2024年10月31日木曜日

延辺文化大革命に巻き込まれ、趙永華(趙永华)は、冤罪で殺人犯として公開処刑された。民衆が取り囲んで、抑え込まれ、銃撃された頭部から出血した死体は仰向けに倒れた。

延辺文化大革命に巻き込まれて、趙永華(趙永华)は、冤罪により殺人犯として公開処刑された。多数の民衆が取り囲んで、抑え込まれて、頭部を銃撃された。趙永華の死体は、前頭部から出血して、草原に仰向けに倒れた。中国全国で約402,000件の冤罪が発生した。

 1966年5月から中国全土を揺るがした文化大革命は、辺境の延辺朝鮮族の社会にも1966年8月から深い傷跡を残した。自らの民族性を否定され弾圧された厳しい時代であった。江青女史の指示により、漢族と朝鮮族との葛藤が助長されて、同族同士の殺し合いにまで発展した巧妙に仕組まれた民族抹殺計画であった。中国の吉林省にある豆満江沿いの延辺朝鮮族自治州は、中国政府が1952年に、中国の55少数民族の一つである朝鮮族の自治を認めた。

 毛遠新は、毛沢東の実弟である毛沢民の息子であった。1941年に新疆で生まれ、2歳の時に父親の毛沢民が、少数民族勢力に殺害された。その後、毛沢東は毛遠新を親子のように大切にした。毛遠新は北京清華大学に通って、1964年にハルビン軍事工程学院を卒業した。文化大革命が始まるとすぐに信奉者たちを連れて1966年10月末に延辺へ渡った。

 毛遠新は、毛沢東の妻である江靑の指示を直接に受けた。毛遠新は、延辺朝鮮族自治州で民族紛争を起こし、多くの犠牲者を出した。毛遠新は、東北の太上皇と呼称され、強大な権力を誇った。毛沢東の死後に、四人組と共に逮捕された。懲役17年、政治資格剥奪4年の判決を受けた。1993年に刑期を終えて釈放された。

 韓国の写真家の柳銀珪は、十数年間にわたり、延辺朝鮮族自治州など中国東北部の朝鮮族の移住と定着の歴史を掘り起こした。延辺文化大革命を記録した一人の朝鮮族写真家と出会い、膨大な量のフィルムを入手した。過ぎた時代を生々しく再現する痛恨の「延辺文化大革命」を公表した。中国では未だ発表できない事実が、朝鮮族の文化大革命であった。