2025年10月26日日曜日

連合軍は第二世界大戦後の1946年5月14日にベルギーのブリュセルで、第二次世界大戦の戦争犯罪人に対する絞首刑の執行をした。

連合軍は第二世界大戦後の1946年5月14日にベルギーのブリュセルで、第二次世界大戦の戦争犯罪人に対する絞首刑の執行をした。戦争犯罪人は、ナチス・ドイツの協力者であった。戦争犯罪人に絞首刑が執行され、立会人が見守る中で、ハネ板が開いて、戦争犯罪人の死刑囚は落下した。絞首刑された戦争犯罪人の囚人の死体は御棺に入れられて死刑場から搬送された。

 戦争犯罪人は、神父から最後の祝福として差し出された十字架に接吻した。アメリカ軍の憲兵に両腕を抱えられて13階段を登った。段上では死刑執行人が絞首刑のロープを最終確認した。アメリカ軍の絞首刑の規格では、高さ8フィート(2.4m)、台は8フィート(2.4m)四方であった。ニュールンベルグ・巣鴨も同様の規格であった。

 戦争犯罪人の死刑囚には、黒い頭巾、首にはメープ、手足には革紐をつけられた。戦争犯罪人の死刑囚は、死刑のハネ板の上に立つ。立会人が見守る中で、ハネ板が開いて、戦争犯罪人の死刑種はは落下した。落下式の絞首刑により、死刑囚は窒息ではなく、頚椎の断裂により、即死で苦痛は少ないとされる。その他に裁判をした上での死刑の他に、リンチによって殺害された者も多かった。


















長崎原子爆弾により少年は長崎の病院に収容された。1945年8月9日の炸裂から約5カ月がたっても、少年は重度の火傷とケロイドに苦しんでいた(にんげんをかえせ 1982年)。

長崎原子爆弾により少年は長崎の病院に収容された。1945年8月9日の炸裂から約5カ月がたっても、少年は重度の火傷とケロイドに苦しんでいた。カラー映画フィルムの記録『にんげんをかえせ(1982年)』である。

 アメリカ国立公文書館に原子爆弾の核被害を記録した未公開のカラー映画フィルムが保存された。10そのフィルムを、10フィートを1単位に、市民からのカンパにより市民運動によって日本に戻した。反核・平和の記録映画三部作『にんげんをかえせ』、『予言』、『歴史 核狂乱の時代』が製作された。国際的に上映する運動が展開されたこの「10フィート映画運動」は1980年度の日本ジャーナリスト会議特別賞を受賞した。

 原子爆弾関連で1980年からの市民運動で実現した10フィート運動の作品である。第1作は、被爆時と1980年代の被爆者の映像から核問題の本質に迫った「にんげんをかえせ」(1982年)である。第2次大戦の原爆投下直後にアメリカ軍戦略爆撃調査団が撮影した85,000フィートのフィルムの一部を日本が買い戻した。記録映画を作って国際的に上映した草の根の「10フィート運動」により、市民からの寄付をもとに3本が作られた。第2作は、核実験や原爆後遺症に悩む被害者の姿を描き、欧米8カ国で上映された「予言」(1982年)、アメリカ・マンハッタン計画、第2次世界大戦、ベトナム戦争、80年代の核配備の実態をえぐる「歴史=核狂乱の時代」(1983年)の3部作である。




2025年10月25日土曜日

1941年6月30日に、ドイツ国防軍がウクライナのリヴィウを征服した。6月30日に、リヴィウの住民たちは、リヴィウ市内の刑務所で、ソ連軍当局によって殺された人々の死体の中から親族を探した。

1941年6月30日に、ドイツ国防軍がウクライナのリヴィウを征服した。6月30日に、リヴィウの住民たちは、リヴィウ市内の刑務所で、ソ連軍当局によって殺された人々の死体の中から親族を探した。ウクライナ民族主義者の補助部隊は、ドイツ軍によるリヴィウ征服直後に、ユダヤ人市民への大量射殺を執行した。

 ドイツ軍がソ連軍を攻撃した最初の数日間は、リヴィウで反ユダヤ暴力が勃発した。イデオロギーの対立によって蒔かれ、ソビエト政権の犯罪により煽られた憎悪に街は陥った。1941年6月30日、リヴィウはドイツ国防軍部隊と、ステパン・バンデラのウクライナ民族主義者組織(OUN-B)の戦闘員を中心とするナハトイガル大隊によって占領された。1939年に始まったソ連軍の占領による赤い恐怖の後に、特にウクライナ人は、ドイツ軍とその配下のウクライナ人部隊を歓迎した。ウクライナ民族主義者にユダヤ人の登録とアーリア人からの分離を移譲した。ドイツ国防軍は、ユダヤ人を強制労働に従事させた。

 ソ連のNKVDによる囚人虐殺の犠牲者の遺体が、リヴィウの3つの刑務所で数千体が発見されたことに端を発した。ユダヤ人ボリシェヴィキと非難した後の大虐殺は、東ヨーロッパにおけるホロコーストが、ドイツ軍によって指示された。ドイツ占領後の6月30日から、リヴィウの路上でユダヤ人に対する集団暴力が起こった。ポグロムがウクライナ警察と共謀して街頭で行われた間に、ドイツ軍部隊はすでにユダヤ人が働いていた刑務所で処刑を始めていた。7月5日には最大規模に達し、約2000人のユダヤ人が街のさまざまな場所で銃殺された。




2025年10月23日木曜日

1927年4月12日の上海大虐殺で、上海の支配的な犯罪組織であるグリーン・ギャングの団員による共産主義者を処刑して殺害した。

1927年4月12日の上海大虐殺で、グリーン・ギャング(上海の支配的な犯罪組織)の団員による共産主義者を処刑して殺害した。上海大虐殺事件は、蒋介石とその同盟者・支持者が共産党を虐殺して血みどろの決別を果たした。上海大虐殺は、蒋介石の軍司令部からのラッパの音を合図に、4月12日の日の出前に始まった。白い腕章をつけ武装した三合会の一団が、労働組合員や共産党員を追い詰めた。

 1927年4月12日未明に、犯罪組織の団員は閘北、南市、浦東など、労働組合が管理する区役所を襲撃し始めた。その結果、300人以上が死傷した。労働組合は4月13日に、蒋介石を糾弾する大衆集会を組織し、数千人の労働者と学生が第26軍第2師団司令部に抗議に向かった。国民党兵士が発砲し、100人が死亡して、多数の負傷者が出た。蒋介石は上海臨時政府、労働組合、その他共産党の支配下にあったすべての組織を解散させ、国民党に忠誠を誓い、杜躍成の支配下にある労働組合を再編成した。1000人以上の共産党員が逮捕され、約300人が処刑され、5000人以上が行方不明になった。

 共蒋介石は国民党軍と上海の犯罪組織に共産主義者の粛清を命じた。1927年4月12日に上海大虐殺が勃発して、推定5~1万人が殺害された。共産主義者は国民党政府から組織的に排除され、影響力を国家から一掃され、中国全土で数百万人が処刑された。共産党側は、紅軍の創設と18年にわたる内戦に至った。1928年までに蒋介石は中国を統一し、軍閥の多くを国民党軍に編入した。共産党新生赤軍と国民党の戦いは1931年に本格化した。1931年、日本は満州に侵攻し、イギリスに代わり、中国の帝国主義の作戦を開始した。日中戦争は1937年に勃発し、日本軍は上海と南京を占領した。




2025年10月22日水曜日

2025年4月4日のウクライナ中部の都市クリヴィイ・リにおけるロシア軍のミサイル攻撃による死者は、子供9人を含む18人に上り、72人が負傷し最年少は生後3ヶ月だった。

2025年4月4日のウクライナ中部の都市クリヴィイ・リにおけるロシア軍のミサイル攻撃による死者は、子供9人を含む18人に上ったと、ドニプロペトロウシク州のセルヒイ・リサク知事は土曜日に発表した。4月4日のロシア軍の攻撃でさらに72人が負傷し、最年少は生後3ヶ月の子供だった。そのうちの約半数が病院に残り、17人が重体である。クリヴィイ・リはゼレンスキーの故郷であった。ミサイルは住宅地のすぐそばを直撃し、遊び場や普通の道路を直撃した。

 地元当局によると、ロシア軍の攻撃で約20棟のアパート、30台以上の自動車、教育施設、レストランが被害を受けた。ロシア国防省は4月4日に、部隊指揮官と西側指導者との会合が行われたレストランを、高精度ミサイルで高爆発弾頭で攻撃したと主張した。ロシア軍は、この攻撃で85人の軍人と外国人将校が死亡し、20台の車両が破壊されたと主張した。ロシア軍の主張は独自には検証できない。ウクライナ軍参謀本部はこの主張を否定した。

 その後、クリビイ・リへの無人機攻撃で女性1人が死亡、7人が負傷した。ウクライナ空軍は4月5日のソーシャルメディアに、ロシア軍は一晩で92機の無人機をウクライナに向けて発射し、51機が防空ミサイルによって撃墜されたと公表した。さらに31機のおとり無人偵察機も目標に到達しなかった。ウクライナのドネツク地方にあるロシア軍占領下の町ホルリフカでは、砲撃により1人が死亡したとモスクワのデニス・プシーリン知事が伝えた。治安当局はロシアの国営ニュースチャンネルに、ドネツク地域上空で一晩のうちにウクライナの無人機28機を破壊したと伝えた。














Warning: A dead body of a man lies on the ground after Russian rocket strike on residential neighbourhood killing civilians including children, in Kryvyi Rih, Ukraine, April 4, 2025. (Na Chasi media via AP)

2025年9月19日  
Japan No War NGO  (JNWN)
日本平和市民連盟  
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2025年10月21日火曜日

1949年1月9日に佐世保にマニラからボゴダ丸で還送された死体は4515体であり、遺骨は307柱もあった。火葬は1月13日から2月13日まで約1ヵ月もかかった。

1949年1月9日に佐世保に還送された死体は4515体であり、遺骨は307柱もあった。火葬は1月13日から2月13日まで約1ヵ月もかかった。収容所南西の海岸で、1日も早い納骨をと援護局職員は作業をつづけ、風の日も、雪の日も日曜日にも荼毘の煙が海に流れた。骨箱におさめられた後の灰は、佐世保近くの景勝の地に集められた。海外の異郷地での戦いで戦死した日本軍の戦死者の供養塔ができて、やっと故国の日本に土に還った。アメリカ軍は、それ以前には、太平洋戦争の戦場にて日本軍兵士の戦死者リストとの確認が慎重に行なわれた。その遺体の一部は マニラ郊外にてアメリカ軍の手で仮埋葬されていた。

 引揚げは生還者だけではなかった。戦没者あるいは引き揚げ途中で死亡した者も少なくない。未火葬の遺体・遺骨も帰ってきた。激戦地だったマニラから、戦没遺体が遺族に還されることになった。1949年1月9日に佐世保へ帰還したアメリカ軍の輸送船の「ボゴタ丸」に、一般人を含む遺体は佐世保郊外・野天火葬場で荼毘にふされた。火葬後、遺骨は氏名不詳者を除き、家族に引き渡された。海外戦没者の本格的な遺骨収集は、1953年から始まり現在も行われている。

 1949年1月9日に、フィリピンでの戦死者4834人の遺骨が、アメリカ軍輸送船ボゴタ丸で佐世保港に帰着した。アメリカ軍の輸送船あるボゴタ丸は、フィリピン方面で戦死した遺体・遺骨を運んだ。ボゴタ丸はもともと貨物船だった。貨物船と戦艦は造りが違い、胴の厚みも薄く、弾が当たると水圧で船が沈没する貨物船は壁がなく大きな船室であった。ボゴタ丸はフィリピン、バンコク等から日本まで1万人以上の生存した引揚者も日本の内地に運んだ。




2025年10月20日月曜日

太平洋戦争の沖縄戦にて、1945年5月にアメリカ軍の大砲の直弾を受け殺害された日本軍兵士の死体が、重機関銃の下敷きとなった。

太平洋戦争の沖縄戦にて、1945年5月にアメリカ軍の大砲の直弾を受けて殺害された日本軍兵士の死体が、重機関銃の下敷きとなった。日本軍は沖縄島の防御が強固にして、地雷を埋めて、大砲を設置して、戦闘陣地を配置した地形で攻撃をした。地下から多くの日本軍兵士が出現して、アメリカ軍は反撃を受けた。5月下旬までに日本軍も甚大な損害を被り、徐々に屈服して、5月23日の首里線から撤退した。日本軍第32軍司令官牛島満は6月22日に自決して沖縄戦は終結した。 

