2025年3月8日土曜日

パレスティナ人の9歳少年のハルド・ジュディは、デイル・アル・バラ病院の死体安置所にて、2024年10月22日のイスラエル軍の空襲で亡くなった生後8か月の妹の顔をなでた。

2024年10月22日のイスラエル軍のガザ地区に対する空爆により、パレスティナ人の大家族を保護していた2棟の建物が倒壊した。ガザ地区の中心部にあるデイル・アル・バラ地区の68人が、イスラエル軍の空爆で命を落とした。パレスティナ人の9歳少年のハルド・ジュディは、デイル・アル・バラ病院の死体安置所にて、亡くなった生後8か月の妹の顔をなでながら泣いていた。

 ハルド・ジュディは袖のないTシャツを着て裸足であった。妹は、顔を殴られた小さな天使のようであった。お母さんも、12歳の弟ももう生きていない。まずお母さんに、次に弟のハリルに、妹のミスクを見て、また泣き出した。

 ハルド・ジュディは「あなたが生まれてとても幸せだった」とささやき、そっと額に触れました。涙が頬をつたい、妹の額に流れた。妹の髪は乱れていた。泣きやまないハレドは、母親、父親、兄、赤ん坊の妹にも別れを告げた。7歳の弟タマーと9歳のハレドだけが生き残った。

 パレスチナ人一家であるジュデ家は、何世代にもわたって何人かの家族が一緒に暮らしていた。イスラエル軍がガザ地区北部の住民に避難を命じたため、北部に避難した家族もいた。イスラエル軍の空襲により、家族の一員は長い墓に並んで一緒に埋葬された。ハレド・ジュディの生活状況はとても悲しく、誰からの世話を受けれず、とても痩せて、十分な食料や水がない。テントで寝れば、寒さを感じ、雨で濡れた。













Warning: Khaled Joudeh searches for his killed family members, including his baby sister, Misq, at the morgue in the Deir Al-Balah hospital, on October 22, 2023, After they were killed in Israeli airstrikes. Khaled is the lone surviving member of his immediate family. (Samar Abu Elouf/New York Times)

2025年3月7日金曜日

1978年初頭に、ベトナム南部のキエンザン省にあるハティエン県にて、カンプチアのクメール・ルージュがベトナム民間人を襲撃した。その後にハティエン県には、ベトナム民間人の死体が散乱して腐敗した。

1978年初頭に、ベトナム南部のキエンザン省にあるハティエン県にて、カンプチアのクメール・ルージュがベトナム民間人を襲撃した。その後にハティエン県には、ベトナム民間人の死体が散乱して腐敗した。1977年当時は、61万5000人のベトナム軍に対して、カンプチア革命軍(KRA)は7万で不利な状況に直面するも、ベトナムの国境地帯を攻撃し続けた。1978年1月、カンプチア革命軍は、ベトナム領土の一部を保持し、ハティエン県でベトナム軍の前哨基地を制圧し始めた。1978年1月27日、ベトナムはクメール・ルージュ政権を打倒するため、国境地域のカンプチア革命軍に侵攻始めた。

 クメール・ルージュ(カンプチア共産党)は1975年から1979年までカンボジアを支配した。率いたポル・ポトは、残虐に、数百万人の死者を出した。農業改革の試みは広範な飢饉を引き起こした。医薬品も絶対的な自給自足にこだわり、病気などで何千人もの死者を出した。 1976年から1978年に、クメール・ルージュの幹部が破壊分子の容疑者たちに対して行った残忍で恣意的な処刑や拷問、クメール・ルージュ自身の階級の粛清は、ジェノサイドを執行した。クメール・ルージュ政権は、政敵とみなされた数十万人を殺害し、少数民族を大量虐殺した。破壊分子の容疑者を大量に処刑し、拷問した。1975年から1978年にかけて、最終的に、クメール・ルージュ政権下で起こったカンボジア虐殺は、1.500~200万人、カンボジア人口の約25%が死亡した。

 1978年12月25日に、ベトナムはカンプチアへの全面侵攻を開始した。2週間でカンプチアを占領して、カンプチア共産党の政権を奪取した。ベトナムは、クメール・ルージュによるカンボジア人の大虐殺を終結した。1979年1月7日、ベトナム軍は首都プノンペンを占領して、ポル・ポトとクメール・ルージュはタイとの国境近くのジャングルに後退した。





























2025年3月7日  
Japan No War NGO  (JNWN)
日本平和市民連盟  
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2025年3月6日木曜日

