2022年3月31日木曜日

アメリカ大使館の敷地には、ベトコンのテト攻勢の決死隊が、腕に赤い腕章をして、ゴム製のホーチミン・サンダルをはいたベトコンのゲリラ部隊の死体があちこちに横たわった。

アメリカ大使館の敷地には、ベトコンのテト攻勢の決死隊の印として腕に赤い腕章をして、ゴム製のホーチミン・サンダルをはいたベトコンのゲリラ部隊の死体があちこちに横たわった。ベトナム戦争にて1968年1月31日の真夜中過ぎに、19人のベトコン工兵が、サイゴンの自動車の修理店に集まり、武器を配布して、攻撃の最終準備を行った。午前2時47分に、ベトコンはトンヌット大通りの周囲の壁に小さな穴を開けて、アメリカ大使館の敷地に侵入した。ベトコンは総領事館ビルには入れず、治安部隊に釘付けにされ、最終的に一人の生存者除いて全員がアメリカ軍に殺害された。

 1968年1月31日からのテト攻勢は北ベトナムは失敗に終わったが、アメリカ本国に政治的、心理的に大きな衝撃を与えた。アメリカ人は5人が殺害されて、ベトコンは18人が殺害されて、1人が捕獲された。テト攻勢の朝のベトコンの使命は、アメリカ大使館、大統領宮殿、国立放送スタジオ、南ベトナム海軍本部、タンソンニャット空軍基地のベトナム合同総務本部、フィリピン大使館の6つを標的とした。ベトコンのゲリラ部隊の死体があちこちに横たわった。ゲリラたちは解放戦線の正規部隊の中から選抜された特殊攻撃隊だった。

 ベトナム戦争の分岐点となったテト攻勢は、南ベトナムの首都サイゴンのアメリカ大使館がベトコンに攻撃された。憲兵隊(MP)と海兵隊保安隊(MSG)が対応するも、メディアや国民から否定的に捉えられた。テト攻勢は、1968年1月31日にテトの休日にベトコンと北ベトナム軍が、南ベトナムの約100以上の市や町に突撃した。震源地となったのが、サイゴンのアメリカ大使館への攻勢である。1968年のテト攻勢におけるアメリカ大使館への攻撃は、戦術的勝利が政治的敗北に変貌した。MSGとMPはベトコンの侵入を防ぎ、総領事館を保持できて、明確な戦術的勝利を収めたが、その行動は政治的敗北として喧伝された。政治的敗北の事態を招いたのは、戦争に対するアメリカ世論の変化とメディアと軍の関係の悪化、アメリカ大使館での作戦遂行に直接影響を与えた国務省の対応であった。

 テト攻勢は、南ベトナム軍とアメリカ軍の意表をついたが、占領地はすぐに回復し、奪還された。軍事的には、テト攻勢は共産党に壊滅的な打撃を与えた。しかし、軍事的には大敗を喫したものの、心理的には大きな勝利を収め、最終的には戦争に勝利することになる。しかし、この攻勢は軍事的には大敗北を喫したものの、心理的には大きな勝利を収め、最終的には戦争の勝利につながった。この攻勢による米軍の死傷者の映像は、長い紛争に疲弊していたアメリカ国民の反戦感情を刺激した。国民は、戦争の進展に関する報告に幻滅して、リンドン・ジョンソン大統領は1968年3月31日に、私は大統領として再選されるための、私が属する党による指名を求めることも、受諾することもありませんとテレビ演説した。同様な結末が、2021年8月15日に、アメリカ軍がアフガニスタンの首都カブールからの撤退を続けて、ヘリコプターがカブールのアメリカ大使館から人々を避難させて、ベトナム戦争における1975年4月30日のサイゴンのアメリカ大使館からの撤退の歴史が再来した。




2022年3月30日水曜日

第二次世界大戦にて1942年7月22日に、スロベニアのツェリエ市のスタリ・ピスカー刑務所で、ナチス・ドイツ軍の銃殺隊約30人が、スロベニア民間人の約100人を銃殺した。