 1945年4月1日、アメリカ軍第10軍の6万人以上のアメリカ軍兵士と海兵隊員が沖縄に上陸して、日本本土侵攻前の最後の沖縄戦に突入した。ほぼ無抵抗で進撃したアメリカ軍は、まもなく日本軍の内陸防衛網に遭遇した。沖縄島の南端では激しい戦闘が繰り広げられた。豪雨と険しい地形が容易な移動を妨げて、自然の防御陣地が沖縄島を覆っていた。陸、海、空での激しい戦闘が3ヶ月近く続いた。硫黄島での流血と同じように、沖縄戦の惨状は、予想される日本本土への侵攻における恐ろしい死者の数を予見させた。

 アメリカ軍は4月18日までに沖縄北部の日本軍の防御を克服した。南部の日本軍の抵抗は手強いものであった。日本軍は歴史的な首里城を防御の拠点とし、防御力の高い尾根に支えられた。日本軍の防御は、散発的な日本軍の反撃と相まって、アメリカ軍の侵攻を阻んだ。最終的に、第10軍の執拗な攻撃により、沖縄の首里城は5月29日に陥落した。海兵隊は1945年6月4日から始まった水陸両用攻撃により那覇の飛行場を奪取した。

 沖縄戦は、12,000人以上の戦死者を含む49,000人以上のアメリカ軍兵士の犠牲をもたらした。戦死者の中には、最高位となった第10軍司令官サイモン・ボリバール・バックナー・ジュニア中将も含まれた。彼は6月18日、最終攻撃中に砲弾によって戦死した。この戦闘で約90,000人の日本軍兵士が戦死したが、沖縄の民間人の死者は150,000人に達した。




2025年10月19日日曜日

太平洋戦争のマニラ市街戦で、アメリカ軍に殺害された日本軍兵士の死体が1945年2月23日にイントラムスの市街路に倒れ込んだ。

太平洋戦争のマニラ市街戦で、アメリカ軍に殺害された日本軍兵士の死体が1945年2月23日に市街路に倒れ込んだ。マニラ最古の16世紀にスペインが構築した旧城壁であるイントラムロスへアメリカ軍の攻撃は2月23日午前7時30分に始まった。アメリカ軍歩兵がケソン門とパリアン門の間の城壁を破って日本軍を攻撃した。パシッグ川を渡り、政府造幣局の近くで日本軍と交戦した。 
 1945年2月3日は、アメリカ軍はサント・トーマス大学に収容された約3,700人以上の連合軍兵士を解放して。マニラの戦いが勃発した。1945年3月3日には、アメリカ軍がマニラのダウンタウンにある立法府と大蔵省のビルを占領するまで、第二次世界大戦で最も激しい市街戦が勃発した。市街戦がマニラの通りごと、ビルごとで繰り広げられた。マニラ市街地は廃墟と化した。マニラの戦いで、1010人のアメリカ軍が死亡し、5500人以上が戦傷した。アメリカ軍と日本軍の占領と奪還の戦いの余波から、10万人以上のマニラ市民もフィリピンの首都解放の戦いで命を落とした。日本軍兵士は少なくとも16,000が戦死した。
 アメリカ軍は、戦車と砲兵が至近距離で直接射撃を行い建造物を破壊した。爆発物を携行する工兵と、火炎放射器・手榴弾・バズーカ砲・その他の小火器で武装した歩兵が侵攻を支援した。建物内に入ると、火炎放射器と小火器射撃を用いて建物を制圧した。川南岸の日本軍が籠城する地域では、男女や子供に至るまでが組織的に虐殺される事態が発生した。マニラの戦いでは、戦火に巻き込まれた民間市民の危険性と犠牲も浮き彫りにした。



2025年10月18日土曜日

アルジェリア戦争で、1958年以降にアルジェリアのブーメルデス県の首都バクエル・オアドで、フランス統治を望む極右のテロ組織(OAS)による爆弾テロが行われた。

アルジェリア戦争で、1958年以降にアルジェリアのブーメルデス県の首都バクエル・オアドで、フランス統治を望む極右のテロ組織(OAS)による爆弾テロが行われた。アルジェリア民族解放戦線(FLN)とフランスのド・ゴール大統領との独立交渉を阻止するために、フランス統治を望む極右のアルジェリア系フランス人や将校たちは、テロ組織(OAS)を組織して、爆弾テロを起こした。バクエル・オドアは、1962年3月からアルジェリア戦争の最後の数ヶ月間は、フランス臨時行政府の所在地であった。

 アルジェリア戦争は、1954年11月1日から1962年7月30日にかけてのフランスとアルジェリア民族解放戦線(FLN)との間の武力紛争てあり、アジェリアががフランスからの独立を勝ち取るきっかけとなった。FLNの影響力のキャンペーンが広がるにつれ、いくつかの町や都市でイスラム教徒のアルジェリア人たちによる血なまぐさい無差別の虐殺や爆破が相次いだ。アルジェの戦いでFLNは紛争を都市に持ち込み、1956年9月30日からゼネストを呼びかけ、公共の場所に爆弾を仕掛けた。アルジェリア戦争でアルジェリア人が150万人以上(フランス公式14万人以上)が死亡して、17,456人から30,000人のフランス軍兵士が死亡した。

 アルジェリア市民の1000万人に対し、現地のヨーロッパ人はわずか100万人。状況 を判断したド・ゴールは、1962年、エビアン協定によりアル ジェリアの政治的独立を承認。 これによりアルジェリア系フランス人(OAS)の多くは母国に帰ることになる。1962年7月3日、フランスはアルジェリアの独立を正式に承認した。




2025年10月17日金曜日

タンマサート大学虐殺事件は、タイ王国で1976年10月6日のクーデターの過程で発生した事件である。5〜6体の死体が密集して並べられた。男性がレンガを使って長い木片を打ち込んでいる。

1976年10月6日に、タイのタマサート大学構内で、国境警察や右翼大衆組織により、多数の学生や市民が虐殺とリンチされた。10月6日事件と血の水曜日事件は、タンマサート大学虐殺事件は、タイ王国で1976年10月6日のクーデターの過程で発生した事件である。5〜6体の死体が密集して並べられた。男性がレンガを使って長い木片を打ち込んでいる。

 タマサート大学虐殺事件は、タイ警察による暴力的な弾圧と、準軍事組織および右翼暴徒による法外殺害によって死者を出す事件となった。タプラチャン通りとサナムルアンにあるタマサート大学内とその前にて、左翼の学生や抗議者たちが虐殺された。元軍事政権の首相のタノム・キティカチョーン元帥の9月19日の帰国に反対する学生、労働者、デモ参加者による抗議活動、行進、タマサート大学占拠者を10月6日に虐殺した。タイ警察は抗議活動を鎮圧するために軍用武器を使用し、その後右翼団体が警察と連携して自警団的な逆祭を実行した。公式の45人から500人もの死者が出た。死因には銃創、殴打、焼死なども含まれた。

 1973年10月14日の事件以後に、ベトナム・カンボジアなど近隣諸国に共産主義勢力と様々な右翼グループが出現した。左派運動に破壊工作を仕掛け、複数回に死者を出す事態を招いた。軍事派閥が新たなクーデターを画策した。1973年10月14日の蜂起は、タノム軍事政権を打倒し、タノムはタイから隣国シンガポールへの逃亡を余儀なくされた。 




2025年10月16日木曜日

第二次世界大戦の西部戦線にて、1940年のアラスの戦いで、イギリス軍兵士はドイツ軍の銃弾で殺害された。その付近を、ドイツ軍将兵を乗せたジープが草原の中を滑走した。

第二次世界大戦の西部戦線にて、1940年のアラスの戦いで、イギリス軍兵士はドイツ軍の銃弾で殺害された。その付近を、ドイツ軍将兵を乗せたジープが草原の中を滑走した。後部座席のドイツ軍兵士が、イギリス軍兵士の死体を一見した。

 1940年5月21日までにフランス軍は弱体した。ドイツ軍装甲部隊は、アルデンヌの森を突破し、英仏海峡沿いのフランス軍港湾に向かって進撃した。フランス北部とベルギーで戦っていたイギリス遠征軍とフランス軍、南部で戦ったフランス軍本隊の間を連携する蝶番が破壊された。ドイツ軍を断ち切ろうと、イギリス軍・フランス軍の戦車と歩兵はアラスで攻撃を開始した。

 イギリス軍は混乱して士気を失いつつあり消耗した。装甲、歩兵、砲兵は連携が困難であった。ドイツ空軍は制空権を掌握した。5月21日の午後に、2列のイギリス軍の攻撃が開始され、戦車がドイツ軍補給部隊の側面に侵入して打撃を与えた。イギリス軍は、戦車が侵攻するも、支援歩兵の不在が戦況を困難にした。

 ドイツ軍の大砲は、イギリス軍に反撃を開始した。ドイツ軍歩兵はイギリス軍戦車を後方に撤退させて、後方に続くイギリス軍歩兵を抑えて戦闘を再開した。イギリス軍の部隊間とフランス軍間の混乱と連携不足からついに攻撃を中止した。イギリス軍の機甲部隊は16kmに侵入し、数百人のドイツ軍を捕捉し、ドイツ軍の補給部隊を一時的には混乱に陥れた。

 長期的には、アラスの戦いは、アドルフ・ヒトラーと多くの将軍に、イギリス軍の攻撃を過大評価し、攻撃の前触れを怯えた。沿岸部でのドイツ軍の作戦を支援し続けずに、アラス周辺にイギリス軍を封じ込めの措置を要求した。ヒトラーの中止命令により、イギリス軍とフランス軍を救うダンケルクからの避難を容易にした。アラスの戦いでは、イギリス軍は約500人が死傷して、ドイツ軍は約350人が死傷した。




2025年10月15日水曜日

2025年7月20日に、パレスチナのガザ地区で、援助を受けていたパレスチナ人60人以上がイスラエルの攻撃を受けて殺害された。アル・シーファ病院前の床には殺害された死体が横たわった。

2025年7月20日に、パレスチナのガザ地区で、援助を受けていたパレスチナ人60人以上がイスラエルの攻撃を受けて殺害された。アル・シーファ病院前の床には殺害された死体が横たわった。援助を求めるパレスチナ人は連日攻撃を受け続けている。ガザ地区では飢餓が深刻なレベルに達し、多くの人が食料を得るために命を危険にさらした。

 イスラエル軍のデータベースによると、ガザの死者の少なくとも83%は民間人だった。ガザの死者の83%以上が民間人であり、確実な民間人の死者の割合は86%以上になる。2025年5月の機密情報により、イスラエルはガザ攻撃で約8,900人の戦闘員を殺害した。ハマスとパレスチナ・イスラム聖戦(PIJ)の武装勢力の死者数は、戦争のイスラエル軍当局が公式の内容と大きく矛盾した。民間人と過激派の死傷者の比率は1対1か2対1である。イスラエル軍は、軍事情報総局がデータを管理する。ハマス過激派の死傷者数の集計とみなした。ガザのパレスチナ人4死者数の47,653人のリストが含まれた。そのうち34,973人をハマスの活動家、12,702人をイスラム聖戦の活動家とした。 

 イスラエル軍は2023年10月7日以降、約8900人の工作員を殺害した。そのうち7330人が殺害された。残りの1570人が死亡の可能性と記録された。合計750人のうち、100~300人のハマス幹部工作員を殺害した。ガザ保健省が毎日発表した全体の死者数は、イスラエル軍でさえ、数値は信頼できると考えている。犠牲者比率を計算することができる。殺した数が多ければ多いほど成功して、殺した人数に嘘をついた。すべての空襲で、数百人のテロリストが殺害されても、彼らはテロリストではない。イスラエルが殺害したのは過激派のの5分の1にすぎない。















Warning: Bodies of Palestinians killed while seeking aid, Al-Shifa Hospital, Gaza City, northern Gaza Strip, July 20, 2025. (Yousef Zaanoun/Activestills)

2025年10月14日火曜日

第二次世界大戦にてベルリン郊外で1945年4月にソ連赤軍の侵攻によりドイツ・ミュンヘベルク装甲師団のパンサー戦車は崩壊した。その周囲にドイツ軍兵士の死体が散乱した。

