指定されて戦闘が再燃した。2004年12月のスマトラ沖大地震により、アチェは津波で壊滅的な震災を受けて、2005年にアチェは平和合意で武装解除して独立運動は終結した。



2019年11月25日月曜日

米比戦争の初日の1899年2月4日にサンタアナ近くの虐殺されて土中の溝に落下したフィリピン人反乱軍の死体が積み重なり散乱した。

米比戦争の初日である1899年2月4日にサンタアナ近くの虐殺されて土中の溝に落下したフィリピン人反乱軍の死体が積み重なり散乱した。1899年から1913年の間に、アメリカ合衆国のフィリピンに対する植民地戦争である米比戦争は、フィリピン人に激しい反抗を引き起こした。抵抗を鎮めるために約126,000人のアメリカ軍兵士が派遣された。アメリカ人が行った苦難、大量殺人、焼け焦げる火炎により、約400,000人のフィリピン人兵士がアメリカ軍の武力で死亡し、約100万人のフィリピン人市民が殺害されて、総計で約140万人にも達してフィリピンのルソン島の約1/6が一掃された。1899年にアメリカは、フィリピン人を教育し、キリスト教化し、文明化するために、フィリピンとの戦争を宣言して、フィリピン虐殺が始まった。1899年から1905年の間にフィリピン人がジェノサイドで殺された。虐殺が突然停止した可能性は低い。多くのアメリカ軍のフィリピン人に対する人種差別主義を示した。多くのアメリカ軍兵士が殺害を楽しむようになった。
 フィラデルフィア・レジャーのマニラ特派員は、「アメリカ軍兵士は容赦なく、男性、女性、子供、囚人と捕虜、反乱軍、10代の若者の容疑者を根絶するために虐殺した。」と1901年11月に公表した。アメリカ軍兵士は、「兵士は、平和的に降伏したフィリピン人の囚人を連行して、1時間後に反乱者を示す証拠なしで、弾丸で射殺され橋から落下して水に浮いた死体を見つけた。」「上官は殺害と焼却を命じて、殺害と焼却が多いほど喜んだ。」と証言した。死んだフィリピン人の死体が非常に多く、アメリカ軍は防御壁として使用した。「トム・ソーヤーの冒険」で最も有名な作家マーク・トウェインは、「数千人の島民を埋葬した。畑を破壊して、村を燃やし、未亡人と孤児を戸外に追い出した。残りの1千万人を、慈悲深い同化のために征服した。アメリカ国旗の星条旗を頭蓋骨と十字骨に置き換えるべきだ。」と提案した。強制収容所は密集して病気で一杯となり、約20%もの非常に高い死亡率となった。上官はすぐに町を燃やし、目の前の先住民の殺害を命令された。約1,000人もの男性、女性、子供が殺害された。フィリピン人の目撃者は「これは戦争ではなく、単に虐殺と殺人の屠殺である。」と述べた。
 1898年4月25日からフィリピンで勃発したアメリカとスペインの米西戦争が、1898年8月12日に終結した。1898年6月12日にフィリピン人は独立宣言をして、フィリピン人は独立のための闘争をした。その直後の8月14日からフィリピン占領するために、約11,000人のアメリカ軍をフィリピンに派遣した。1898年12月10日のパリ条約により、スペインはフィリピンをアメリカに譲渡した。1901年4月19日に、捕虜となった大統領が第一共和国を終結させて、フィリピンに対するアメリカの主権を認めた。1913年までフィリピンは、さまざまな地域で特にイスラム教徒の南部で、散発的な反乱闘争が続いた。


