1991年4月に韓国での学生デモの最中に、女性が身体に火をつけて鉄橋から投身自殺をした。全南大学女子学生の朴勝熙は、4月29日14時頃に、全南大学で開催された2万学友決議大会に出席し、15時ごろ全南大学本部の龍峰館の後方から投身自殺した。全南大学病院で治療を受け、全身3度の火傷により細菌感染で敗血症が発生した。1991年5月17日に再び敗血症が発生して40度以上の高熱と多臓器不全によって、5月19日に病死した。
1991年4月26日に韓国では、1987年に韓国大統領に就任した盧泰愚(ノテウ)政権に対する反政府運動のデモに参加した大学生の姜慶大が、警官に殴打され死亡した事件が発生した。それに抗議する学生の焼身自殺が続発して、学生の焼身自殺者が7人も出た。その後に学生や労働者による抗議の焼身自殺がその後約一か月間にわたり全韓国で頻発した。死に対する弔い合戦が激烈なデモとなり、投石、火炎瓶と催涙弾を交えた民主化闘争へ展開された。その最中で抗議の自殺が企てられ、デモの渦中での圧死事件などが起こり、闘争はいっそう過熱し、自死が再生産された。
韓国南西部の光州市で1980年5月18日に、学生や市民らの民主化要求デモが、韓国軍によって武力鎮圧された光州事件以降も、韓国の軍事政権は学生運動などを徹底的に弾圧した。ソウル大では、1986年4月28日に焼身自殺を決行した。全世鎮が5月5日に、季載虎 が26日に死亡した。反戦・反核闘争のデモで反米スローガンを叫んでいた全世鎮、季載虎という二人のソウル大生が抗議の焼身自殺をした。そこから雪崩を打ったように、自殺を遂げる苛烈な運動が展開されていった。5月20日に季東洙という学生が学生集会のさなかに焼身・投身自殺を遂げた。翌日5月21日には状況に自責の念を抱く 女子学生が入水自殺をとげた。1986年5月の学生運動は、まさに死と傷と苦しみの記憶が塗れた。1980年代以降の民主化運動の現場では、政治的不義に抗議する焼身自殺が頻発した。