第二次世界大戦にてベルリン郊外で1945年4月にソ連赤軍の侵攻によりドイツ・ミュンヘベルク装甲師団のパンサー戦車は崩壊した。その周囲にドイツ軍兵士の死体が散乱した。1945年3月12日に師団の兵力は6,836名であり、4月13日には、師団の兵力は2,000人まで損失した。

 ナチス・ドイツ末期に、1945年3月に兵力不足から必然的な敗北を迎えないため、ドイツ軍は最後の必死の予備兵力をベルリンに結集させた。ミュンヘベルク・パンツァー師団は1945年3月8日に、ドイツのミュンヘベルクで編成を開始した。3月18日には、歩兵大隊の兵士が師団の戦力補強に使われた。ソ連軍がミュンヘベルク近郊に進撃すると、ミュンヘベルク師団は、東部戦線に移動を命じられた。3月22日に、キューストリン回廊を切断するソ連軍の大規模な作戦が開始された。3月27日に、ソ連軍の反撃が兵師団に襲いかかり、やがて攻撃は混乱に陥り、無秩序な撤退を余儀なくされた。

 4月16日、ソ連赤軍はベルリンの占領を目指して、アルテ・オーデル川を横断する攻撃を開始した。4月20日に、ミュンヘベルク師団はベルリンに撤退した。4月26日に、ミュンヘンベルク師団は、ソ連軍の反撃により進撃はすぐに停止した。4月27日早朝に、ヒトラーはソ連赤軍の進撃を阻止するため、ベルリンの地下坑道への浸水を命じた。トンネルに避難した多くのドイツ軍兵士や民間人が溺死した。地下鉄アンハルター駅に、突然に駅に水が流れ込み、叫び声、すすり泣き、罵声して、多くの人々が溺死した。4月30日、ヒトラーは自決した。5月1日までに、ミュンヘンベルク師団はティアガルテンに押しやられた。5月3日、ミュンヘベルク師団はソ連赤軍の砲火を浴び、ソ連軍に包囲され消滅した。




2025年10月13日月曜日

パレスチナ武装勢力は、2002年4月22日にガザ市中心部の道路であるアルジャラ通りでイスラエルへの協力者である25歳のパレスティナ人を射殺した。ガザ中心部で銃殺隊員によりアシュラフ・アウィダの処刑をした。

パレスチナ武装勢力は、2002年4月22日にガザ市中心部の道路であるアルジャラ通りでイスラエルへの協力者である25歳のパレスティナ人を射殺した。ガザ中心部で銃殺隊員によりアシュラフ・アウィダの処刑をした。イスラエルのシオニスト諜報機関のために働くパレスチナ人諜報員として雇用された。シオニストに諜報情報を送ったパレスティナ人諜報員らによって、ハマスを創設した幹部工作員のサラー・シェハデーの暗殺に繋がった。

 サラー・シェハードはパレスティナの武装組織ハマスの創設者の一人であり、その軍事部門の司令官であった。1987年12月にはハマスと軍事部門を創設した。イスラエル軍に2002年7月23日に爆撃してシェハードを暗殺される前の2年間、シェハードはハマスの軍事組織のテロ基盤を計画、開発、育成していた。シェハードは「歴史的パレスチナ」のすべてを、ユダヤ人から完全かつ即座に解放される宗教的義務がある神聖なイスラム領土とみなしていた。自爆テロ攻撃で、2002年1月9日に4人のイスラエル軍兵士の殺害や、2002年3月7日にアッツモナで5人の高校生を虐殺した。

 ジハードは、歴史的なパレスティナを、ユダヤ人から解放する宗教的義務がある神聖なイスラム領土とみなした。シェハードはジハードを正攻法とするイスラム過激派を育成した。パレスチナの若者にとって、イスラム教の非信者に対するイスラム戦争であるジハードの特攻隊に志願することは名誉なことだと考えていた。女性や若い女の子を自爆テロリストとして使うことを宗教的に承認するための原則も示した。




2025年10月12日日曜日

1994年4月にルワンダにて、ツチ族はムランビに連行され誘導され連行されて、ムランビ技術学校には約5万人が集められてフツ族にほとんどが虐殺された。

1994年4月の2週間にわたり、ツチ族はムランビに連行されて、誘導されて、あるいは連行されて、ムランビ技術学校には約5万人が集められた推定される。ムランビのツチ族の抵抗を弱体化させる効果があった。ムランビに逃れたフツ族には、虐殺に巻き込まれないように分離されて、私立の中学校の安全な場所が与えられた。5万人のムランビ虐殺で生き延びたのはわずか34人であった。

 フツ族がツチ族の家を放火して、ギコンゴロの教会に逃げ込んでから、ムランビ技術学校に誘導されて避難した。1994年4月21日に学校を包囲して、フツ族が本格的な銃と手榴弾による攻撃が開始された。ムランビ技術学校は丘の上で、両側が開けて隠れ場所がなかった。ツチ族は本校舎、教室、外で隠れて殺害された。4月22日に、フツ族の指導者とフランス軍兵士は集団墓地を掘るためにブルドーザーを組織した。

 1995年9月にギコンゴロ県で掘り起こされたツチ族の犠牲者の死体は、密に詰め込まれ、酸素は浸透せずに、死体はほとんど腐敗してなかった。ムランビはルワンダにある6つの国立ジェノサイド記念施設のひとつである。学校の教室には、保存された848体の死体が木製のテーブルの上に展示されている。白木のラックに死体が横たわった。石灰で覆われた実際の死体がに、まだ髪の毛が残った。集団墓地から腐敗していない死体を保存した。




2025年10月11日土曜日

1993年のモスクワ騒乱で、ロシア最高会議ビルに反乱勢力が立て籠もった。国防軍の戦車部隊による砲撃が行われ、反乱勢力のグリーンがいた部屋も直撃を受けて殺害された。

1993年のモスクワ騒乱にて、ロシア最高会議ビルに反乱勢力が立て籠もった。国防軍の戦車部隊による砲撃が行われて、反乱勢力のグリーンがいた部屋も直撃を受けて殺害された。騒乱終結後には、ロシア政府の検死官が反乱勢力の死体を検死をされた。

 1993年10月のクーデターは、ロシア連邦のモスクワで9月21日-10月4日に内政紛争が勃発した。モスクワの路上での武力衝突とそれに続く軍隊の行動を伴い、その間に少なくとも158人が死亡、423人が負傷またはその他の負傷を負った。ボリス・エリツィンはロシア大統領の権限を行使し続け、政府と治安機関の指導部に支持された。10月3日に、デモ隊はソビエト連邦議事堂の包囲網を突破し、モスクワ市庁舎を占拠した。10月4日に、エリツィンに忠誠を誓う機動隊がモスクワに集結し、ホワイトハウスに戦車を撃ち込み、建物を襲撃した。出来事の結果、ロシアは半権威主義体制を確立し、管理された民主主義と超大統領制を確立した。

 1992年9月17日に、ロシア統一議会の代表は記者会見で、エリツィン大統領とロシア政府の打倒を宣言した。1993年9月21日に、ロシア大統領ボリス・エリツィンは政令第1400号を公布し、最高権力機関である人民代議員会と常設の立法機関の活動を停止するよう命じた。最高会議と臨時人民代議員会は、大統領の法令を拒否した。10月3-4日に、エリツィンは、モスクワの中心部に入った軍隊は、ソビエトのホワイトハウスを戦車の砲火にさらし、建物を襲撃し、蜂起の残りの指導者たちを逮捕した。爆発の後に、機動隊とAPCはテレビセンターの外の群衆に自動小銃を撃ち始め、少なくとも46人が死亡した。10月4日に、国防軍がホワイトハウスを襲撃した。最高ソ連ビルを砲撃した。




2025年10月10日金曜日

(日本国内閣総理大臣所感) 戦後80周年に寄せて 石破茂首相の戦後80年所感(全文) 2025年10月10日

 石破茂首相の戦後80年所感(全文) 戦後80年に寄せて 2025年10月10日

(はじめに)

 先の大戦の終結から、80年がたちました。この80年間、わが国は一貫して、平和国家として歩み、世界の平和と繁栄に力を尽くしてまいりました。今日のわが国の平和と繁栄は、戦没者をはじめとする皆さまの尊い命と苦難の歴史の上に築かれたものです。私は、3月の硫黄島訪問、4月のフィリピン・カリラヤの比島戦没者の碑訪問、6月の沖縄全戦没者追悼式出席およびひめゆり平和祈念資料館訪問、8月の広島、長崎における原爆死没者・犠牲者慰霊式出席、終戦記念日の全国戦没者追悼式出席を通じて、先の大戦の反省と教訓を、改めて深く胸に刻むことを誓いました。これまで戦後50年、60年、70年の節目に内閣総理大臣談話が発出されており、歴史認識に関する歴代内閣の立場については、私もこれを引き継いでいます。過去3度の談話においては、なぜあの戦争を避けることができなかったのかという点にはあまり触れられておりません。戦後70年談話においても、日本は「外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった」という一節がありますが、それ以上の詳細は論じられておりません。国内の政治システムは、なぜ歯止めたりえなかったのか。第1次世界大戦を経て、世界が総力戦の時代に入っていた中にあって、開戦前に内閣が設置した「総力戦研究所」や陸軍省が設置したいわゆる「秋丸機関」等の予測によれば、敗戦は必然でした。多くの識者も戦争遂行の困難さを感じていました。政府および軍部の首脳陣もそれを認識しながら、どうして戦争を回避するという決断ができないまま、無謀な戦争に突き進み、国内外の多くの無辜(むこ)の命を犠牲とする結果となってしまったのか。米内光政元首相の「ジリ貧を避けようとしてドカ貧にならぬよう注意願いたい」との指摘もあった中、なぜ、大きな路線の見直しができなかったのか。戦後80年の節目に、国民の皆さまと共に考えたいと思います。

(大日本帝国憲法の問題点)

 まず、当時の制度上の問題が挙げられます。戦前の日本には、政治と軍事を適切に統合する仕組みがありませんでした。大日本帝国憲法の下では、軍隊を指揮する権限である統帥権は独立したものとされ、政治と軍事の関係において、常に政治すなわち文民が優位でなくてはならないという「文民統制」の原則が、制度上存在しなかったのです。内閣総理大臣の権限も限られたものでした。帝国憲法下では、内閣総理大臣を含む各国務大臣は対等な関係とされ、内閣総理大臣は首班とされつつも、内閣を統率するための指揮命令権限は制度上与えられていませんでした。それでも、日露戦争の頃までは、元老が、外交、軍事、財政を統合する役割を果たしていました。武士として軍事に従事した経歴を持つ元老たちは、軍事をよく理解した上で、これをコントロールすることができました。丸山真男の言葉を借りれば、「元老・重臣など超憲法的存在の媒介」が、国家意思の一元化において重要な役割を果たしていました。元老が次第に世を去り、そうした非公式の仕組みが衰えた後には、大正デモクラシーの下、政党が政治と軍事の統合を試みました。第1次世界大戦によって世界に大きな変動が起こる中、日本は国際協調の主要な担い手の一つとなり、国際連盟では常任理事国となりました。1920年代の政府の政策は、幣原外交に表れたように、帝国主義的膨張は抑制されていました。1920年代には、世論は軍に対して厳しく、政党は大規模な軍縮を主張していました。軍人は肩身の狭い思いをし、これに対する反発が、昭和期の軍部の台頭の背景の一つであったとされています。

従来、統帥権は作戦指揮に関わる軍令に限られ、予算や体制整備に関わる軍政については、内閣の一員たる国務大臣の輔弼(ほひつ)事項として解釈運用されていました。文民統制の不在という制度上の問題を、元老、次に政党が、いわば運用によってカバーしていたものと考えます。

(政府の問題)

 しかし、次第に統帥権の意味が拡大解釈され、統帥権の独立が、軍の政策全般や予算に対する政府および議会の関与・統制を排除するための手段として、軍部によって利用されるようになっていきました。政党内閣の時代、政党の間で、政権獲得のためにスキャンダル暴露合戦が行われ、政党は国民の信頼を失っていきました。1930年には、野党・立憲政友会は立憲民政党内閣を揺さぶるため、海軍の一部と手を組み、ロンドン海軍軍縮条約の批准を巡って、統帥権干犯であると主張し、政府を激しく攻撃しました。政府は、ロンドン海軍軍縮条約をかろうじて批准するに至りました。しかし、1935年、憲法学者で貴族院議員の美濃部達吉の天皇機関説について、立憲政友会が政府攻撃の材料としてこれを非難し、軍部も巻き込む政治問題に発展しました。ときの岡田啓介内閣は、学説上の問題は、「学者に委ねるよりほか仕方がない」として本問題から政治的に距離を置こうとしましたが、最終的には軍部の要求に屈して、従来通説的な立場とされていた天皇機関説を否定する国体明徴声明を2度にわたって発出し、美濃部の著作は発禁処分となりました。このようにして、政府は軍部に対する統制を失っていきます。