第二次世界大戦にて1942年7月22日に、スロベニアのツェリエ(Celje)市のスタリ・ピスカー刑務所で、ナチス・ドイツ軍の銃殺隊約30人が、反抗する容疑者のスロベニア民間人の約100人を銃殺した。ドイツ人将校は、絶命するために、検死をしながら頭部を撃っては殺害した。銃殺された死体は担架に乗せられて、集団墓地に運んでは埋葬した。ナチス・ドイツ軍が、反乱を抑止する残虐な銃殺であった。抵抗行為に対する報復として、特に女性や子供を射殺することもあった。7月22日にツェリエで、射殺された約100人のスロベニア人の中には、銃殺の犠牲になる5人の女性が含まれた。ナチス・ドイツは、女性や子供に対する銃殺が抵抗活動を弾圧するのに特に効果的であると考えた。ナチス・ドイツの残虐行為は、ユーゴスラビアのパルチザンを完全に抑制できなかった。

 スロベニア東部のツェリェは、1941年4月にナチス・ドイツ軍に占領された。ゲシュタポが1941年4月16日にツェリェに到着した。その3日後に親衛隊長のハインリヒ・ヒムラーが、スタリピスカー刑務所を視察した。約1,000人がツェリェの刑務所に収監された。約600人の子どもをゲルマン化するためにナチス・ドイツに強制連行され、「盗まれた子ども(stollen children)」と呼称された。両親から離れてドイツの家族に割り当てられた子供たちも含めて、約46,000人のスロベニア人がドイツに追放された。ナチス・ドイツ軍がスロベニアを占領中に、1942年7月22日にツェリェ刑務所で約100人、1942年10月2日にマリボール刑務所で約143人、1945年2月12日にフランコロボ地域で約100人のスロベニア民間人が虐殺された。

  ナチス・ドイツ軍は、1941年3月27日に反逆したユーゴスラビア軍を崩壊して、4月17日に征服した。ユーゴスラビアに枢軸国が侵入すると、そのうちスロベニアはナチス・ドイツの占領下に置かれた。イタリア軍によって首都リュブリャナが占領され、北東の一部の地域はハンガリーが占領して、さらにクロアチア独立国が成立するとイタリア占領地域のうち南東部がクロアチア統治下となった。スロベニア人の住む地域は、約4つの勢力によって分断された。共産主義のパルチザンはヨシップ・ブロズ・チトーに加わり、ドイツ軍などと戦闘した。ナチス・ドイツはユーゴスラビアを占領した直後から、約65,000人を追放から投獄、処刑された。あらゆるパルチザンを残酷に弾圧するために、パルチザン容疑者の全員を射殺して、家族と子どもは強制送還した。





















2022年3月29日火曜日

南軍兵士は、北軍の最後の猛攻をマホーン砦で受け止めて、南軍兵士は泥水の側で、銃を脇に置いて、仰向けに倒れて絶命した。

アメリカ合衆国の南北戦争において、グラント将軍の北軍が、バージニア州のピーターズバーグの戦いで、マホーン砦の南軍を1985年4月2日に襲撃した。南軍兵士は、北軍の最後の猛攻をマホーン砦で受け止めて壊滅した。南軍兵士は河辺の側で、銃を脇に置いて、仰向けに倒れて絶命していた。マホーン砦の周辺には、多数の南軍兵士が殺害されて死体が散乱していた。翌日4月3日に、マホーン砦の周辺の南軍の死体が撮影された。マホーン砦の写真には、北軍と南軍の死体や、城壁に立つ勝利した北軍兵士が撮影されている。マホーン砦は、天罰砦と呼称された。リンカーン大統領は、マホーン砦を占領した翌日4月3日に、死者が運び出される前に、マホーン砦を訪れた。リンカーンは、死者の中に数日前に見かけた兵士に気づき、涙を浮かべた。マホーン砦は、南北戦争の終戦後にすぐに取り壊された。 

