日中戦争の南京大虐殺によって、1937年12月13日から1938年3月28日に日本軍に虐殺された子女の虐殺死体が南京市内に転がって散乱した。南京戦の直後に、日本軍兵士が、戦時国際法違反である捕虜の処刑や民間人の殺害、略奪、放火、強姦などを、南京中国市民らに行った。南京戦の12月13日からの南京方面への行軍時から翌年3月28日まで継続した。
南京に入城した日本軍は、南京市内の掃討に当って、近代史上最大の虐殺事件といわれる恐るべき南京大虐殺を行った。事件の証人たちによれば「2万人からの男女、子供達が殺され」4週間にわたって南京は血の街と化したといわれる。ほとんど総ての女性は老若をとわず野蛮な被害を受け、家という家は掠奪を受けた。「南京における日本軍の乱行として、世界に宣伝され」て、日本軍の名誉は地に墜ちた。日本軍はこの事実が外に洩れることを恐れ、あらゆるニュース・ソースに対して厳重な検閲をおこなった。しかし一部外国人も残留しており、また事実は覆いかくすべくもなかった。南京の残虐行為こそ、結局 中国をして徹底抗戦に導く結果をもたらした。
被害者数のあまりの多さに、常識的にありえない疑念を感じながら、権威がある東京裁判で事実として認定されている。中国人の無惨な死体が並ぶ南京大虐殺の証拠とされる写真が、日本人を改めて戦争の悲惨さと日本人自身が犯した罪の大きさを思い起こさせる。東京裁判で南京戦の総司令官である松井石根大将は、南京事件の責任者のみを理由に死刑に処せられた。BC級戦犯を裁いた南京軍事法廷でも関係者が処刑されて、中国では大虐殺の存在は動かしがたい事実であると受け止めらている。