2019年11月24日日曜日

スペイン軍兵士が、モロッコ人抵抗運動に対するリフ戦争で、リフ地方のベルベル人の頭部を戦利品として吊り下げて自慢した。

スペイン軍兵士が、モロッコ人抵抗運動に対するリフ戦争にて、アマジゲのリフ地方のベルベル人を断頭した頭部を戦利品として吊り下げて自慢した。スペインの植民地政策に対して、モロッコの北部山岳地帯のリフにてベルベル人が組織的な武装闘争をしたリフ戦争が1921年から勃発した。リフ戦争は、1921年7月22日からスペインはモロッコ北東部で戦闘が勃発した。スペイン軍とリフ地域の反乱軍との軍事紛争となった。最初の年はスペイン軍は歴史的な敗北に見舞われた。スペインは敗北による母国の政治的危機により、リフ地域の植民地政策を短期的に見直した。イゲリベンの守備隊のスペイン軍の駐屯地は、厳しく包囲された5日後の1921年7月22日に、武器、装備、負傷者、病人を取り残して、メリリャに退却した。リフ共和国は、1923年1月18日に独立宣言をした。1923年9月13日にスペインでは軍事クーデターにより、独裁政権がスペイン国王から絶対的な権力を引き継いだ。
 1925年春にリフ軍はフランス領モロッコにも攻撃を仕掛け、フランス軍側に多くの死傷者が発生した。フランス政府はリフ共和国に宣戦布告し、約30万人を越す大軍で北部モロッコに侵攻した。圧倒的なフランス軍の攻勢で、リフ軍は大きな損害を受けた。壊滅的な敗北の後に、フランコ率いるスペイン軍はリフ地域で、無防備な人々に対する毒ガス攻撃で、圧倒的な武力行使した。1919年のベルサイユ条約で化学兵器は禁止されても、ドイツの支援を受けてスペインは条約を守らず毒ガスで残酷な虐殺をした。最終的には1926年5月に、スペイン軍およびフランス軍の約250,000人による数か月の激しい攻撃の1年後に、リフカビレンの最後の部族が降伏して、リフ戦争は終結した。リフ戦争で、スペイン軍は約43,500人が、フランス軍が約18,000人も犠牲となった。モロッコのリフ軍では、約10,000人の戦死と約30,000人の戦傷の犠牲を受けた。第二次世界大戦後の脱植民地化の潮流の中で、モロッコは1956年3月2日にフランスから独立宣言をした。


2019年11月23日土曜日

チェチェン紛争でグロズヌイ近郊の村で、親族が土中から掘り出した死体を検死した。

ロシア軍は反政府であるチェチェン共和国に1999年10月2日に侵攻した。 3年後まで戦争は続き、大量の墓地にはロシア軍の恐ろしい虐殺が暴露された。2002年5月13日午前3時にロシア軍兵士に誘拐されたゴラゴルスク村の4人の男性の死体が発見された。拷問、流血、認識不能な約15の遺体を含む大規模な墓地が発見さた。チェチェンの農民はイスラム教徒として、葬式のために家族に加わった。イングーシとの国境近くにあるグロズヌイの北西約50キロのゴラゴルスク付近で2002年9月8日に集団墓地が発見された。墓場の近くの土中から掘り出された村のチェチェン人の男たちの死体を、親族が検死をして確認した。この村では、ロシア軍に連行された村人が行方不明となっていた。連行された村人は拷問を受けて、虐殺されて土中に埋められた。直後の2002年10月23日にて、約42人のチェチェン人テロリストにより、モスクワ劇場占拠事件で、人人質は約129人とテロリスト約42人が死亡した。 
 1999年10月2日にロシア軍がチェチェン共和国に侵攻して、3年間続いた紛争で、ロシア軍当局は、証人の通行を厳しく制限した。住民はロシア軍や地元のチェチェン親ロシア民兵によって虐殺され、行方不明になった。失踪した人は数千人にも及んだ。死体は頻繁に、建物の廃墟、テラス、道端で発見され、時には爆発や破壊されて、拷問で刻まれた死体が、墓地から多量に掘り出された。写真の死体は、44歳の男性、20歳、50歳、37歳の男性の死体であった。5月13日に、ロシア軍兵士が民家に侵入した時は、彼らはベッドで寝ていた。襲撃で、兵士たちはマスクをして、頭は黒い目出し帽で覆われた。ロシア軍は、6人の男性を連行して、そのうち2人は3日後に道路で生存していた。生存者は、「目を覆われ、手を縛られ、装甲車で連行され、未知の建物の地下室に収容された。」と証言した。
  ロシア軍は兵士は、「あなたの不幸はあなたがチェチェン人であることである。」と述べた。彼らは裸の死体で発見され、頭はビニール袋に入れられ、首に接着剤を付けていた。非常に痩せて、食物なしで長い間に閉じ込められた。「頭部は包帯に包まれ、足がつぶれ、頭蓋骨が折れ、骨が皮膚だけ保持され、バッグに入れられ、折れた歯が口の底にあった。死体は裸で、ビニール袋に頭があった。他の2つの遺体は、身元不明で、胴体が切り取られた。」と、家族は一瞬で身内を認識するのは困難であった。大量の墓地はロシア国防省の特殊部隊に関連していた。 駐留したロシア軍は6月10日に、近隣のイングーシ共和国に退却した。集団墓地で、拷問した死体を取り除いた。6ヵ月後にプーチン大統領がチェチェン共和国の「安定化」を宣伝するも、到達方法は不明であった。チェチェンの人々は、ロシア人が排除するために追放したい人々であった。死体はロシア軍の駐屯地の近くで発見された。チェチェンではすでに大規模な墓地が発見された。2001年2月に50人以上の遺体、民間人、女性、チェチェン戦闘機が含まれた墓地は、グロズヌイ東部のロシアの主要軍事基地の近くで発見された。虐待と虐殺に関する国際調査は、戦争の開始以来、モスクワに承認されていない。チェチェン共和国南部の山岳地帯で、地面に掘られた深さ2mの穴に埋葬した。ロシア軍は、チェチェン共和国で「反テロリスト作戦」を実施したと主張した。2001年9月11日以降のテロリズムに対する世界的な作戦の一部とした。紛争により数万人が犠牲になった。ロシア政権は軍事段階が終わり、憲法の採択の国民投票が実施されると吹聴した。地雷の戦争、鉱山での紛争は続いて、ゲリラの待ち伏せは枯渇せず、人々の恐怖を焚き付けた。グロズヌイの通りでは、「私たちの強さは団結です! ロシアの他の人々との友情はチェチェンの繁栄の道です!」のスローガンを宣伝した。