 第3次ピーターズバーグ(Third Battle of Petersburg)の戦いは、1865年4月2日にバージニア州ピーターズバーグの南と南西で勃発した。グラント将軍の北軍は、1865年4月1日のファイブフォークスの戦いに勝利して、ロバート・E・リー将軍の南軍の塹壕と要塞に攻撃を開始した。南軍の右翼と後部が露出されて、補給線は切断され、南軍の守備隊は死傷者、捕虜、逃亡者などで1万人以上が犠牲となった。南軍の戦線は、戦闘による脱走と死傷者によって限界に達した。大規模な北軍が戦線を攻撃する中で、必死の南軍の守備隊が北軍の躍進を食い止めて、南軍の残存兵力のほとんどが、4月2日夜にピーターズバーグと南軍の首都バージニア州リッチモンドから脱出した。北軍は1865年4月3日にリッチモンドとピーターズバーグを占領した。北軍の大部分は北バージニア軍を包囲するまで追撃した。北軍は約3,936人が犠牲となり、南軍は約5,000人が犠牲となった。

 南軍は1964年6月にマホーン砦を要塞としては1864年に設置した。1965年4月には、南軍の防衛線に最強にも、わずか3つの大砲と迫撃砲を保有したのみであった。北軍によるピーターズバーグ包囲戦により、マホーン砦は、北軍が南軍の他の戦線を突破し始めた1865年4月2日の夜明けに攻撃された。約14,000人の北軍兵士が、マホーン要塞の南軍約1,500人の守備隊と戦った。北軍はマホーン砦の手前で、泥水で満たされた腰までの深さの溝に直面した。手斧と斧だけで武装した北軍兵士は、夜明けのまでに障害物を切り崩した。南軍は狙撃して格好の標的となったが、北軍は攻撃の戦線を切り開いた。

 4月2日の最初の北軍の攻撃で、南軍の防衛軍は圧倒されて後退した。午後3時には南軍は反撃して、北軍を追い返した。北軍の援軍が到着して、両軍は夜までマホーン砦の一部を保持した。4月3日に夜が明けると、南軍が撤退して、マホーン砦は北軍が攻略した。他の地点も突破されて、南軍の陣地は維持できなくなり、ピーターズバーグからの撤退が命じられた。マホーン砦の前の北軍の死傷者は約1,700人にも達して、南軍の死傷者は不明である。 




2022年3月28日月曜日

アメリカ海軍水兵は、太平洋戦争の起点である真珠湾攻撃から約2〜3月後の1942年2月下旬から3月上旬頃に、真珠湾の海底から引き上げた日本軍兵士の黒焦げの死骸を見守った。

日本軍は1941年12月7日に真珠湾攻撃を奇襲して、太平洋戦争が勃発した。ハワイ諸島のオアフ島の真珠湾において、日本軍兵士の搭乗員は、真珠湾攻撃中に炎上した戦闘機とともに真珠湾に墜落した。アメリカ海軍の水兵は、真珠湾攻撃から約2〜3ケ月後の1942年2月下旬から3月上旬頃に、真珠湾の海底から引き上げた日本軍兵士の黒焦げの死骸を見守った。

 1941年12月7日に、日本海軍はアメリカ軍への奇襲攻撃を開始てし、ハワイ・真珠湾の軍艦や軍事目標に空爆を行った。350機以上の日本軍の航空機が2波にわたって海軍基地を攻撃して、標的を空爆して、徹甲弾を投下して、アメリカ軍の戦艦や巡洋艦に向かって魚雷を打ち込んだ。アメリカ軍は何の備えもなく、爆音で目を覚まし、我が身を守るために奔走した。日本軍の先制攻撃はわずか約90分間で、戦艦4隻、駆逐艦2隻を撃沈した。さらに航空機は約188機を撃墜して、さらに多くの建物、船舶、航空機等を損傷させた。死者は約2,400人、負傷者は約1,250人、アメリカ国民に大きな衝撃を与えた。日本軍は29機から60機の航空機、5隻のミゼット型潜水艦、1隻か2隻の艦隊型潜水艦、100人弱の兵士を失った。日本の機動部隊は攻撃されることなく戦場から退いた。 