(議会の問題)

 本来は軍に対する統制を果たすべき議会も、その機能を失っていきます。その最たる例が、斎藤隆夫衆議院議員の除名問題でした。斎藤議員は1940年2月2日の衆議院本会議において、戦争の泥沼化を批判し、戦争の目的について政府を厳しく追及しました。いわゆる反軍演説です。陸軍は、演説は陸軍を侮辱するものだとこれに激しく反発し、斎藤議員の辞職を要求、これに多くの議員は同調し、賛成296票、反対7票の圧倒的多数で斎藤議員は除名されました。これは議会の中で議員としての役割を果たそうとした稀有(けう)な例でしたが、当時の議事録は今もその3分の2が削除されたままとなっています。議会による軍への統制機能として極めて重要な予算審議においても、当時の議会は軍に対するチェック機能を果たしていたとは全く言い難い状況でした。1937年以降、臨時軍事費特別会計が設置され、1942年から45年にかけては、軍事費のほぼ全てが特別会計に計上されました。その特別会計の審議に当たって予算書に内訳は示されず、衆議院・貴族院とも基本的に秘密会で審議が行われ、審議時間も極めて短く、およそ審議という名に値するものではありませんでした。戦況が悪化し、財政が逼迫する中にあっても、陸軍と海軍は組織の利益とメンツをかけ、予算獲得を巡り激しく争いました。

加えて、大正後期から昭和初期にかけて、15年間に現役首相3人を含む多くの政治家が国粋主義者や青年将校らによって暗殺されていることを忘れてはなりません。暗殺されたのはいずれも国際協調を重視し、政治によって軍を統制しようとした政治家たちでした。五・一五事件や二・二六事件を含むこれらの事件が、その後、議会や政府関係者を含む文民が軍の政策や予算について自由に議論し行動する環境を大きく阻害したことは言うまでもありません。

(メディアの問題)

 もう一つ、軽視してはならないのはメディアの問題です。1920年代、メディアは日本の対外膨張に批判的であり、ジャーナリスト時代の石橋湛山は、植民地を放棄すべきとの論陣を張りました。しかし、満州事変が起こった頃から、メディアの論調は、積極的な戦争支持に変わりました。戦争報道が「売れた」からであり、新聞各紙は大きく発行部数を伸ばしました。

1929年の米国の大恐慌を契機として、欧米の経済は大きく傷つき、国内経済保護を理由に高関税政策をとったため、日本の輸出は大きな打撃を受けました。深刻な不況を背景の一つとして、ナショナリズムが高揚し、ドイツではナチスが、イタリアではファシスト党が台頭しました。主要国の中でソ連のみが発展しているように見え、思想界においても、自由主義、民主主義、資本主義の時代は終わった、米英の時代は終わったとする論調が広がり、全体主義や国家社会主義を受け入れる土壌が形成されていきました。こうした状況において、関東軍の一部が満州事変を起こし、わずか1年半ほどで日本本土の数倍の土地を占領しました。新聞はこれを大々的に報道し、多くの国民はこれに幻惑され、ナショナリズムはさらに高まりました。日本外交について、吉野作造は満州事変における軍部の動きを批判し、清沢洌は松岡洋右による国際連盟からの脱退を厳しく批判するなど、一部鋭い批判もありましたが、その後、1937年秋ごろから、言論統制の強化により政策への批判は封じられ、戦争を積極的に支持する論調のみが国民に伝えられるようになりました。

(情報収集・分析の問題)

 当時、政府をはじめとするわが国が、国際情勢を正しく認識できていたかも問い直す必要があります。例えば、ドイツとの間でソ連を対象とする軍事同盟を交渉している中にあって、1939年8月、独ソ不可侵条約が締結され、時の平沼騏一郎内閣は「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」として総辞職します。国際情勢、軍事情勢について、十分な情報を収集できていたのか、得られた情報を正しく分析できていたのか、適切に共有できていたのかという問題がありました。

(今日への教訓)

 戦後の日本において、文民統制は、制度としては整備されています。日本国憲法上、内閣総理大臣その他の国務大臣は文民でなければならないと定められています。また、自衛隊は、自衛隊法上、内閣総理大臣の指揮の下に置かれています。内閣総理大臣が内閣の首長であること、内閣は国会に対して連帯して責任を負うことが日本国憲法に明記され、内閣の統一性が制度上確保されました。さらに、国家安全保障会議が設置され、外交と安全保障の総合調整が強化されています。情報収集・分析に係る政府の体制も改善されています。これらは時代に応じて、さらなる進展が求められます。政治と軍事を適切に統合する仕組みがなく、統帥権の独立の名の下に軍部が独走したという過去の苦い経験を踏まえて、制度的な手当ては行われました。他方、これらはあくまで制度であり、適切に運用することがなければ、その意味を成しません。政治の側は自衛隊を使いこなす能力と見識を十分に有する必要があります。現在の文民統制の制度を正しく理解し、適切に運用していく不断の努力が必要です。無責任なポピュリズムに屈しない、大勢に流されない政治家としての矜持(きょうじ)と責任感を持たなければなりません。自衛隊には、わが国を取り巻く国際軍事情勢や装備、部隊の運用について、専門家集団としての立場から政治に対し、積極的に説明し、意見を述べることが求められます。政治には、組織の縦割りを乗り越え、統合する責務があります。組織が割拠、対立し、日本の国益を見失うようなことがあってはなりません。陸軍と海軍とが互いの組織の論理を最優先として対立し、それぞれの内部においてすら、軍令と軍政とが連携を欠き、国家としての意思を一元化できないままに、国全体が戦争に導かれていった歴史を教訓としなければなりません。政治は常に国民全体の利益と福祉を考え、長期的な視点に立った合理的判断を心がけねばなりません。責任の所在が明確ではなく、状況が行き詰まる場合には、成功の可能性が低く、高リスクであっても、勇ましい声、大胆な解決策が受け入れられがちです。海軍の永野修身軍令部総長は、開戦を手術に例え、「相当の心配はありますが、この大病を癒やすには、大決心をもって、国難排除に決意するほかありません」、「戦わざれば亡国と政府は判断されたが、戦うもまた亡国につながるやもしれぬ。しかし、戦わずして国亡びた場合は魂まで失った真の亡国である」と述べ、東条英機陸軍大臣も、近衛文麿首相に対し、「人間、たまには清水の舞台から目をつぶって飛び降りることも必要だ」と迫ったとされています。このように、冷静で合理的な判断よりも精神的・情緒的な判断が重視されてしまうことにより、国の進むべき針路を誤った歴史を繰り返してはなりません。政府が誤った判断をせぬよう、歯止めの役割を果たすのが議会とメディアです。国会には、憲法によって与えられた権能を行使することを通じて、政府の活動を適切にチェックする役割を果たすことが求められます。政治は一時的な世論に迎合し、人気取り政策に動いて国益を損なうような党利党略と己の保身に走っては決してなりません。使命感を持ったジャーナリズムを含む健全な言論空間が必要です。先の大戦でも、メディアが世論をあおり、国民を無謀な戦争に誘導する結果となりました。過度な商業主義に陥ってはならず、偏狭なナショナリズム、差別や排外主義を許してはなりません。安倍元首相が尊い命を落とされた事件を含め、暴力による政治の蹂躙(じゅうりん)、自由な言論を脅かす差別的言辞は決して容認できません。これら全ての基盤となるのは、歴史に学ぶ姿勢です。過去を直視する勇気と誠実さ、他者の主張にも謙虚に耳を傾ける寛容さを持った本来のリベラリズム、健全で強靱(きょうじん)な民主主義が何よりも大切です。ウィンストン・チャーチルが喝破したとおり、民主主義は決して完璧な政治形態ではありません。民主主義はコストと時間を必要とし、時に過ちを犯すものです。だからこそ、われわれは常に歴史の前に謙虚であるべきであり、教訓を深く胸に刻まなければなりません。自衛と抑止において実力組織を保持することは極めて重要です。私は抑止論を否定する立場には立ち得ません。現下の安全保障環境の下、それが責任ある安全保障政策を遂行する上での現実です。同時に、その国において比類ない力を有する実力組織が民主的統制を超えて暴走することがあれば、民主主義は一瞬にして崩壊し得る脆弱なものです。一方、文民たる政治家が判断を誤り、戦争に突き進んでいくことがないわけでもありません。文民統制、適切な政軍関係の必要性と重要性はいくら強調してもし過ぎることはありません。政府、議会、実力組織、メディア全てがこれを常に認識しなければならないのです。斎藤隆夫議員は反軍演説において、世界の歴史は戦争の歴史である、正義が勝つのではなく強者が弱者を征服するのが戦争であると論じ、これを無視して聖戦の美名に隠れて国家百年の大計を誤ることがあってはならないとして、リアリズムに基づく政策の重要性を主張し、衆議院から除名されました。翌年の衆議院防空法委員会において、陸軍省は、空襲の際に市民が避難することは、戦争継続意思の破綻になると述べ、これを否定しました。どちらも遠い過去の出来事ではありますが、議会の責務の放棄、精神主義の横行や人命・人権軽視の恐ろしさを伝えて余りあるものがあります。歴史に正面から向き合うことなくして、明るい未来は開けません。歴史に学ぶ重要性は、わが国が戦後最も厳しく複雑な安全保障環境に置かれている今こそ、再認識されなければなりません。戦争の記憶を持っている人々の数が年々少なくなり、記憶の風化が危ぶまれている今だからこそ、若い世代も含め、国民一人一人が先の大戦や平和のありようについて能動的に考え、将来に生かしていくことで、平和国家としての礎が一層強化されていくものと信じます。私は、国民の皆さまと共に、先の大戦のさまざまな教訓を踏まえ、二度とあのような惨禍を繰り返すことのないよう、あたう限りの努力をしてまいります。〔共同〕









https://www.kantei.go.jp/jp/103/statement/2025/1010kaiken.html (出典:首相官邸ホームページ)

https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA10A3M0Q5A011C2000000/

2025年10月7日火曜日

第二次世界大戦の東部戦線のクルスクの戦いで、ソ連軍の歩兵たちが1943年7月10日に仲間の一人が死んだり、隣で瀕死の状態になってもドイツ軍と戦い続けた。

第二次世界大戦の東部戦線のクルスクの戦いで、ソ連軍の歩兵たちが1943年7月10日に仲間の一人が死んだり、隣で瀕死の状態になってもドイツ軍と戦い続けた。クルスクの戦いで、ソ連軍の先遣部隊が、クルスクの戦いでドイツ軍の塹壕で戦った。

 7月10日には、ドイツ軍の歩兵の損耗増加とドイツ第9軍の予備兵力のすべてを投入して、12km侵攻したのみで完全に停止し、北部のドイツ軍の攻撃は5日間で終了した。7月10日からは、ドイツ軍はプロホロフカ方面に戦力を結集させて再び攻撃を開始した。ソ連軍の第48装甲軍団と第2SS装甲軍団の攻撃により、ドイツ軍の第6親衛軍と第1戦車軍は大きな損害を受けた。ドイツ軍第6親衛軍の陣地は2箇所で大きな突破口を開けらた。

 クルスクの戦いは、第二次世界大戦中の1943年に、東部戦線(独ソ戦)ソビエト連邦(以下ソ連)の都市であるクルスク周辺をめぐり、ナチス・ドイツ軍とソ連軍(赤軍)との間で行われた。北部ドイツ軍は消耗が激しく、もはや広大な戦線で大攻勢をかける力がなかったため、局地的な攻勢を行って東部戦線を安定させ、予想される西側連合国の大陸反攻に備えて必要な予備兵力を確保することが計画された。1943年7月5日から8月23日のクルスクの戦いは、第二次世界大戦の東部戦線の決定的な転換点となった。史上最大の戦車戦とドイツの攻撃力の最終的な喪失で幕を閉じた。4,000両以上の戦車と280万人の兵士を擁したクルスクは、世界史上最大の戦闘となり、ドイツ戦車部隊の墓場となった。ドイツ軍の戦死・戦傷・捕虜は364,000人、ロシア軍は863000人の犠牲を伴った。クルスクの戦い後、ドイツ軍は二度と大規模な攻勢をできず、ソ連軍は終戦まで主導権を握り続けた。




