第1次世界大戦の西部戦線であるフランス内の国境付近のヴェルダンで、ドイツ軍とフランス軍で1916年2月21日から12月16日までに両軍の激戦により約70万人以上の死傷者が出た。両軍は合図で塹壕から無謀な突撃を何度も繰り返して砲弾と機関銃の掃射で死傷した。ある兵士はレイス周辺の砲火で戦死した。戦況を打開するために、ドイツ軍は毒ガス、イギリス軍の戦車や飛行機の近代兵器を生み出した。
第2次世界大戦にて日本軍はビルマ国境の近隣における1944年3月8日から7月10日までのインパール作戦の失敗により甚大な戦死者を出した。補給線を軽視した作戦から敗走した日本軍兵士は、8月9日にタングニ付近で全滅して白骨化した死体で埋め尽くされた「白骨街道」となった。
第2次世界大戦おいて、1941年10月にロシアのキエフ地域にて、ドイツ軍がユダヤ人を拘束した。ユダヤ人の8人の市民達は、うなだれたドイツ兵士らから銃にて射殺される直前であった。ユダヤ人市民らが、銃殺による死に臨む直前である。しゃがみ込む若い女性は除名を嘆願して、老人は立ち尽くし、その他に睨みつけ首の手で生命をかけた。
太平洋戦争の米軍からのグアムの戦闘において1944年8月11日までに日本軍20,810名のうち19,135名(戦死率92.3%)が戦死して全滅した。生き残った兵士はゲリラ戦するも、弾薬、食物も、水も無くなり、銃剣や日本刀しかない。日本兵は銃剣で腹部を切腹して自ら命をたって自決した。
ソマリアは第2次世界大戦後に、英国とイタリアから独立した。1988年から内戦が勃発して、2000年から更に国家の分裂が進み、氏族・軍閥・宗派など様々な勢力が対立する群雄割拠状態となる。2006年から国境近辺の紛争からエチオピア軍が侵略をした。内戦による海賊らは沖合の船は襲って、ソマリア内戦から逃避した難民は、イエメンの海岸で蹴殴され、海に棄てられ、海岸に溺死した死体が散乱した。
アメリカ軍は、首都マニラがあるルソン島にて1944年1月6日から終戦の8月6日まで日本軍と戦闘した。劣勢の日本軍は、北部山岳地帯に後退して持久戦をした。日本軍は餓死者、病死、自決、襲撃などで約217,000人も戦死して、アメリカ軍は約8,310戦死した。バヨンバンにて取り残された傷病兵らは自決するか日本軍によって殺害されていた。
日中戦争にて日本軍は1938年1月に山西省中南部への進攻を開始して、山西省、河北省、河南省から北、東、南の三手から中国軍を挟撃した。2月に臨汾と路城平野の各都市を陥落され、山西省は全土を日本軍に制圧された。山西省宗義の付近で中国人兵士が1938年2月に戦死した。日本軍はその写真の公表は厭戦気分を引き起こすため発表不可とした。
太平洋戦争で1944年6月15日から7月7日までマリアナ諸島のサイパン島で米軍と日本軍が戦闘した。米軍は7月4日にガラパンを突破して北上して、西海岸のタナパグへ侵攻した。7日の午前3時にてタナパク港の付近にて日本軍は約4,300名が万歳を叫んで玉砕をして死の谷となり全員が死亡した。その後に米軍は北端のマップ岬に向けて掃討し、バンザイ岬において多くの民間人が自決した。
リベリアはアメリカの奴隷が解放されて1847年に建国された。元奴隷は全人口の3%程度で先住民族を迫害した。第一次内戦の1989年から1996年で約15万人が戦死した。第2次内戦の2003年から米軍が介入して2005年まで勃発した。その内戦で2003年7月23日には道端に市民兵士らの死体が散乱して、リベリア市民はパニックになり逃避した。
イラク戦争にて、2003年3月20日から米軍を主体にしてイラクに侵攻した。5月1日に米軍は勝利宣言をするも、その後も内戦状態が継続した。正規の軍人だけではなく、市民を主体とした非政府軍となったイラク人民兵は、新政府に対する攻撃の対象を拡大して、米軍らによって2004年には虐殺され戦死して死体が放置された。
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日中戦争における1937年8月の第2次上海事変にて、中国民党軍の空爆に対抗して日本軍は海洋を越えた渡洋爆撃をした。両軍ともに上海の一般市民に対する無差別な空爆ばかりでなく、戦闘機による機銃掃射をした。中国人の母親と子供も虐殺される惨状となった。その惨状を上海の欧米新聞が取り上げて、中国人に同情、日本人に反感と非難が盛り上がった。
朝鮮戦争は1950年6月24日に北朝鮮が38度線を越えて侵攻して勃発した。金州の一般市民等らは北朝鮮により悲惨にも大量に虐殺された。国連軍がソウルまで帰還してから、土中に埋められていた朝鮮人の遺体を家族らが1950年9月に掘り起こして探した。
日中戦争が、1937年7月7日の盧溝橋事件から、中国北部から南部に戦闘が拡大して、中華民国の首都であった南京は1937年12月13日に日本軍に陥落した。日本軍は、規模や内容は不詳であるも、中国軍の捕虜、敗残兵、ゲリラ戦闘員及び南京周辺の一般市民を大量虐殺をした。一部の日本軍兵士は中国人を日本刀で首切りで処刑した。
アメリカ合衆国に対して同時に多発テロが2001年9月11日に発生する。ボストン発のアメリカン航空11便は午前8時15分に、ユナイテッド航空175便は午前8時20分に同時にハイジャックされた。ニューヨークの世界貿易センターのツインタワーに向けて、アメリカン航空11便は午前8時46分に時速790kmで, 間もなくユナイテッド航空175便は950kmで突入し、爆発炎上した。ツインタワービルは、午前9時59分に崩壊し始めて、2,749人の民間市民が無差別に巻き込まれて死亡した。
レバノン内戦が1975年に起こった。イスラエル軍隊が、パレスチナ解放機構(PLO)を排除するために、1982年6月にレバノンのサブラ・シティーラ難民キャンプを包囲した。ファランジスト派のキリスト教徒の兵士が、1982年9月16日にパレスチナ人を大量に銃殺や斬る刺殺して死体を放置した。無差別に約3,500人の民間市民が虐殺された。当時のイスラエル国防相のアリエル・シャロンは辞任するも、2001年から2006年に首相に就任して、パレスチナに侵攻した。