2019年11月22日金曜日

ヴェルダンの戦いで、ドイツ軍兵士とフランス軍兵士の戦死体が、塹壕の中で一緒に重なって横並びに散乱した。

第一次世界対戦のヴェルダンの戦いで、フルーリー・デヴァント・ドゥモン村は崩壊した。第一次世界大戦の前夜には約422人の住民が居住した村は、フランス北東部のロレーヌ地方ムーズ県で、ヴェルダンから北東約8kmのドゥオーモン丘にあった。村の近隣でのヴェルダンの戦いで、ドイツ軍兵士とフランス軍兵士の戦死体が、塹壕の中で一緒に重なって横並びに散乱した。死者を戦場から取り除くことはできず、生きている兵士たちは悪臭を放つ腐敗した死体の横で眠り、食べ、戦うことを余儀なくされた。
 第一次世界大戦における主要な西部戦線の戦いであるヴェルダンの戦い、1916年2月21日から12月19日まで、フランス軍が約377,231人とドイツ軍が337,000と合わせて約714,231人以上の死傷者を出した。ヴェルダンの戦いに向かうドイツ軍が村に攻勢した1916年2月16日までに、村人はヴェルダンとブラスシュルムーズに避難した。2月24日にドゥオーモン砦がドイツ軍に占領されて、村は崩壊の運命を迎えた。1916年6月7日にドイツ軍は、絶え間ない砲撃によりヴォー砦を攻略して、村を最前の戦線に押し上げた。6月23日にドイツ軍が村を再占領し、その後7月11日に斜面をさらに侵攻して、ラプードリエールまで占領した。
 フランス軍は6月24日にフルーリー・デヴァント・ドゥモン村の陣地を再占領したが、まもなく失った。村はヴェルダンの戦いの重要な戦場になった。6月23日から8月18日までの間に、フランス軍とドイツ軍は、約16回にわたり交互に村を占領した。フルーリー・デヴァント・ドゥモンは崩壊して広大な荒野となり、フランス軍は村を攻撃の起点として、ドゥオーモン砦とヴォーの砦を再占領した。村は崩壊して、全てが崩壊して無人となった。それまでは、1870から71年の仏プロイセン戦争後に建設された防衛要塞により、それから19世紀後半までは平和な村であった。
   第一次世界大戦の荒廃後にフランス政府によって居住不可能と宣言された村となった。土地は汚染され、死者の遺体とともに、毒やその他の危険なガスが鉛と水銀とともに土壌に染み込んだ。村の入り口から数百mにあるドゥオーモンは、数ヶ月にわたるベル弾の戦いで死亡した数千人のフランス軍兵士の国立墓地となった。納骨堂には、ヴェルダンの戦いで戦死した約130,000人を超えるフランス軍兵士およびドイツ軍兵士の遺骨が収納された。