2025年10月6日月曜日

2025年6月27日、キエフに返還されたウクライナ兵の遺体を法医学専門家が死体の鑑定をした。死体安置所の奥の部屋には、肉の腐ったような強烈な臭いが漂っている。

2025年6月27日、キエフに返還されたウクライナ兵の遺体を法医学専門家が死体の鑑定をした。鑑定を終えた法医学専門家のニコライチュクと助手は、死体を白い袋に戻し、近くのトラック大の冷蔵庫に運ぶ。死体安置所に戻ったニコライチュクは、すぐに他の3つの袋に入った死体を検死した。1つは灰色のあごひげを生やした男性、もう1つは腐乱死体、もう1つは粉々に引き裂かれ、頭蓋骨が真っ二つに割れていた。

 ウクライナの首都キエフ郊外にある死体安置所の奥の部屋には、肉の腐ったような強烈な臭いが漂っている。臭いの元は、金属製のテーブルの上に置かれた大きな白い袋である。専門家が開けると、中には泥だらけの軍靴、ミイラ化した死体、頭蓋骨が入った小さな黒い袋が入っていた。ロシアの捕虜から帰還したウクライナ軍兵士の遺体はこれだけだった。彼が誰であったかを確認する作業が始まる。

 コノパツカ女史は、戦時中に、民間人と軍人を合わせて1,000体以上の遺体を鑑定した。キエフに戻ったウクライナ軍兵士の死体からDNAサンプルを採取する。何人かの死体で仕事を終えると、他の死体がすぐに運ばれてくる。戦争犯罪を調査する警察組織によれば、ロシアがウクライナに返還したウクライナ軍兵士の死体の約80%は骨やミイラ化した死体であった。中には首を切られたり、手を縛られたり、刺されたりして、すべて超法規的処刑の兆候である。ウクライナ軍兵士の死体の送還の際には、必ず兵士が立ち会って、他の遺体は解剖され、医療廃棄物の破片が縫い付けられた。











Warning: Forensic experts examine the remains of a Ukrainian soldier whose body was returned to Kyiv on June 27, 2025 / Photo: Christopher Occhicone

2025年10月5日日曜日

第一次世界大戦の西部戦線にてイギリス遠征軍は、1914年9月1日のネリーの戦いで、栄光の代償として、砲兵隊の兵士の死体が、ネリー村に両手を掲げて死後硬直した。

第一次世界大戦の西部戦線のモンスからマルヌへの撤退戦においてイギリス遠征軍が遂行した最も英雄的な行動の一つは、1914年9月1日にコンピエーニュ近郊のネリーの戦いである。栄光の代償として、イギリス軍ネリー砲兵隊の兵士が殺害された死体が、ネリー村に両手を掲げて死後硬直した。イギリス軍の第1騎兵旅団と共に第3軍団の撤退を援護していたイギリス軍の王立騎兵砲兵隊の単一砲兵隊が、数時間にわたり2倍もの兵力があるドイツ第4騎兵師団全体を食い止めた。この砲兵隊は1914年当時、13ポンド砲6門を装備しており、「L(ネリー)砲兵隊、王立騎兵砲兵隊」として知られる。ネリーの戦いの犠牲者はイギリス軍は135人が死傷して、ドイツ軍は死傷者は不明である。

 王立騎兵砲兵隊L中隊は、騎兵旅団に随伴してネリーへ向かった。砂糖工場から東と南へ延びる二つの道路を封鎖する命令を受けた。部隊は9月1日0430時に行軍を継続した。灼熱の太陽の下で疲れ切った兵士と馬は休息についた。小さな村と野営地群、東西を護る丘陵の狭い谷底には静寂が漂った。砲兵隊は馬具をつないだ状態で集団待機中だった。午前5時直前に部隊の唯一の望みは「素晴らしい朝食を腹いっぱい食べること」であった。

 家に入り足を踏み入れた途端に、高爆発弾が村の上空で炸裂し、ネリーの東側を見下ろす高台から砲火と小銃の轟音が炸裂した。霧の中でドイツ騎兵部隊に遭遇し追撃を受けて、ネリー北方の高地偵察に派遣した部隊が撤退した。時刻は0505頃に、第1騎兵旅団は完全なる奇襲を受けていた。イギリス軍の騎兵隊と騎兵砲兵隊が不利な状況に置かれ、村周辺の野営地に重砲・機関銃・小銃の激しい砲火が降り注いだ。各部隊は効果的な抵抗を試み、近隣部隊からの援軍が到着するまで持ちこたえた。








2025年10月4日土曜日

2025年3月18日に、ガザ・シティで、イスラエルによるガザ地区全域への空爆の後に、女性がアル・アハリ病院に子供の死体を運んだ。死亡した 404 人のうち、少なくとも 263 人は女性または 18 歳未満の子供だった。

2025年3月18日に、ガザ・シティで、イスラエルによるガザ地区全域への空爆の後に、女性がアル・アハリ病院に子供の死体を運んだ。ガザの保健省によると、3月18日に死亡した 404 人のうち、少なくとも 263 人は女性または 18 歳未満の子供だった。

 イスラエル軍によるガザ攻撃で停戦が破られて、数百人のパレスチナ人が死亡した。イスラエル軍は、3月18日に、ガザ地区全域で空爆の襲撃を開始した。2025年1月19日発効以来に最も激しい攻撃で、イスラエルは武装組織ハマスの標的を攻撃していると述べた。ガザの保健省によれば、この空爆で400人以上が死亡して、数百人が負傷して、死者の半数以上は女性と子どもだと報告した。

 イスラエル軍の攻撃は、完全な戦争再開の合図となるかもしれない。イスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相は3月18日に、すべての停戦交渉は「炎の下」で行われると述べた。ハマスは、イスラエルの砲撃が、ハマスの捕虜となってまだ生きている約20人のイスラエルの人質を危険にさらすと警告した。パレスチナの過激派組織は数週間にわたり、停戦合意の第2段階の話し合いを求めてきた。イスラエルとアメリカはともに、戦争終結に向けた交渉が進む前に人質の解放をハマスが拒否した。停戦合意の一部ではなかって、新たな敵対行為の原因だと非難した。アメリカ大統領ドナルド・トランプ政権は、イスラエル首相ベンヤミン・ネタニヤフ首相の、トランプ大統領が仲介した停戦から一方的に離脱の決定を支持した。














Warning: A woman carries the body of a child to Al-Ahli hospital following overnight Israeli airstrikes across the Gaza Strip, in Gaza City, Tuesday, March 18, 2025. (AP Photo/Jehad Alshrafi)

2025年10月3日金曜日

第二次世界大戦にてイタリアにて、ベニーㇳ・ムッソリーニのファシズムとナチス占領軍に抵抗した何千人ものパルチザンが、絞首刑で命を落とした。

第二次世界大戦にてイタリアにて、ベニーㇳ・ムッソリーニのファシズムとナチス占領軍に抵抗した何千人ものパルチザンが、絞首刑で命を落とした。

 1943年9月12日に、ドイツ軍の親衛隊部隊によって解放されたムッソリーニは、最も熱狂的なファシストたちと共に、ナチス・ドイツの保護のもとで、ドイツの傀儡政権であるサロ共和国を樹立した。この名称は、彼が本拠地を置いた北部のガルダ湖畔の小さな町サロに由来する。ナチス・ドイツとファシストは、ユダヤ系イタリア人の迫害を開始したが、その多くは住民の助けによって救われた。一方、反ファシストのパルチザンは、ナチス・ドイツとムッソリーニの民兵との間で残酷な内戦を勃発した。レジスタンスの行動に対して、ファシストとナチス・ドイツ軍は、アルデアティーナ洞窟での虐殺など、恐ろしい報復で応じた。そこでは、320人のイタリア人が、32人のドイツ人警察官の命を奪ったテロへの報復として銃殺された。

 ドイツ軍はイタリアが戦争から脱却した場合に備えて、イタリアを支配するために多数の軍隊を派遣していた。1943年9月3日から、イギリス軍のモンゴメリー元帥の部隊が、南からイタリア半島への侵攻を開始した。一方、ドイツ軍はイタリア軍を武装解除して、内戦に加担した兵士を拘束して、その大半をドイツの強制労働キャンプに送った。イタリア軍が抵抗した地域では、かつての同盟国であったドイツ軍によって特に残酷な弾圧が行われた。ギリシャのケファロニア島では、抵抗運動の結果、約5,000人のイタリア兵が処刑された。

 1943年9月から終戦まで、イタリアでは消耗戦が繰り広げられ、ドイツ軍は山岳地帯を巧みに利用して防衛線を次々と構築し、連合軍はそれを一つずつ突破した。1944年の春に、連合軍はイタリア戦線の膠着状態を打破する大規模な攻勢をした。6月4日にはアメリカ軍がローマに到達したが、ドイツ軍はすでに都市を撤退した。ドイツ軍は、北イタリアのポー川流域の対岸にあるゴシックラインに撤退した。1944年から1945年冬に、戦線は再び膠着状態となるも、1945年4月に、ナチス・ドイツの完全な崩壊の中で、連合軍はイタリアのドイツ軍を打ち破った。




2025年10月2日木曜日

日中戦争の南京大虐殺で、1937年12月13日から1938年3月28日に日本軍に虐殺された子女の虐殺死体が南京市内に転がって散乱した。

日中戦争の南京大虐殺によって、1937年12月13日から1938年3月28日に日本軍に虐殺された子女の虐殺死体が南京市内に転がって散乱した。南京戦の直後に、日本軍兵士が、戦時国際法違反である捕虜の処刑や民間人の殺害、略奪、放火、強姦などを、南京中国市民らに行った。南京戦の12月13日からの南京方面への行軍時から翌年3月28日まで継続した。

 南京に入城した日本軍は、南京市内の掃討に当って、近代史上最大の虐殺事件といわれる恐るべき南京大虐殺を行った。事件の証人たちによれば「2万人からの男女、子供達が殺され」4週間にわたって南京は血の街と化したといわれる。ほとんど総ての女性は老若をとわず野蛮な被害を受け、家という家は掠奪を受けた。「南京における日本軍の乱行として、世界に宣伝され」て、日本軍の名誉は地に墜ちた。日本軍はこの事実が外に洩れることを恐れ、あらゆるニュース・ソースに対して厳重な検閲をおこなった。しかし一部外国人も残留しており、また事実は覆いかくすべくもなかった。南京の残虐行為こそ、結局 中国をして徹底抗戦に導く結果をもたらした。

 被害者数のあまりの多さに、常識的にありえない疑念を感じながら、権威がある東京裁判で事実として認定されている。中国人の無惨な死体が並ぶ南京大虐殺の証拠とされる写真が、日本人を改めて戦争の悲惨さと日本人自身が犯した罪の大きさを思い起こさせる。東京裁判で南京戦の総司令官である松井石根大将は、南京事件の責任者のみを理由に死刑に処せられた。BC級戦犯を裁いた南京軍事法廷でも関係者が処刑されて、中国では大虐殺の存在は動かしがたい事実であると受け止めらている。




2025年9月30日火曜日

第一次世界大戦の東部戦線で1917年9月4日に、ラトビアのリガ近郊のジュグラの戦いで化学兵器により殺害されたロシア軍兵士の死体が散乱した。

第一次世界大戦の東部戦線で1917年9月4日に、ラトビアのリガ近郊のジュグラの戦いで化学兵器により殺害されたロシア軍兵士の死体が散乱した。ジュグラ攻勢中の戦闘では、ロシア軍の生存者は皆無であった。

 ドイツ軍によるジュグラ(リガ)攻勢は、1917年9月1日から9月5日に勃発した。ドイツ軍は1917年9月1日に攻撃を開始して、ドヴィナ川をリガ周辺の要塞化されたロシア軍陣地の南側を渡河した。一方は橋頭堡を脅かしたロシア軍団を攻撃し、もう一方は川に沿ってリガに向かって北進した。戦闘の大半はドヴィナ橋頭堡付近で行われ、ドイツ軍はさらに北東のジュグラ川沿いのロシア軍陣地を攻撃した。一方、ドイツ軍はほとんど抵抗もなくリガに侵攻した。しかし、南部での戦闘とリガへの侵攻では、ロシア軍の大半は無傷で撤退できた。ドイツ軍はわずか9000人のロシア軍兵士を捕らえて、全体に双方の死傷者は最小限だった。

