2019年11月9日土曜日

太平洋戦争のフィリピンの戦いに巻き込まれて、虐殺された多数の女性と子どもの死体がジャグルの中に放置されて腐敗してハエが集った。

太平洋戦争のフィリピンの戦いに巻き込まれ、虐殺された多数の女性と子どもの死体がジャグルに放置され腐敗してハエが集った。
 太平洋戦争の有名な激戦地は、ガダルカナル、硫黄島、そして沖縄である。ガダルカナルの戦いの日本軍兵士の死者は約2万人、硫黄島の戦いの日本軍兵士の死者は約2万人、沖縄戦の日本軍兵士の死者数約8~10万人と推定された。しかし、中国戦線を除いて、太平洋戦争で最も日本軍兵士の戦死者が多かったのは、フィリピンの戦いであった。大本営は比島決戦と称して、フィリピンでのアメリカ軍との会戦を大東亜戦争の天王山と位置づけて、都合約75万人もの大兵力を送ったが、実に約50万人もの日本軍兵士が戦死した。日本軍の真珠湾奇襲とほぼ同時に日本軍は南方資源地帯の確保のため南方作戦で、1942年4月には日本軍はフィリピン全土を占領した。1944年10月20日から、約20万人ものアメリカ軍がフィリピン奪還の戦闘を始動した。1945年1月4日にアメリカ軍はルソン島北西部のリンガエン湾に上陸して、ただちに南下して首都マニラを侵攻した。
 それから終戦までの約10か月、フィリピンの海上では、日本海軍の神風特別攻撃隊の自爆突撃が勃発した。陸上では日本陸軍の敗残兵が最後までジャングルや山岳奥地に立てこもって持久戦に陥った。ルソン島で防衛準備をしていたが、レイテ島にアメリカ軍が上陸すると、戦力の逐次放出をしては圧倒的火力のアメリカ軍に殲滅された。困窮した日本軍はマニラを死守する方針に固執して、膨大なマニラ市民が戦闘の巻き添えになり大量虐殺された。マニラに限っても、マニラの非戦闘市民の犠牲者は10万人を昇った。フィリピン全土では一体いくらの罪なきフィリピン人市民が犠牲になった。背後の敵となる恐れがあると見なしたフィリピン人市民を日本軍は無差別に大量殺戮した。アメリカ軍は、マニラではトーチカや建物からの狙撃による犠牲の損害を最小限に抑えるため、重砲火による無差別砲撃で街区を次々と破壊した。近年の戦史研究は、マニラの民間市民の約10万人の犠牲の約6割は日本軍による殺戮で、約4割はアメリカ軍の重砲火による死亡と推定した。近年から戦争を撲滅することは人類の悲願であるも、兵器で闘争することが途絶えない。戦争が勃発すれば、必ず多くの市民が巻き込まれて犠牲となった。