 真珠湾攻撃の直後に、日本は正式にアメリカに対して宣戦布告をした。翌日に、ルーズベルト大統領は恥辱の演説(Infamy Speech)行い、大日本帝国に対する正式な宣戦布告に調印した。数日のうちに、ナチス・ドイツとイタリア王国もアメリカに対して宣戦布告し、アメリカもすぐにそれに応えて、第二次世界大戦の地球規模の戦争が勃発した。

 ルーズベルト大統領の恥辱の演説: 昨日1941年12月7日この日は汚名(infamy)と共に記憶されることであろうが、アメリカ合衆国は、大日本帝国の海軍及び空軍による意図的な奇襲攻撃を受けた。合衆国は、同国との間に平和的関係を維持しており、日本の要請により、太平洋の平和維持に向け、同国の政府及び天皇との対話を続けてきた。ハワイ諸島に対する昨日の攻撃は、米国の海軍力と軍事力に深刻な被害をもたらした。残念ながら、極めて多くの国民の命が失われたことをお伝えせねばならない。昨日、日本政府はマラヤへの攻撃をも開始した。昨夜、日本軍は香港を攻撃した。昨夜、日本軍はグァムを攻撃した。昨夜、日本軍はフィリピン諸島を攻撃した。昨夜、日本軍はウェイク島を攻撃した。そして今朝、日本軍はミッドウェイ島を攻撃した。つまり、日本は太平洋全域にわたる奇襲攻撃を敢行したのである。1941年12月7日の日曜日に日本の一方的かつ卑劣な攻撃が開始されたため、アメリカ議会に対して、アメリカ合衆国と大日本帝国の間に戦争状態が開始したと宣言するよう要請する。

 真珠湾攻撃が悪名高い理由はただ一つ、軍事的侵略行為であったからである。日米両国は、利害の対立が激しくなりそうな時期ではあったが、当時は戦争状態にはなかった。真珠湾攻撃は、日本が先制攻撃したために戦争犯罪となったのである。大国は自国の安全保障や経済的利益が将来他国によって脅かされる可能性があると考えるときはいつでも、軍事力を行使する権利を主張する。敵対者による敵対行為を阻止するために、大国は必要であれば先制的に行動する。潜在的な脅威を察知したら、先制攻撃が有利に働くのであれば、先制攻撃、つまり戦争を開始するのである。指導者たちは、戦争に負けたことではなく、戦争を始めたことが戦争犯罪であることをはっきりさせなければならない。国際社会は、先制戦争を再び放棄して、戦争犯罪と非難しなければならない。






2022年3月27日日曜日

ハラブジャ大虐殺は、イラン・イラク戦争中にイラク北部の約5,000人のクルド人を、イラク軍が化学兵器の毒ガスで大量虐殺した。

ハラブジャ大虐殺(Halabja massacre)の事件は、イラン・イラク戦争中にイラク北部のクルド人に対してイラク軍が化学兵器を執行した。1986年から1988年にかけて、ハラブジャ大虐殺の都市で毒ガス攻撃が行われた。イラク北部で1986年から1988年にかけて、サダム・フセインの反乱を鎮圧する作戦の一環であった。サダム・フセインは、イラク軍の北戦線の司令官であるアリ・ハサン・アル・マジッド・アル・ティクリティ中尉に、イラン軍の侵攻を阻止するために、毒ガス爆弾を使用してイラン軍の前進を阻止するように指示した。事件は1988年3月16日に発生した。ハラブジャの町は、有毒ガス爆弾を搭載した8機のミグ(MiG-23)戦闘機によって爆撃された。この事件で、約5000人が毒殺されて命を落とし、約7000人以上が負傷したと予測された。国連から委託された健康調査の結果、マスタードガスと種類が不特定の神経ガスが攻撃に使用された。科学兵器により、約3,200人から5,000人が命を落とし、約1万人から7,000人の民間人が負傷し後遺症を残した。しかし、サッダ政権は一貫して、事件はイランの仕業と関与を否定した。イラン・イラク戦争にてスンナ派諸国、欧米諸国などの多くがイラク側を支持して、ハラブジャ大虐殺は黙殺される状況になった。