 ドイツ軍が、ジュグラ川のロシア軍陣地を攻撃したときに、ドイツ軍はガス弾、火炎放射器、航空攻撃も行った。ロシア軍はそれでも一日の大半はドイツ軍の渡河を撃退した。ドイツ軍はロシア軍の抵抗にもかかわらず、終盤にはジュグラ川沿いの橋頭堡を確保した。ドイツ軍は、一直線に攻撃ではなく、より流動的に移動する潜入戦術を使った。先遣部隊は多くの守備隊を追い越し、主力部隊に排除させた。ロシア軍は、騎兵隊、砲兵隊、機関銃隊、少数の歩兵部隊はよく戦ったが、大部分の歩兵部隊は戦況が悪く、陣地からの逃避を決めた。




2025年9月29日月曜日

日露戦争の旅順攻撃にて日本軍兵士は、膨大な日本軍の戦死した死体を後送した。第1回から第3回旅順攻撃で日本軍は戦死約15,400人、戦傷約44,000人が犠牲となった。

日露戦争の旅順攻撃にて日本軍兵士は、膨大な日本軍の戦死した死体を後送した。1904年8月19日より8月24日の第一回旅順総攻撃だけでも、参戦した日本軍兵士50,700人中に、実に15,800人の死傷を犠牲にした。ロシア軍も約3.000人の重大な損失を被った。第2回総攻撃前半戦(9月19日-9月22日)、第3回総攻撃(11月26日-12月6日)にて203高地を奪取した。第1回から第3回旅順攻撃で日本軍は戦死約15,400人、戦傷約44,000人が犠牲となった。ロシア軍は、戦死約16,000人、戦傷は約30,000人が犠牲となった。

  第一回旅順總攻撃は、904年8月19日に、乃木希典第三軍司令官は日本軍の各師団に旅順の要塞総攻撃の命令を下した。そもそも旅順要塞の攻略戦により、ロシア海軍のバルチック艦隊の東洋回航以前にこれを奪取して、旅順港内のロシア艦隊を撃破して、日本艦隊を旅順口の封鎖線を解いて戦力の温存をとげる。それは日本海軍の要望のもとに旅順攻撃が行われた。日本海軍の焦眉の急を告げて、正攻法を採用する時間がになく、強襲法がとられた。

 8月19日に旅順総攻撃の命令の下に、日本軍の各師団は一斉に侵攻開始した。しかし、敵陣のロシア軍は堅固で容易に侵攻を許れず、日本軍は肉弾となって突撃した。無益にに死屍を山腹に積み重ねた。日本軍師団はようやく磐竜山の東堡塁と西堡塁を奪取した。しかし、ロシア軍は間断なく逆襲した。ロシア軍は剣を以て突き、銃を以て殴り、射撃の間もなく互いに石礫を投じ、格闘を反復した。ロシア軍は退いた後に近隣の砲台から弾丸を日本軍に雨霰の如く注いだ。日本軍はその確保に多大の犠牲を払った。

 8月24日に日本軍師団の決死隊が強襲につぐ強襲を以て占領した望台は、たちまち敵のロシア軍に奪還され、日本軍兵士は殆んど全滅した。堡塁の内部には、日本軍兵士の死体で埋められた。斜面から斜面も死体で以て覆われ、死体により地隙の残った処はない有様であった。遂に乃木希典司令官は第1回旅順総攻撃を断念して、午後4時に強襲の中止を命じた。8月19日より8月24日の第一回旅順総攻撃は、両軍にとって真の墓になった。




2025年9月28日日曜日

パレスチナのガザ支援省は、イスラエル軍がカン・ユーニスで墓を掘り起こして、パレスチナ人の遺体を盗んだと非難した。イスラエル軍はガザにある60の墓地のうち40を、偽りの口実で故意に破壊した。

パレスチナのガザ支援省は、イスラエル軍がカン・ユーニスで墓を掘り起こして、パレスチナ人の遺体を盗んだと非難した。同省によれば、イスラエル軍はガザにある60の墓地のうち40を、偽りの口実で故意に破壊した。

 ガザ支援省は2025年7月11日に、イスラエル軍が南部の都市カン・ユーニスで墓を掘り起こし、パレスチナ人の遺骨を盗む恐ろしい犯罪を犯したと非難した。同省は、イスラエルの行為は、すべての宗教的、人道的価値観と規範に対するあからさまな違反であると声明した。人道の限界を超えて、あらゆる道徳的、宗教的、国際的価値を剥奪するイスラエル占領軍は、2025年7月10日の夜明けに、戦車とブルドーザーで墓を破壊して死体を掘り起こした。パレスチナ人の殉教者や死者の遺骨を盗んで、恐ろしい犯罪を犯したと声明した。

 イスラエル軍は、死者の尊厳と死後の人間の尊厳を侵害したと付け加えた。イスラエル軍は2023年10月7日以来、ガザで約57,800人のパレスチナ人を、そのほとんどが女性と子どもを殺害してきた。イスラエル軍の執拗な砲撃は、パレスティナの飛び地を荒廃させ、飢饉のような状況を作り出した。ガザ地区の支援省は、イスラエル軍は、2023年10月7日から2025年7月11日に至るまで、パレスチナ領土に対するジェノサイド(大量虐殺)の戦争にて、沿岸部の墓地の約67パーセントを破壊したという。











Warning: Mass grave in Northern Gaza: Gaza Endowments Ministry accuses Israel of exhuming graves, stealing bodies in Khan Younis. Ministry says Israeli forces deliberately destroyed 40 of Gaza’s 60 cemeteries under ‘false pretexts’ (Anadolu Ajansı © 2021)02



2025年9月27日土曜日

第二次世界大戦の東部戦線にて1943年7月から8月のクルスクの戦いでの戦闘で、ドイツ軍の反撃砲火により塹壕陣地に直撃を受けたソ連軍迫撃砲部隊の兵士が爆死した。

第二次世界大戦の東部戦線にて1943年7月から8月のクルスクの戦いでの戦闘で、ソ連軍兵士が死亡した。ドイツ軍の反撃砲火により塹壕陣地に直撃を受けたソ連軍迫撃砲部隊の兵士が爆死した。双軍ともに史上最大の犠牲の一つを伴った悲惨な決死の残酷な戦場となった。

 1943年7月5日から8月23日のクルスクの戦いで、第二次世界大戦の東部戦線に根本的な転換点を迎えた。ドイツ軍の敗北により、ドイツは1943年夏、他の戦線から大規模な増援部隊をソ連戦線に移した。イタリアとフランスの戦線が弱体化した。独ソ戦線のドイツ国防軍の大部隊の敗北の結果、連合軍が西部戦線に展開して、ナチス・ドイツの崩壊につながった。

 クルスクの戦いに、1943年初頭のスターリングラードでのドイツ軍の敗北後、ドイツ軍は、クルスク地区のソ連軍を包囲して破壊を1943年7月5日から展開した。ドイツ軍はクルスクへの攻勢を開始した。最初の数日間は激しい戦闘が繰り広げられた。1943年7月12日に、プロホロフカの戦いで、史上最大の戦車戦が勃発した。双方の戦車800両以上が激突した。1943年7月23日までに、ドイツ軍は深刻な困難な犠牲を受けた。ソ連軍はオレル解放した。

 1943年8月5日に、ソ連軍はクルスクを解放する作戦を開始した。作戦成功の結果、ソ連軍はドイツ軍の大部隊を包囲し、破壊して、最終的な勝利に繋げた。1943年8月23日に、クルスクの戦いはソ連の勝利して幕を閉じた。ドイツ軍は撤退を余儀なくされた。ソ連の損害は、死者・行方不明者254,470人、負傷者608,833人で、ドイツ軍の損害は、ドイツ軍兵士は負傷者と死者で、50万人に達した。




2025年9月25日木曜日

2人のロシア人は、ソ連軍の戦闘服装をしていた。チャリコフ侵攻後に、ドイツ軍への手榴弾砲撃を指揮した後に、民間人のパルチザンの非正規兵として、ウクライナのハルキウで処刑された。

 2人のロシア人は、ソ連軍の戦闘服装をしていた。チャリコフ侵攻後に、ドイツ軍への手榴弾砲撃を指揮した後に、民間人のパルチザンの非正規兵として、ウクライナのハルキウで処刑された。ドイツのパルチザン対策部隊は、パルチザンには容赦なく行動した。

 1941年9月の贖罪命令によって1941年末にセルビアで一時的に、ドイツ軍兵士1人の犠牲に対して、民間人100人の処刑を命令された。その後にもアドルフ・ヒトラーによって繰り返し命令された。ゲリラは、捕縛後に狙撃手として死刑に処刑できた。虐殺者たちは、捕虜となったパルチザンの処刑について刑事責任を問われることはなかった。ドイツ軍兵士の負傷者・死亡者一人につき10人のクレタ人を射殺した。ドイツ軍は発砲している農家や村を焼き払い、あらゆる場所で人質を取るよう命じられた。'

 欧州では、敵の民間人に対する弾圧的措置は何世紀にもわたり慣習法となった。『イギリス軍法マニュアル』と『アメリカ軍基本野戦マニュアル(陸戦規則)』の両方が、民間人に対する報復を認めていた。ドイツ国防軍には、ドイツ軍兵士1人の死者に対して民間人10人の虐殺というノルマが通常受け入れられた。逆に連合軍の南ドイツのフランス軍では、1945年にフランス軍兵士1人に対して民間人4人を射殺した。

 現代の国際法によれば、軍隊は独立した法的主体であり、戦争を行う権限を与えられたすべての国家機関の中で唯一のものである。軍隊の構成員でない者、またはそれに対応する確立された権威に従属しない者は、いかなる形であれ、武器を取り、戦い、抵抗することはできない。




2025年9月23日火曜日

1943年11月に太平洋戦争で、 ギルバート諸島の玉砕地のタラワにて、殺害されて死亡した日本軍兵士の死体を、アメリカ軍兵士が足首にかけた鉄線で塹壕から引張り出した。

1943年11月に太平洋戦争で、 ギルバート諸島の玉砕地のタラワにて、殺害されて死亡した日本軍兵士の死体を、アメリカ軍兵士が足首にかけた鉄線で塹壕から引張り出した。その周囲で、他のアメリカ軍兵士が引きずり出しを見守って、薄笑いしていた。

  1943年11月、アメリカ軍は日本領ギルバート諸島に侵攻し、太平洋諸島の日本軍の前哨基地を制圧した。11月20日、アメリカ軍の約35,000人の部隊が、タラワのベティオ島とマキン環礁で水陸両用攻撃を開始した。マキン環礁の防衛が軽微であった。要塞化されたベティオ島は、76時間のタラワの戦いに繋がった。1943年11月までに、4,830人の日本軍兵士が防衛した。ピルボックスは、防御シェルターの塹壕は、島の内部の至る所に配置された。

 11月20日朝、アメリカ軍は、日本軍の激しい砲火の中、岸まで約90mを歩いた。アメリカ軍は、防波堤を越えて基地の確立が困難であった。島の最西端と北のビーチ中央の小さなビーチヘッドを確保した。11月21日、アメリカ軍は島の中央の滑走路に向けて内陸に押し寄せた。西側に迅速にビーチヘッドを確保することができた。11月22日、アメリカ軍が東進を開始したとき、日本軍の機関銃が前進を妨げた。北と西からアメリカ軍の攻撃により、残存する日本軍守備兵は東側の小地域に押し込まれた。その夜に、日本軍バンザイ式の反撃のために集結した。その後に、2回目、3回目、4回目のバンザイ突撃を開始した。この攻撃は、アメリカ軍に対する日本軍の最後の組織的な攻撃となり、玉砕した。

 11月23日の朝までに、ベティオ島に残存した日本軍は、島の東側の小さなポケットだけで、アメリカ軍は残存の防御陣地を破壊した。アメリカ軍の戦線はベティオの東端に達し、島の占領が宣言された。孤立した日本軍兵士は、戦闘後の数週間も現れ続けた。146人の捕虜を除いて、日本軍守備隊は全滅した。タラワの戦いで戦死したアメリカ軍兵士1,021人のうち、約350人が行方不明であり、その多くは攻撃の初日に日本軍の砲撃や機銃掃射によって戦死した。日本軍は4,830人をもってアメリカ軍を迎え撃ったが、4,684人が戦死して、アメリカ軍の捕虜となった146人の捕虜ほとんどは朝鮮人の労務者であった。

