1931年9月18日に勃発した満州事変で、戦死した日本軍兵士の死体は、満州の奥地で埋められた。日本軍兵士は、悲嘆しながら担架上の戦友の死体を満州の荒野に埋めて訣別した。

1931年9月18日に勃発した満州事変は、次々に中国の満州の奥地に戦線が広がった。満州の奥地で、戦死した日本軍兵士の死体は、奥地で埋められた。冬季になると地面下2メートルまで凍る荒野となった。日本軍兵士は、悲嘆しながら担架上の戦友の死体を満州の荒野に埋めて訣別した。

  1931年9月18日深夜に、奉天(現瀋陽)郊外の柳橋湖近くにあった南満州鉄道会社の線路が、満州駐留の帝国陸軍の一部である関東軍の将校によって爆破された。鉄道の所有者である日本軍は、この事件を中国の民族主義者の容疑にして、報復として満州に侵攻する契機とした。しかし、爆弾は日本軍将校が、その後の軍事行動の口実を作るために仕掛けたと推測する者もいた。数カ月という短期間のうちに、日本軍は満州の地域を制圧した。ほとんど訓練を受けていない中国軍の抵抗は少なく、日本軍は資源の豊富な満州地域の支配を強化していった。日本軍はこの地域を満州国という新したな自治国家にすると宣言した。新しい国家は実際には現地の日本軍の支配下にあった。

 1932年1月14日に国際連盟の調査団が訪中して、10月2日にリットン委員会の報告書が公表された。満州における紛争の責任を中国の民族主義と日本の軍国主義に等しく帰した。報告書は、満州国の樹立は中国の領土保全に違反するとして、新国家を承認しないことを明言した。1933年3月27日に、国際連盟でリットン報告書が批准されると、日本代表団は退席して、盟約者団理事会に戻ることはなかった。日中両国は休戦協定に調印したが、その協定は日本が満州を完全に支配したままであった。




2025年3月5日水曜日

1945年2月のドレスデンへの連合軍による空襲後に、ドレスデンには死体が転がって、廃墟と化し、すべての建物が破壊され、何千人もの市民が死んでいた。

1945年2月のドレスデンへの連合軍による空襲後に、ドレスデンの街には死体が転がっていた。ドレスデンは廃墟と化し、すべての建物が破壊され、何千人もの市民が死んでいた。街は大きな被害を受け、建造物や名所はすべて無慈悲な空爆で破壊された。連合軍の爆撃方法は、建物の破壊を促して、まず高火力爆弾で建物の木枠を露出させ、次に焼夷弾で木に引火させ、最後に消火活動を妨げる爆撃をした。第二次世界大戦が終結したとき、調査官や記者がドレスデンの死者数を1万人から20万人と推定した。

 1945年2月13日の夜に、イギリス空軍の爆撃機はわずか数時間で数千発の爆弾を投下した。 ドレスデンの防御は非常に弱く、6機のランカスター爆撃機だけが撃墜されて、次の朝までにイギリス空軍の爆撃機は14,00トン以上の高火力爆弾と1,100トン以上の焼夷弾をドレスデンに投下した。攻撃でドレスデンのインフラはほとんど破壊され、数千人が死亡した。

 1945年2月14日に生存者たちがくすぶる街から脱出すると、アメリカ空軍はドレスデンの道路、橋、鉄道、家屋への爆撃を開始てし、さらに数千人が死亡した。2月15日に、さらに200機のアメリカ軍爆撃機がドレスデンへの攻撃を続けた。アメリカ軍は2月15日に、950トンの高火力爆弾と290トン以上の焼夷弾を投下した。その後、アメリカ第8空軍は終戦までに3回の攻撃で2800トン以上の爆弾をドレスデンに投下した。

 ソ連赤軍が強力になり、次々と都市を占領していく中で、ヒトラーは全戦力でベルリンを防御した。ベルリンを占領するまで、最小限の抵抗のみのドレスデンは、飽和爆撃の標的とされた。都市内の工業地帯や民間地域がドイツ軍部隊とともに消滅した。攻撃がドイツ経済を荒廃させ、ドイツ国民の士気を低下させ、早期の降伏を強いると連合軍司令部は断定した。




2025年3月4日火曜日

アメリカ軍兵士の命令で、1945年5月17日にナメリング町の生き残りの住民だけでなく、ドイツ人少年にも、ナチス・ドイツの虐殺行為による約800人の犠牲者の死体を見せられてショックを受けた。