 毒ガスの発生後に、空気の匂いが変わり、腐ったリンゴの匂いがした。ある子供たちの一人は、「お母さん、リンゴの匂いがやってくる!」と言い残した。咳をして地面に倒れた人は、二度と起き上がれなかった。地面に横たわった人の口から泡が出ていた。毒ガスは重く、地下室に避難して、よけいに多くの民間人が虐殺された。毒ガスを吸入した子供や大人に、合併症や様々な病気から遺伝性不妊症などが発生した。ナチス・ドイツのユダヤ人大量虐殺で使用されたシアン化水素化合物(青酸ガス)、マスタードガス、サリン、VXガスなど複数の種類が極めて大量に用いられたと推測された。化学兵器(CW)とは、化学物質の毒性を兵器として利用する。大量破壊兵器(WMD)と見なされ、化学兵器の使用は国際人道法により禁止されている。旧サダム・フセイン政権のために化学兵器を調達したオランダ人のフランス・ファン・アンラートはが逮捕され、15年の禁固刑を受けた。

 サダム・フセインがハラブジャ虐殺でクルド人に対して大量虐殺の裁判にかけられるも、死刑の求刑は暗殺未遂の容疑として約148人のシーア派イラク人を殺害したデュセイル虐殺の人道に対する罪のみで有罪判決を受けて、2006年12月30日に絞首刑に処刑された。ハラブジャ大虐殺をしたアンファル作戦を率いたイラク高官のアリ・ハッサン・アル・マジッドは、ハラブジャ大虐殺を命令して有罪となり、2010年1月25日に死刑が執行された。イラク最高刑事裁判所は、2010年3月1日にハラブジャ虐殺を大量虐殺の行為と認定した。



























(Ref. : https://tr.glbnews.com/03-2022/1341065622/)

2022年3月26日土曜日

長崎原子爆弾が炸裂した翌日8月10日には、鎮西学院中学校の焼け跡があり、援護義勇隊が担架を担いで道ノ駅に向かって、地域住民は被爆地を見渡しながら探索した。

長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に落下して炸裂した爆心地である松山町の交差点から約750m地点である。翌日の8月10日午後2時頃には、右奥には鎮西学院中学校の焼け跡があった。学生の援護義勇隊のグループが、担架を担いで北方の救護所がある道ノ駅に向かって行進した。その他に地域の住民らが、周囲の被爆地を探索して見渡しながら独歩していた。長崎本線の鉄道の右側の小高い丘の上にある崩壊した4階建てのビルは、鎮西学院中学であった。

 鎮西学院中学校(現在の活水女子中学・高等学校)は、浦上川を眼下に見下ろす小高い丘の上で、爆心地から南西約500mと被爆距離が近く、校舎その他が全滅した。職員9人と生徒約130人(即死が約68人と後日死が約35人)が被爆死した。校舎は鉄筋コンクリート4階建で、4階が全部崩壊、3階は爆心に面した北側半分が崩壊し、火災により各階の内部が焼失した。雨天体操場、武道場、寄宿舎(2階建)の木造建築物は、倒壊して全焼した。校内にあった三菱電機及び三菱製鋼の二つの疎開工場も壊滅した。

 長崎原子爆弾は、長崎市の工業地帯を爆撃の目標として、南の三菱長崎製鋼所と北の三菱浦上製錬所(魚雷製造所)のほぼ中間地点で炸裂した。後方中央の煙突は、三菱長崎製鉄所の一部であった。爆心地から南1.4kmに所在した三菱長崎製鉄所の従業員の犠牲者は、8月9日の出勤者である1,721人のうち死者は約1,406人(69%)にものぼった。死者の1406人の内訳は、会社員が189人、工場労働者が728人、工場実習生が118人、新規学徒動員が122人、女子勤労挺身隊労働者が26人、動員された学生が223人(教員を含む)であった。

