2023年10月3日火曜日

1931年11月18日の江橋付近の激戦の後で、中国軍の大量の砲撃により、日本軍に戦死傷者が出た。日本軍兵士は、担架に戦死傷者を掲載して、後方の陣地に搬送した。

1931年9月18日に中華民国の奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で、関東軍が南満洲鉄道の線路を爆破した事件が勃発して、1932年2月18日に関東軍による満洲(中国東北部)全土の占領をした。1931年11月18日の江橋付近の激戦の後で、中国軍の大量の砲撃により、日本軍に戦死傷者が出た。日本軍兵士は、担架に戦死傷者を掲載して、後方の陣地に搬送した。

 1931年11月18日の朝から、日本軍は三望峰の中国軍に対して総攻撃を開始した。日本軍が陣地の前線に1時間砲撃し、中国軍は大砲で応戦した。大砲の音が鳴り響き、朔北の荒野全体を震撼させた。8時、日本軍は中央を突破して包囲して総攻撃を開始した。10時、中国軍は陣地を維持できず、安康渓の地域に退却した。日本軍は戦闘機約12機、戦車約12両、大砲約30数門を追加し、激しい砲撃ですべての塹壕を破壊した。中国軍は、丸一昼夜、米も水もなく、空腹で、叫びながら、殺し合いの戦いを続けて、全旅団が半数ずつ死傷し、安康渓に撤退した。中国軍は3日間戦い続けて、約3000人以上の死傷者を出し、約2000人以上が死亡した。

 三望峰の戦いの最中、中国軍は各方面に援軍を要請した。北京からの指示は皆無であった。道安路の戦い以来、弾丸はすべて黒竜江省の古い在庫で、カビで濡れて使い物にならなかった。一昼夜の激戦で、中国軍兵士は10分の9を使い果たして、丸腰では戦争できない。多くの死傷者を出し、弾薬と食料を使い果たし、助かる見込みもなく、馬占山は中国軍部隊に撤退を命じた。日本軍は虹慶子から中国軍の後を追った。馬占山は省都を克山に移動するよう命じて、約500人の衛兵と700人の騎兵を率いて倫沙を保持した。

11月19日朝、日本軍の主力は省都から約24km離れた玉樹屯を占領し、激しい砲撃で省都を砲撃した。約5000人以上の日本軍兵士が斉斉哈爾に侵入し占領した。馬占山は軍隊を斉斉路から克山、八泉、海崙に撤退して、江橋の戦いは終結した。日本軍側は、11月4日から11月19日までの江橋抵抗戦にて、馬占山軍により、戦死は約31人、戦傷は約104人、行方不明は約13人、さらに約300人の凍傷患者が発生した。中国軍の損害は、不詳であるも約1,000から約3,000人と推定した。馬占山は、11月21日夕方に、海倫に到着した。望奎、海倫、克山、訥河の陣地に分駐した。