アメリカ軍兵士の命令で、1945年5月17日にナメリング町の生き残りの住民だけでなく、ドイツ人少年にも、ナチス・ドイツの虐殺行為による約800人の犠牲者の死体を見せられてショックを受けた。ブッヘンヴァルト強制収容所から死の行進による囚人の死体を、ナメリング近郊の住民に墓を掘らせて埋葬させた。

 1945年4月11日のブッヘンヴァルト解放から、ラーフェンスブリュック、ダハウなどでさらに数千人を越える囚人の犠牲者が発見された。多くの大小の収容所には、想像を越えたホロコートスチの事態を西側連合軍が発見した。アイゼンハワー将軍は、ジョージ・パットン将軍とオマール・ブラッドリー将軍とともに、ヴァイマル近郊のオールドゥルフにある小規模収容所を訪れ、1945年4月12日に悲惨な有様を目撃した。その後に写真家を派遣して記録させた。連合軍の侵攻により、強制収容所のを至る所で大虐殺は、ある種の狂気の産物となった。

 アイゼンハワー将軍はロシア軍の司令官たちと同様に、連合軍兵士だけでなくドイツ人にもオールドゥルフの大虐殺を見るように命じた。多くの町の人々には、子どもたちも連れて、収容所内を通って行くよう命じた。ドイツ人には、山になった囚人の死体の埋葬を手伝うために徴集された。ライプツィヒでは市長に、ライピツィヒ・モハウの強制収容所の囚人75人の死体を納める棺の提供を命じた。囚人がバラックに閉じ込められ、生きたまま焼き殺された。逃げようとした囚人は、戦車上のヒトラー・ユーゲントに射殺された。死亡した囚人のために、ライプツィヒの共同墓地で葬式と埋葬式が行なわれ、市の役人全員が、キリスト教とユダヤ教の従軍聖職者が主宰する儀式への参列を命じられた。その他900人のドイツ人が自発的にやって来て、墓に花を供えた。オールドゥルフ町長はうまく切り抜けられず、その後に彼と妻は自殺した。




2025年3月3日月曜日

第二次世界大戦の西部戦線にて、1944年3月10日に雪に覆われた高原で、フランスのレジスタンス隊長である28歳のテオドーズ・モレルは、ヴィシー政権の准軍事国家憲兵隊(GMR)との交戦中に戦死した。

第二次世界大戦の西部戦線にて、1944年3月10日に、フランスのレジスタンス隊長である28歳のテオドーズ・モレルは、ヴィシー政権が組織化した准軍事国家憲兵隊(GMR)との交戦中に戦死した。雪に覆われた高原でマキヤード全員が厳粛な葬儀を行った。日を追うごとに、グリエールへのヴィシー政権の締め付けはきつくなった。3月25日に、第157アルプス師団のドイツ軍は3月26日の攻撃に備えて陣地を整えていった。

 マキ・デ・グリエールは、自由フランス・レジスタンスグループであり、1940年から1944年の第二次世界大戦におけるドイツのフランス占領と戦った。オート=サヴォワにおけるマキに対する作戦のきっかけとなったのは、数人の警官の殺害死体の発見だった。 マキはシャブレーとジッフルから120人の戦闘員の到着の恩恵を受けたマキは、モレルは、グリエール高原のアントルモンにあるGMRの隊員に対して、より危険な作戦を指揮した。3月7日に到着したGMRのルフェーブル司令官は、マキとの対話を拒否した。3月9日から10日に、100人以上のマキが作戦に参加した。モレルが直接に指揮を執った部隊が、GMR隊員のいるフランス・オテルの奪取に成功した。捕虜のGMRは武装を解いたが、ルフェーヴルは隠し持っていた銃を取り出して、至近距離からモレルに発砲して、心臓を直撃して、モレルは倒れて死亡した。その直後にルフェーヴルもマキによりすぐに殺害された。

 1944年3月26日に、ドイツ軍は攻勢に転じた。ドイツ軍のパトロール隊の一隊は山岳部隊で、高原の出口を攻撃し、後方の前進基地を占領した。マキは、多勢に無勢でドイツ軍に圧倒されて、撤退を命じられた。その後の数日間で、ドイツ軍は120人のマキを殺害した。サヴォワ地方の被害と敗北は、1944年春のフランス・レジスタンスに弾みをつけた。





2025年3月2日日曜日

広島原子爆弾で、山口明さんは顔と前腕に火傷を負った。被爆者は火傷によるケロイド上の傷跡が残った。

非公開の日本原爆被爆者の写真

ーアメリカ軍原爆調査団ー

アメリカ国立公文書館 2024年2月23日

(The National Archives College Park, Maryland) 

SC-285521, 285522












































SC-285522

(FEC-47-72298)14752

14 MARCH 1947

ATOMIC BOMB SURVIVOR RETAINS SEVERE SCARS FROM BURNS :

AKIRA YAMAGUCHI SUSTAINED BURNS OF HIS FACE AND FOREARMS FROM THE ATOMIC BOMB EXPLOSION AT HIROSHIMA.