 三菱長崎製鉄所の工場は爆心地から約750mで主要建物は全壊し、瓦礫の中から数本の煙突と第4工場などの立ち上がった骨組みだけが残存した。産業機械も大きな被害を受け、ほとんどの機械が使用不能となり、工場は生産能力を失った。工場の建物は、硬い鉄骨がシュガークラフトのように溶けて、完全に折れ曲がった。北側の窓のサッシは、内側へ向かって陥没した。周囲から被爆者が次々と運ばれてきて、畳を敷き詰めた床の上に寝かされた。




2022年3月25日金曜日

2002年4月12日に、イスラエルの首都エルサレムのマハネ・イエフダ青空市場の入口のジャファ通りのバス停付近で、17歳のパレスチナ人女性が自爆テロを犯行した。

2002年4月12日、イスラエルの首都エルサレムのマハネ・イエフダ青空市場の入口のジャファ通りのバス停付近で、パレスチナ人女性が自爆テロを犯行した。強力な爆薬を自爆させて、6人が死亡して、104人が負傷した。エルサレム中心部の混雑した市場近くのバス横で、パレスチナ人女性の自爆テロが発生し、6人が死亡、104人以上が負傷した。現場のジェファ通りに、殺害されたイスラエル人女性を含む多量の出血した死体が散乱した。パレスチナのPLO指導者ヤセル・アラファトとアメリカ国務長官のコリン・パウエルの会談が流会となった。その首謀者としてアル・アクサ殉教者旅団が自爆テロを公表して、ヨルダン西岸地区のパレスチナ人武装集団の連合体で、テロ組織と指定された。

 2002年4月12日金曜日に、パレスチナの17歳の女性である自爆テロ犯人のアンダリブ・スレイマンが、午後4時過ぎに、混雑していた青空市場の入口にあるバス停で身体に隠した爆発物を自爆させた。バスに乗る前に、イスラエル人犠牲者に最大限の損害を与えるために釘を詰めた爆弾を爆発させた。爆発物を入れた3本のプラスチックパイプと釘を入れた黒いハンドバッグを、身体に付けた。彼女は、最後の映像では、黒い服を着てコーランを持ちながら、イスラエル占領に対する女性の戦いの象徴として自爆した。

 自爆テロ犯の女性は、ベツレヘムの南16kmにあるベイト・ファジャール村に居住した。彼女の2人のいとこは、エルサレムのマハネ・イエフダ市場で自爆テロを行う準備で、イスラエルの治安部隊に逮捕され、イスラエルの刑務所に連行され、家族の家はイスラエル軍によって取り壊された。アンダリブは未婚であるも、ファタハの工作員に妊娠させられ、彼女に強要した妊娠に対する感情的と社会的影響から、自爆テロを実行する決断に陥った。武装集団は、繰り返し殉教者を賞賛している。

 パレスチナの武装集団が、イスラエルの民間人を標的にする自爆テロを実行した。1993年9月から2000年9月下旬にパレスチナ人とイスラエル人が激突した事件に、パレスチナ人武装集団はイスラエルの民間人に14回の自爆攻撃を行い、主に1996年から1997年にかけて、約120人以上を殺害して、約550人以上を負傷させた。自爆テロは、逃げ場がなく恐怖に怯える。イスラエル人の日常生活のショッピングモール、人気のカフェやレストラン、宗教を守る静かな地域、通勤バスなどを標的にした。国際法の原則は、支配下にある人々が戦争犯罪または人道に対する罪を犯した場合、強要する権力者が犯罪責任を問われる。犯罪を命じたり、合理的な予防措置を講じなかったり、加害者を罰しないと、指導者にも犯罪責任を負う。