2025年9月23日  
Japan No War NGO  (JNWN)
日本平和市民連盟  
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2025年9月18日木曜日

日中戦争の1938年の古北口の戦闘で、日本軍兵士は戦死した日本軍兵士を担いで運んだ。日本軍は長城を超えて侵入し、塘沽協定によって熱河省を完全に支配下に置いた。

日中戦争の1938年の古北口の戦闘で、日本軍兵士は戦死した日本軍兵士を担いで運んだ。日本軍は長城を超えて侵入し、塘沽協定によって熱河省を完全に支配下に置いた。満州の関東軍と、北津(北平・天津)地区にいた志那駐屯軍は容易に連携できるようになり、日本は華北への本格的侵略をめざすようになる。

 日本軍が中国の心臓部である華北平原を攻略するために、古北口は最も重要な拠点となった。日本軍は古北口の戦闘時に、戦車を投入して激戦の末に勝利した。1938年3月に日本軍の戦車の機銃掃射で中国国民党軍は戦死した。

 満州と東北3省の占領を完了した日本の次の目標は、華北の間に位置する熱河省であった。1938年2月23日に日本政府の決定により、熱河侵攻作戦が開始された。日本軍はその後、3月中旬に日本軍は万里の長城の延辺の山海関で中国軍を撃退した。古北口(旧北口)に至るまで、約450kmに及ぶ地域を占領した。日本軍は5月にはさらに長城を越えて、万里の長城の内側の地域である華北の関内の万里の長城に侵入した。華北地域に侵攻し、北京まで50km地点まで接近した。

 中国側は停戦を要請せざるを得なくなった。やがて長城線を境に熱河省まで占領が広がった。日本軍の傀儡国であり、日本の占領地植民地である満州国に含まれることを認める形になった。日本軍は中国の長城を越えて侵攻し、塘沽協定に基づき羅河省(熱河省)を完全に支配下に置くことになる。満州の日本関東軍と北平と天建の日本支那の駐留軍は互いに簡単に提携できるようになり、日本は本格的に中国華北地方への侵略を図った。




2025年9月16日火曜日

1944年12月25日クリスマス朝、バスティーニュ北西の砲弾で穴だらけの野原に、アメリカ軍の機関銃の交差射撃に遭って殺害されたドイツ軍兵士の遺体が散乱した。

 1944年12月25日クリスマス朝、バスティーニュ北西の砲弾で穴だらけの野原に、アメリカ軍の機関銃の交差射撃に遭って殺害されたドイツ軍兵士の遺体が散乱した。攻撃に参加したドイツ軍歩兵の大半は、ドイツ軍のマークIV戦車の後方で、前進中に密集した状態で撃ち殺された。戦車に乗って突入した他のドイツ軍兵士たちは、甲板から撃ち殺され落とされた。アメリカ軍は間もなくドイツ軍のマークIV戦車を撃破した。1944年から1945年にかけての厳しい冬、平時の人口4,000人、道路7本しかないバスティーニュをめぐる1ヶ月に及ぶ戦闘で、23,000人のアメリカ兵と25,000人のドイツ兵が命を落とした。

 バストーニュ包囲戦は、ベルギーのバストーニュで行われ、第二次世界大戦中のバルジの戦いの一部であった。ドイツ軍の攻勢の目的はアントワープに到達することであった。連合軍が再編成して航空優勢を利用する前に、ドイツ軍の機械化部隊はベルギー東部の道路を掌握しなければならなかった。アルデンヌ山脈の7つの主要道路はすべて小さな町バストーニュに集結していた。その十字路の制圧はドイツ軍の攻撃にとって不可欠であった。その包囲は1944年12月20日から27日まで続き、包囲されたアメリカ軍はパットン第3軍部隊によって救援された。

 ドイツ軍は、1944年12月16日から1945年1月25日のバルジの戦いで、連合軍の戦線を突破しようとした。12月17日に、アメリカ軍空挺部隊はバストーニュ地区に急行した。ドイツ軍の進軍を阻止し、市街への主要なアクセス道路を防衛した。その間に、ドイツ軍の装甲車が北と南からバストーニュを侵攻制圧して、バストーニュとその守備隊を包囲した。攻撃のピークがディナンで停止している間に、ドイツ軍の参謀は主戦力をバストーニュ攻略に集中させた。それから約3週間、バストーニュは包囲された。住民は地下室や避難所に避難した。後方基地から孤立したアメリカ軍兵士たちは、非常に激しい攻撃にも守り続けた。12月27日に、パットン将軍の戦車が到着し、街を解放してドイツ本土への攻勢を再開した。




2025年9月15日月曜日

2024年6月24日に、ウクライナのキエフにある死体安置所で、法医学者がロシアから返還されたウクライナ人捕虜の遺体を検死した。

2024年6月24日に、ウクライナのキエフにある死体安置所で、法医学者がロシアから返還されたウクライナ人捕虜の遺体を検死した。ウクライナ政府によれば、ロシアがウクライナに送還した5,000人以上の捕虜のうち、少なくとも206人が拘束中に死亡した。検察当局によれば、さらに245人のウクライナ人捕虜が戦場でロシア兵に殺害されたという。ウクライナ当局は、元捕虜の証言や送還された遺体の検死で収集された証拠をもとに、捕虜となった兵士への虐待をめぐり、ロシアを国際刑事裁判所に戦争犯罪として告発する予定だ。

 人権団体、国連、ウクライナ政府の関係者や、ウクライナ捕虜の検死官によれば、ロシアが捕虜となったウクライナ軍兵士を組織的に残虐な扱いに加えて、ロシアの刑務所内での虐待が死の多くに関与した可能性が高い。ロシア当局はコメントの要請に応じなかった。国連は、ロシアが深刻であるとしている。

 ウクライナ当局は、切断され腐敗した遺体が頻繁に送還されるのは、ロシアと占領下のウクライナ全土にある数十の刑務所や拘置所での拷問、飢餓、劣悪な健康管理の疑惑を隠蔽するロシアによる措置と述べている。2024年の国連報告書は、釈放されたウクライナ人捕虜の95%が組織的な拷問と虐待に耐えていた。捕虜たちは、殴打、電気ショック、窒息、性的暴力、長時間のストレス体位、模擬処刑、睡眠剥奪を報告した。





















Warning: Forensic workers at a morgue in Kyiv, Ukraine, examine the body of a Ukrainian prisoner of war returned by Russia, June 24, 2024. (AP Photo/Alex Babenko)



2025年9月14日日曜日

第1次世界大戦のマルヌの戦いは1914年9月5日から12日に勃発して、フランス軍兵士が小さな防衛塹壕の底に横たわるドイツ軍兵士の遺体を見つめて探索した。

第1次世界大戦のマルヌの戦いは1914年9月5日から12日に勃発して、フランスのマヌルのソワジー・オ・ボワ地方で、2人のフランス軍兵士が小さな防衛塹壕の底に横たわるドイツ軍兵士の遺体を見つめて探索した。

 この写真と、2013年にベテニーの調査で発見されたドイツ軍兵士の遺体と類似したINRAPのマルヌのベテニーで調査によって、約60mにわたり2列に並んだ一連の小さな穴が発掘された。その墓には、戦争初期の1914年9月17日か18日に死亡したドイツ軍兵士の遺体が数体収めらた。当初は個別の穴が、後につなぎ合わせ、長さ数m、深さ約70cm、幅約50cmの小さな塹壕が形成された。2発の砲弾が塹壕を破壊して、少なくとも7人のドイツ軍兵士の遺体を爆発して散乱した。爆発の衝撃は、遺体のねじれた不自然な姿勢が示唆した。

 遺物からベテニーのドイツ軍兵士の戦闘部隊は、フュジリア連隊73に属し、敵対戦闘の初期に多数のドイツ軍兵士が配属した。近代的でない装備の増援部隊が構成されてた。発掘は、塹壕戦が始まる前の移動戦闘の最後の数日間であった。

  第一次マルヌの戦いには200万人以上の兵士が参加した。フランス軍とドイツ軍の死傷者はそれぞれ約25万人で、フランス軍の死者は8万人、ドイツ軍の死者は約6万7000人と推定された。イギリス軍は死者1,700人を含む13,000人の死傷者を出した。フランスは「マルヌの奇跡」の決戦は、パリからマルヌ川に沿って東に延びる戦線であった。ドイツ軍の戦争計画は行き詰まりった。連合軍の決定的な勝利にも遠く及ばず、その後4年間にわたって西部戦線に死傷跡と塹壕戦跡を残した。




2025年9月13日土曜日

ルイス・セグラ・ビリチスが銃殺隊の前に立ち、横にはミゲル・プロ神父の遺体がある。彼はメキシコ青年カトリック協会で、信教の自由を守る武装レジスタンスでもあった。1927年11月23日に父と弟、オブレゴン大統領襲撃の共犯者と即座に射殺された。

 ルイス・セグラ・ビリチスが銃殺隊の前に立った。その横にはミゲル・プロ神父の遺体がある。彼はメキシコ青年カトリック協会で、信教の自由を守る全国連盟の首都の武装闘争のレジスタンスでもあった。1927年11月23日に、父と弟し、現在の国立宝くじビルで、オブレゴン大統領襲撃の共犯者であるフアン・アントニオ・ティラドとともに即座に射殺された。

 ミゲル・アウグスティン・プロ神父は、1927年にメキシコの銃殺隊によって殉教したイエズス会の司祭であった。十字架の形に両手を広げ、キリスト万歳と宣言した後に、銃弾が彼の胸を引き裂いた。彼は、反宗教的な政府のあらゆる礼拝が禁じらたメキシコで、信教の自由を回復するために、殉教の銃殺の処刑を受けた。

 オブレゴン大統領職において、カトリック教徒とメキシコ革命支持者との衝突が始まった。一部の司教たちは、土地改革や労働者を世俗的な組合の組織化に積極的に反対する運動を展開した。オブレゴンは1920年にメキシコ大統領に選出され、混乱した国家を引き継いだ。彼の大統領職は、国の安定化、1917年憲法の施行、経済・社会改革の促進に重点を置いた。


 キリスト教の戦争の合法性: 12世紀にフランスの聖ベルナールは異教徒に対するキリスト教徒に戦争の合法性を説いた。戦争で、キリストのために死ぬこと、殺すことは犯罪ではなく、栄光である。戦死は、罪の痕跡を残さず、栄光の功徳をもたらす。キリストは、罰のために敵の死を受け入れ、慰めに兵士に御自身を捧げられる。戦争で死ぬのは自分のためであり、殺すことはキリストのためになる。悪を罰し、善を高揚する神の使者である。キリスト教徒が悪人を殺すとき、殺人ではなく、 悪魔を殺すのである。キリスト教徒自身が殺されると、滅びたのではなく、永遠の栄光に到達した。キリスト教徒が与える死は再びキリストのためであり、受ける死は自身の利益である。キリスト者は異教徒の死を喜ぶが、キリストが栄光を受けるからであり、キリスト者の死には寛大さが現れる。彼らが殺される方がよい、正義の人たちが彼らの手の不義に屈することがない。




2025年9月12日金曜日

1938年1月にスペイン内戦のテルエルの戦いで、電話線を引いていた共和派軍兵士が、フランコ派軍兵士に狙撃を受けた。冬空に凍りついた動けない兵士として戦場カメラマンのロバート・キャパが撮影した。

1938年1月にスペイン内戦のテルエルの戦いで、電話線を引いていた共和派軍兵士が、フランコ派軍兵士に狙撃を受けた。苦悶の表情、小枝を握りしめる手が、冬空に凍りついた動けない兵士として戦場カメラマンのロバート・キャパが撮影した。1937年12月15日から1938年2月22日のテルエルの戦いは、スペイン内戦で最も過酷な戦いの一つであった。人民軍の戦闘部隊は侵攻するも、共和派の敗北となり、代替が困難な精鋭部隊が壊滅した。

 テルエルはスペインの内戦当初には反乱軍に陥落していた。1937年末までに、北東側を除く全方向を共和派は包囲した。フランコ派が北部戦線を終結すれば、マドリードへの大規模な攻撃を開始しため、共和派は真冬にテルエルを攻撃した。共和派はより多くの兵員と物資で攻撃を開始した。悪化する天候と大雪と氷点下の気温は、フランコ派の守備隊に有利に働いた。反乱軍の数千人の兵士と志願兵は、兵力を集中させたテルエルの中心部で白兵戦で激しい抵抗を展開した。戦闘と砲撃により、多くの民間人が犠牲になった。フランコ派の増援は、間に合わず、戦況は絶望的になり、部隊は数棟の建物に孤立し、食糧も底をついて、1938年1月8日に反乱軍は降伏した。