2019年11月21日木曜日

アッツ島の戦いで最後のバンザイ突撃をした日本軍兵士が、荒野に日本軍兵士の全員の悲惨な死体が積み重なり散乱した。

太平洋戦争において、アメリカ軍が上陸した1943年5月12日から5月29日までのアッツ島の戦いで日本軍兵士は全滅した。5月29日の真夜中に、最後となる約1,000人みの日本軍兵士の部隊が、「工兵隊の丘」にて残酷なバンザイ攻撃でアメリカ軍の陣地を襲った。突撃に衝撃を受けたアメリカ軍の後部隊は、すぐに日本軍兵士を白兵戦で撃退した。夜明け頃には、アッツ島の荒野に日本軍兵士の全員の悲惨な死体が積み重なり散乱していた。わずか19日間の戦闘により、日本軍兵士は約2,351人以上が戦死して、最後に生き残っても自殺して、残存者は約28人の捕虜のみとなった。上陸した約12,000人のアメリカ軍兵士のうち、約549人が死亡して、約1,200人以上が戦傷や病気に罹患した。太平洋諸島の戦闘では、退却する場所がなかった。日本軍にとり降伏は非常に不運であり不名誉であり、兵士は捕えられるのではなく自殺するように指示された。太平洋戦争当時に日本軍兵士の全員が死滅する「玉砕」の表現が初めて公式発表で使われたのは、1943年5月29日のアッツ島玉砕である。日本軍の大本営は、アッツ島の戦いは全滅する玉砕にもかかわらず、アリューシャン諸島の作戦を感動的な虚偽の叙事詩として賛美した。太平洋戦争当時の日本で「玉砕」の表現が初めて公式発表で使われたのは1943年のアッツ島玉砕である大本営は、アッツ島の戦い中の5月21日に、アッツ島の守備隊を放棄して見殺して、までアメリカ軍が上陸していないキスカ島の守備隊の撤退を決定した。アッツ島の玉砕を戦争遂行への天意の指揮刀と解釈して、勇士諸氏の奮闘を大忠大孝と惜しみなく讃えながら、戦争への勇気を称賛した。
 アッツ島は、北太平洋のアラスカのアリューシャン諸島の最西端である。アッツ島は、火山や山岳地帯もあり、悪天候で樹木のない不毛の地で無価値な島であった。日本軍は、1942年6月7日にアメリカの領土であったアッツ島を占領していた。アッツの戦いは、アメリカの領土で戦った第二次世界大戦の唯一の戦いである。同時に日本軍が中央太平洋で6月4日から7日まで惨敗するミッドウェイ島の戦いの直前であった。アラスカ地方の悪天候による降り注ぐ雪と雨、凍える寒さと泥などにより凍傷と壊死して、相互の兵士らは十分な装備も補給もなく悲惨な戦闘となった。最後の全滅となる突撃の前に、野戦病院の日本軍の衛生兵は手榴弾を渡して戦傷者を自滅に導いた。
 「夜二〇時本部前に集合あり。野戦病院隊も参加す。最後の突撃を行ふこととなり、入院患者全員は自決せしめらる。僅かに三十三年の命にして、私は将に死せんとす。但し何等の遺憾なし。天皇陛下万歳。
 聖旨を承りて、精神の平常なるは我が喜びとすることなり。十八時総ての患者に手榴弾一個宛渡して、注意を与へる。私の愛し、そしてまた最後まで私を愛して呉れた妻耐子よ、さようなら。どうかまた会ふ日まで幸福に暮して下さい。ミサコ様、やっと四才になったばかりだが、すくすくと育って呉れ。ムツコ様、貴女は今年二月生れたばかりで父の顔も知らないで気の毒です。お大事に。さようなら。
 敵砲台占領の為、最後の攻撃に参加する兵力は一千名強なり。敵は明日我総攻撃を予期しあるものの如し。」(辰口信夫、33歳、軍医)

2019年11月21日 
Japan No War (JNW) 日本平和の市民連盟 視聴回数 330,000回