ロシア軍により捕虜となったドイツ軍の下士官のポケットから発見されたコヴノにおけるユダヤ人虐殺。
ナチス・ドイツ国防軍兵士は、残虐行為の証拠写真を記念に持ち帰っていた。1941年の冬に捕らわれたドイツ軍歩兵の胸ポケットから、コヴノのユダヤ人虐殺の惨状を示す下記の写真があった。ナチス・ドイツ軍は、暴力に快感を感じているようだ。避難民を、銃の乱射で皆殺し、パルチザンを拷問にかけた。ガソリンをかけた薪の上で犠牲者を焼いて、酒を飲んで談笑した。1941年12月13日に捕虜の赤軍を、有刺鉄線で囲んだ四階建てのビルに押し込めた。ドイツ軍は深夜に、建物に火をつけて、窓から飛び降りる赤軍を撃った。約70人の赤軍が射殺されて、その他多数は焼け死んだ。その他に、ロープで首を吊られた2人のロシア人をドイツ兵が眺める写真も所持していた。
ナチス・ドイツとソ連は1939年8月に独ソ不可侵条約の秘密協定を結んだ。独ソは、ポーランドを共に侵略して分割占領して、バルト諸国はソ連に割譲を取り決めた。ソ連は1940年6月にリトアニアに赤軍を侵攻させてコヴノなど全土を占領した。1941年6月に独ソ戦が開始されると、リトアニアやコヴノからソ連軍はは撤退してドイツ軍が占領した。
コヴノには全人口の約4分の1を占める約4万人のユダヤ人が暮らした。リトアニアでは反ソ連と反ユダヤ主義が蔓延した。リトアニア人は報復的な殺人行為をドイツ軍に協調して、ドイツ軍の占領から約1カ月間でコヴノで約1万人のユダヤ人が虐殺された。ドイツ軍はユダヤ人の強制隔離地区であるゲットーを創設した。コヴノのユダヤ人住民全員をゲットーに移住させた。ナチス・ドイツは、収容所に送るまでの間、ゲットーにユダヤ人を隔離した。狭い場所に大勢の人間が詰め込まれ、毎日のように収容所への移送した。食糧は不足し、人々は餓死して、不衛生で伝染病が流行した。道端に死体が転がっていた。ゲットーと外部は3m59cmのレンガの壁が遮断して、とても乗り越えれない。ユダヤ人は壁の向こうに願い望み焦がれて叫び憎み呪った。
1941年8月にはゲットーが封鎖されて、約3万人のユダヤ人が隔離された。数カ月でゲットーの約3,000人が虐殺された。1941年10月28日に約9,000人が郊外の要塞に連行され殺害された。コヴノは約18,000人のゲットーとなった。1943年秋に親衛隊が直接のゲットーを支配して、コヴノ・ゲットーは強制収容所に転換された。1943年10月に基幹収容所の約2,700人の囚人を移送した。健常者はエストニアの労働収容所へ、労働不可者、老人、子供などはアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所へと移送した。ソ連軍の接近に伴い、1944年7月8日に親衛隊はコヴノ強制収容所の撤収をした。残った囚人たちはダッハウ強制収容所やシュトゥットホーフ強制収容所へと移送された。ソ連軍がコヴノに到着する前に、ゲットーや収容所は徹底的に破壊され、約2,000人ほどのユダヤ人が虐殺された。