1943年夏に、ドイツ軍はソ連による戦争犯罪をカティンの森で発見した。スモレンクス郊外のカティンの森で、おびただしい数のポーランド人将校などが虐殺された。カティンの大虐殺だけで22,000人のポーランド軍人とポーランド当局者等が殺害された。1940年にソ連当局の命令で、殺害されたカティンの森の虐殺の犠牲者を密葬した。
カティンの大虐殺は、第二次世界大戦中にソビエト連邦によってポーランド人に対する大量殺人事件である。ソ連の秘密警察(NKVD)は、ポーランド人の戦争捕虜を、スモレンスクから約20km離れたカティンの森で約22,000人のポーランド人を虐殺した。1990年4月になって、ゴルバチョフ政権はソ連の責任を認めた。
1940年4月から5月にかけて、約22,000人のポーランド人が、カティンの森(現在のスモレンスク、ロシア)でソビエト軍によって虐殺された。犠牲者は主に捕虜となったポーランドの兵士や警察、医師、教師、科学者、エンジニア、ジャーナリストなどであった。
ドイツ軍のポーランド侵攻の後に、ポーランドはナチス・ドイツとソビエト連邦に分割された。ナチス・ドイツはポーランド西部を占領し、ソ連は1941年6月末に枢軸国がソ連に侵攻するまでポーランド東部を占領した。1941年6月までに、ソ連はすでに50万人のポーランド人を逮捕した。第二次世界大戦を通じて、少なくとも15万人のポーランド人がポーランド国内でソビエト軍に虐殺された。
ドイツ軍によるポーランド将校の死体の発掘、検査、同定作業は1943年6月7日に終了して6月10日にドイツ警察が最終報告した。カティンの森は、1925年にはソ連のNKVD等によって死刑を宣告された人々の処刑場であった。森林地帯の発掘調査によって、男女両方のロシア人の死体が集団墓地で必ず発見された。例外なく、死因は首の後ろを撃たれた。彼らはスモレンスクのNKVD監獄の囚人であり、大多数は政治犯であった。