アメリカ大使館側の自動車が、南ベトナム解放戦線のベトコンによる爆弾テロリズムによって、1965年3月30日午前10時50分に大爆発した。その周辺では、大爆発に巻き込まれて全身血まみれの南ベトナム人の死体が散乱した。ベトナム戦争にて、南ベトナムの首都サイゴンにあったアメリカ大使館の側に駐車していた車が、大爆発した。ベトコンの攻撃は、南ベトナムの警官が大使館の前に駐車した車の運転者と口論を始めた。運転者が立ち去るのを拒否し、別のベトコンの一員が車に並走して警官に発砲した。短時間の銃撃戦の後に、約136kgのプラスチック爆弾を積んだ車が大使館前で大爆発した。
その大爆発によって、アメリカ大使館は崩壊して、ベトナム人は約19人、アメリカ人は2人ほか、フィリピン人が1人が殺害されて死亡して、約183人以上が負傷した。CIA速記官のバーバラ・A・ロビンス、海軍二等書記官マノリート・W・カスティーヨが死亡して、ロビンズはわずか21歳で、CIA秘書職務中に死亡した最初の女性CIA職員であった。1965年3月30日の朝、バーバラは窓の外から大きな銃声が聞いた。急いで窓の外に出ると、大使館に近づいた車を止めようとした警官の発砲だった。警官が発砲すると、スクーターに乗った別の男が車の横に乗り込み、警官を撃った。車内に仕掛けられた約136kgの爆弾が大爆発し、窓辺にいたベトナム人群衆が吹き飛ばされた。爆風で窓ガラスやエアコン、鉄の窓枠も投げ出され、アメリカ人は女性のバーバラと男性のマノリートが死亡した。
アメリカ軍が介入してのベトナム戦争は1965年3月8日に、アメリカ軍海兵隊がダナンに上陸したときが公式の勃発であった。南ベトナムの敗北の脅威は十分に大きくなり、ダナンのアメリカ空軍基地と港を防衛するために、ジョンソン大統領が最初の地上戦闘部隊をベトナムに派遣した。その直前の1965年2月7日に北ベトナム領内に対する爆撃を開始していた。アメリカ議会は3月30日の爆弾テロによるアメリカ大使館の再建のために約100万ドルをすぐに計上した。アメリカ軍の指導者の中には、北ベトナムへの特別報復の空襲を主張したが、リンドン・B・ジョンソン大統領は特別報復は拒否した。ベトナム政策見直しの後に、1965年7月9日に本格的なアメリカ遠征軍の派遣を決定した。
2022年7月7日 Japan No War NGO (JNWN)
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