PHOTOGRAPHER-BLOCK

Atomic Bomb Casualty

RELEASED FOR PUBLICATION 

PUBLIC INFORMATION DIVISION 

WAR DEPARTMENT, WASHINGTON

Photograph by Signal Corps U.S. Army


SC-285522

(FEC-47-72298)14752

1947年3月14日

火傷の傷跡が残る被爆者:

広島原爆で顔と前腕に火傷を負った山口明さん。

写真ブロック

原爆死傷者

公開

広報部

ワシントンの陸軍省

米陸軍通信隊撮影




























SC-285521

717(FEG-47-72297)14752

14 MARCH 1947

ATOMIC SOMB SURVIVOR RETAINS SEVERE SCARS FROM BURNS:

AKIRA YAMAGUCHI SUSTAINED BURNS OF HIS FACE AND FOREARMS FROM THE ATOMIC BOMB EXPLOSION AT HIROSHIMA,

PHOTOGRAPHER-BLOCK

14752

Atomic Bomb Casualties

RELEASED FOR PUBLICATION 

PUBLIC INFORMATION DIVISION WAR DEPARTMENT, 

WASHINGTON WAR DEPARTMENT

Photograph by Signal Corps U.S. Army


SC-285521

717(FEG-47-72297)14752

1947年3月14日

火傷の傷跡が残る被爆者

広島原爆で顔と前腕に火傷を負った山口明さん、

写真ブロック

14752

原爆死傷者

公開

ワシントン陸軍省広報部

ワシントン陸軍省

写真提供:アメリカ陸軍通信兵団

2025年3月1日土曜日

ドナルド・トランプ大統領は、2025年2月28日の大統領執務室での会談で、ウクライナのヴォロディミル・ゼレンスキー大統領を「無礼だ」と非難して、突然に鉱物の取引への署名を中止した。

ドナルド・トランプ大統領は、2025年2月28日の大統領執務室での会談で、ウクライナのヴォロディミル・ゼレンスキー大統領を「無礼だ」と非難して、突然に鉱物の取引への署名を中止した。ゼレンスキー大統領は、ワシントンのトランプ大統領執務室での一触即発の後に、鉱物取引に署名することなくホワイトハウスを去った。

 驚くべき事態は、ヨーロッパと世界中の情勢を混乱させる可能性がある。トランプ大統領との訪問中に、ゼレンスキー大統領はアメリカがウクライナのレアアース(希土類)鉱物をより多く入手できる協定に署名し、共同記者会見を開く予定だった。報道陣の前で両首脳が白熱した口論を繰り広げた後に、計画は白紙に戻された。

 トランプ大統領は、開戦以来キエフ政府に送られた1,800億ドル以上の援助に対するアメリカへの返済が不可欠だと主張した。この一触即発の事態が何を意味するのかは不明だ。トランプ大統領がゼレンスキー大統領に、この協定を軌道に乗せるために何を望んでいるのか、もし何かあるとすれば、それはまだわからない。

 ウクライナの指導者は、トランプが彼を怒鳴りつけ、公然と軽蔑を示した直後に、トランプ大統領によってホワイトハウスを去るよう求められた。「あなたは第三次世界大戦に賭けている。あなたのしていることは、多くの人が言う以上にあなたを支援してきたこの国に対して、とても失礼なことだ」とトランプはゼレンスキーに言った。

 約45分間の会談の最後の10分間は、トランプ大統領、JDバンス副大統領、そしてゼレンスキー大統領の間で、緊張したやりとりが続いた。ゼレンスキー大統領は、モスクワの長年にわたる世界的な舞台での約束破りを引き合いに出し、ロシアの外交へのコミットメントに懐疑的な見方を促した。

 ゼレンスキーの主な目的は、トランプに自国を見捨てないよう圧力をかけ、ロシアの大統領ウラジミール・プーチンに近づきすぎないよう警告することだった。その代わりに彼は怒鳴られ、トランプはカメラに向かってドラマを演じた役者に見えた。





















Warning: The argument began when JD Vance accused Zelensky of disrespecting the US (EPA)