 テルエルは、共和派が占領した最初の州都であり、勝利は広く祝賀された。フランコ派は、マドリードへの攻撃を中止した。失った都市を奪還するために軍隊を集中させた。1月中旬に反撃が開始されて、悪天候の中で、再び激しい戦闘が繰り広げられた。2月上旬、共和派が都市北東部のアルファムブラ川で壊滅的な敗北を喫して、戦況は一変した。数千の共和派兵士が戦死または捕虜となった。反乱軍により2月22日に共和派はテルエルから撤退して、双方とも甚大な犠牲を受けた。4万人が戦死し、さらに数千人が負傷または凍傷を負った。テルエルの戦いは、共和派に多くの人員と物資を犠牲にし、最精鋭部隊は失われ、スペイン内戦の戦況を決定づけた。多くの兵力を擁し、優れた装備を備えたフランコ派が、地中海に至るアラゴン地方に全面攻撃を仕掛けた。




2025年9月11日木曜日

1917年7月4日にロシア7月蜂起が勃発して、臨時政府の即時打倒を要求した。1917年7月17日のペトログラード・ネフスキー大通りで、デモは銃火にて多数の死者を出した。

1917年7月4日にロシア軍兵士、水兵、労働者たちは街頭にて7月蜂起が勃発して、臨時政府の即時打倒を要求した。1917年7月17日のペトログラード・ネフスキー大通りで、彼らのデモは銃火に迎えられ、多数の死者を出した。市民たちは2月革命を経験して、十分に武装した。ケレンスキー政府は錯乱状態に陥ったが、権力の保持を決意した。政府に忠実な部隊が寄せ集められ、抵抗者たちに銃火を浴びせた。デモ参加者の16人が死亡して、700人が不詳して、100人が逮捕された。臨時政府側は、24人が死亡した。

 ロシア国民的な怒りが7月蜂起に爆発した。数千のロシア軍兵士たちが左翼(ボリシェヴィキ、左派エスエル、アナーキスト) の力ある演説で鼓舞され、「自分たちの手による投票で」と臨時政府は信頼できぬと表明した。彼らは手にして銃を戦場に棄てた。ペトログラードは激怒した労働者階級は煮えくりかえる騒ぎを起こした。市民らは工場から街頭に出て、無意識に湧きあがる闘争心を表に現わして、第一次世界大戦の終結を要求し、全ての権力をソヴィエトへと叫び、生産の労働者管理を要求した。

 ボリシェヴィキの指導者たちは、労働者の戦闘行為を抑えれず、為すべくもなく呆然とした。1917年2月革命(ユリウス暦1917年2月27日に民衆に発泡)と同様に、街頭自からの革命をいまにも実行するかにみえた。

 ボリシェヴィキとアナーキストの本部は略奪され、ボリシェヴィキの機関紙『プラウダ』は閉鎖された。トロツキーと他のボリシェヴィキのリーダーたちは、監獄に放り込まれた。レーニンはペトログラードから逃走し、ラズリーフ湖周辺に拠点を移した。レーニンは髭を落とし、変名を用いて、フィンランドの隠れ家へと逃亡した。高まる急進的潮流を弾圧することに、一時的ではあれ成功し、ケレンスキーは首相となり、新たな連立政府を組織した。武力に依る臨時政府の打倒を図るボリシェヴィキが主導する十月革命に繋がった。





2025年9月10日水曜日

2025年5月14日、ガザ地区ベイトラヒアの病院で、パレスティナ人の人々が親族の遺体の前で追悼した。5月14日の夜に、イスラエルがガザ地区北部への攻撃を再開した。

2025年5月14日、ガザ地区ベイトラヒアの病院で、パレスティナ人の人々が親族の遺体の前で追悼した。5月14日の夜に、イスラエルがガザ地区北部への攻撃を再開して以来、ガザ地区ジャバリアは血なまぐさい攻撃の一つとなった。病院の廊下は、女性や子供を含む空爆による遺体であふれ、親族の叫び声が敷地内を満たした。飛び地北部の50人の犠牲者に加え、南部のカーン・ユーニスの町への爆撃でも13人が死亡した。ガザ保健省のデータによると、2023年10月の開戦以来、ガザでは子どもと女性を中心に52,900人以上が命を落とし、さらに119,700人がイスラエル軍の絶え間ない爆撃で負傷した。

 犠牲者の一つのメクベル家のハッサンさんは、イスラエル軍の砲弾が妹の家を直撃した後に、誰も生き残っていないと語った。イスラエル軍の爆弾で破壊された家の一つに、ハッサンの妹が4人の子供を含む親戚数人と全員が命を落とした。ハッサンは痛みと怒りをあらわにしながら、ベイトラヒアのインドネシア病院のドアの前に立った。緊急チームが犠牲者の遺体を、攻撃が集中した北部の町ジャバリアから移送している。彼らはパレスチナ自治政府を統治する世俗政党のファタハやハマスとは何の関係もない。

 メクベル一家のもう一人の生き残りのジハードは、インドネシア病院の門の前で、甥である小さな子供の遺体を抱いて立っていた。私のいとことその子供たちは死にましたと彼は言い、母親と兄弟とともに爆撃で亡くなったアダムちゃんの遺体を見せた。5月12日に、アメリカ人人質のエダン・アレクサンダーが解放された後、ガザ地区の状況は好転すると思って、この知らせには驚いた。5歳くらいの男の子が鎮静剤の注射がなかったので泣き叫んでいた。病院内で治療を待つ多くの人々が同じような運命に苦しんでいる。























Warning: People mourning in front of the bodies of their relatives at a hospital in Beit Lahia, Gaza Strip, 14 May 2025. EFE/ Ahmad Awad



2025年9月9日火曜日

太平洋戦争の硫黄島の戦いで、1945年2月に日本軍兵士が指揮所の側で戦死していた。日本軍は峡谷や渓谷を死の迷路と化す堅固な防御陣地を構築していた。

太平洋戦争の硫黄島の戦いで、1945年2月に日本軍兵士が指揮所の側で戦死していた。硫黄島全体での戦闘は熾烈を極め、上陸初日だけでアメリカ軍の死傷者は2,400人を超えた。日本軍は、峡谷や渓谷を死の迷路と化す堅固な防御陣地を構築していた。一部の要塞は防衛が極めて手厚く、残忍なまでに頑強だった。双方は防衛が崩れ、硫黄島がアメリカ軍に陥落するのは時間の問題と断念した。 

  硫黄島は、総面積わずか約21平方kmの小さな島であった。日本軍は島に3つの飛行場を建設していた。日本本土からわずか約1,126kmの距離にあった。日本軍は、島を要塞化し、迷路へと変貌させて、硫黄島の中に潜んでいた。地下トンネル網は、日本軍を米軍の偵察から隠蔽した。

 アメリカ軍は海兵師団が最初に上陸し、歩兵連隊も島に上陸した。アメリカ軍は1945年2月19日9時に、ほぼ予定時刻通りに上陸した。島を覆う火山灰は柔らかく緩く、浜辺で兵士は足首まで砂に沈んだ。海岸の傾斜は急峻で、激しい波が上陸用舟艇を激しく打ちつけた。

 日本軍は地下トンネルに身を潜め、砲撃が収まると、海兵隊が浜辺に集結するのを待ち、一斉射撃を開始した。砂浜を這い上がり斜面を登る米兵たちへ、弾丸と砲弾の雨を降らせた。日本軍守備隊は、最後の息を引き取るまで戦った。硫黄島は太平洋戦争にて、アメリカ軍の犠牲者が日本軍のそれを上回った唯一の戦いとなった。 

 硫黄島の戦いは1945年2月19日から3月26日まで続いた。日本軍は3月25日夜に、天皇に最後の打撃をして、必死の万歳突撃を敢行した。この攻撃で100人以上のアメリカ軍兵士が死傷したが、硫黄島は正式に確保したと宣言した。硫黄島の防衛戦で死亡した日本兵は21,000人以上、捕虜は216人であった。島にいたアメリカ軍兵士70,000人のうち、6,000人以上が戦死し、さらに18,000人が負傷または死亡した。血みどろの結果をもたらし、アメリカ軍戦略家は日本本土侵攻計画の再考を迫った。




2025年9月8日月曜日

ロシア軍による2025年6月7日のウクライナのハリコフ攻撃で、死体が瓦礫の下に埋まっていた。ハリコフの救急隊員は、死亡した6人目の遺体を瓦礫の下から発見して、死者数は6人に上った。

ロシア軍による2025年6月7日のウクライナのハリコフ攻撃で、死体が瓦礫の下に埋まっていた。ハリコフの救急隊員は、6月7日のロシアによる空爆で死亡した6人目の遺体を瓦礫の下から発見して、死者数は6人に上った。その後も、捜索・救助活動が続けらた。6月7日17時35分頃に、ロシア軍はハリコフのシェフチェンキフスキー地区とキエフスキー地区を4発の誘導爆弾で攻撃した。

 この攻撃で、ウクライナ国鉄に勤務していた30歳の女性がマラ・ピブデンナの生産施設と車両基地の近くで死亡した。6月11日の夕方までに、救助隊は3人の遺体を収容した。46歳、48歳、50歳の女性だった。この攻撃で40人以上が負傷したと報告された。

 6月7日にかけて発生したロシアによる大規模な複合攻撃による死者は8人(うち3人は住宅内で死亡)に上った。キエフ地区とオスノビアンスキー地区が標的となった。ロシア軍は、48機のシャヘド型無人機、4発の誘導空爆、巡航ミサイルで攻撃した。























Warning: Aftermath of the Russian attack on Kharkiv Photo: State Emergency Service of Ukraine

2025年9月7日日曜日

2025年4月19日に、ガザ地区南部のカーン・ユーニスで行われた葬儀で、イスラエル軍の空爆で死亡したパレスチナ人の子ども、モハマド・アブ・ナダの遺体をパレスティナ人々が悼んだ。

2025年4月19日に、ガザ地区南部のカーン・ユーニスで行われた葬儀で、イスラエル軍の空爆で死亡したパレスチナ人の子ども、モハマド・アブ・ナダの遺体をパレスティナ人々が悼んだ。弔問客は死者の顔を抱きしめて、キスをした。遺体袋が閉じられる前に、子供の額を指で撫でた。

 ガザの保健省は4月19日に、イスラエル軍の攻撃により、48時間で90人以上が死亡したと発表した。イスラエル軍は、ハマスに人質の解放と武装解除を迫るために、攻撃を強めている。カーン・ユーニスの病院によると、一晩で死亡した15人の中には子供や女性も含まれた。少なくとも11人が南部のカーン・ユーニスで死亡し、その数人は、何十万人もの避難民が滞在しているムワシ地区のテントの中にいたと述べた。

 遺体が収容されたヨーロッパ系病院によれば、ラファ市での4月19日の攻撃で、母親と娘を含む4人が死亡した。アル・アウダ病院によると、4月19日にガザ中心部のヌセイラット西の市民グループに対するイスラエルの空爆で、1人が死亡した。ガザ民間防衛局は4月14日に、イスラエル軍が先月15人の救助隊員の殺害を「即決処刑」を行ったと非難し、イスラエル軍の内部調査の結果を否定した。

 イスラエル軍は、4月19日にガザ北部でイスラエル軍兵士が死亡したと発表した。イスラエル軍が2025年3月18日に戦争を再開して以来、初のイスラエル軍兵士の死亡である。ハマス率いる武装勢力が2023年10月7日にイスラエル南部を攻撃し、民間人を中心に約1,200人を殺害、251人を拉致して勃発した。ハマスが拘束している人質は59人で、そのうち24人は生存している。それ以外人質のほとんどは停戦合意やその他の取引で解放された。ネタニヤフ首相、イスラエルはガザでの戦闘を「継続するしかない」と発言した。イスラエルの攻撃により、51,000人以上のパレスチナ人が死亡した。 


















Warning: Mourners grieve over the body of Palestinian child Mohammad Abu Nada, killed in an Israeli army airstrike, during his funeral in Khan Younis, southern Gaza Strip, on Saturday, April 19, 2025. (AP Photo/Abdel Kareem Hana)