2022年3月24日木曜日

朝鮮戦争において1950年10月に、北朝鮮軍によって集団殺害された死体群の中で、咸興市の市民たちは家族の死体を探索した。

1950年10月に、北朝鮮軍によって集団殺害された死体の中で、咸興(Hamhung)市の市民たちは家族の死体を探索した。国連軍の仁川上陸後に、北方に追い出されて後退した北朝鮮軍が、金日成の命令で、約300人の反共産主義の政治犯を殺害した。咸興出身の韓国人は、北朝鮮軍によって殺害された政治犯の遺体を特定している。その他に、金日成の指示で、咸興市にて、北朝鮮人民軍は反共産主義政治犯の約300人を洞窟の中に生き埋めにして約300人を窒息死させた。占領したアメリカ軍と韓国軍は、地域住民に洞窟内の死体を運び出させた。咸興の井戸の中に水没して虐殺された死体も地域住民が引き出した。腐敗して悪臭を漂う死体群を、1950年10月10日に朝鮮人の女性や老人の家族や遺族らに開放して死体を探索させて検死させた。生き埋めにされた死体を見て、家族や遺族は呆然として慟哭した。

 咸興市は、北朝鮮で3番目に大きい都市で、咸鏡南道の道庁所在地である。朝鮮戦争(1950年6月25日から1953年7月27日)ではアメリカの空襲により約80から90%が破壊されて、1950年10月17日から1950年12月17日にかけてアメリカ軍と韓国軍によって占領された。連合軍は、1950年10月1日に38度線を越えて北朝鮮の東海岸を北進して、10月10日に北朝鮮の主要港である元山を占領した。韓国中部からも、西部からも、10月9日に平壌に向かって38度線を越えた。10月中旬までに、連合軍は北朝鮮の領土に約32km侵入した。

 1950年10月の後半、北朝鮮軍の抵抗が弱まり数千人が降伏して、北侵は加速した。残存した共産主義部門の破壊と重要な北朝鮮の都市の占領をした。朝鮮半島の中部から東部に占領が拡大した。咸興と興南を中心に工業地帯に向かって北侵して、元山から平壌に向けて西侵した。金川から平壌に侵攻した。10月19日には平壌に侵入して、約2日間平壌を侵略した。10月20日に、連合軍は平壌市の約48km北上にある粛川と順川に侵攻して、北方に逃げる北朝鮮人を捕らえた。北西部では、連合軍は10月26日に楚山の町から中国との国境の鴨緑江に最初に到達した。

 遂に鴨緑江に到達した同日の10月26日に、韓国軍は長津湖で中国義勇軍の攻撃を受けた。アメリカ軍が10月28日に最初の攻撃を受けた。中国義勇軍の大軍が、11月1日から国境の南方約145kmにて連合軍を猛撃して壊滅した。撤退する連合軍に対して、中国義勇軍は、11月5日まで猛追した。連合軍は、11月27日に鴨緑江付近に再侵攻するも、中国義勇軍に逆襲を受けた。11月29日に、連合軍は侵攻が撤回されて徹底が命令された。アメリカ陸軍史上最大の約12,975人の死傷者の犠牲を伴う敗走の一つとなった。




2022年3月23日水曜日

日本軍が1937年12月12日に中華民国の南京に侵入する直前に、寺院の敷地内に多数の中国人女性や子供を虐殺した死体が散乱した。

日本軍が1937年12月12日に、南京に侵入する直前に、日本軍兵士が寺院の敷地内で、多数の中国人女性や子供を虐殺した写真である。南京に滞在していたアメリカ人宣教師のアーネスト・H・フォスターによって撮影された中国人の虐殺被害者である。南京大虐殺は、日中戦争中の1937年12月13日に、日本軍が中華民国の旧首都である南京を占領した直後から、約6週間に起きた大量殺人と戦争強姦である。この間、数十万人の中国人市民と武装解除した兵士が殺害されて、約2万~8万人の女性が日本帝国陸軍の兵士に強姦されたと喧伝された。

 上海での軍事占領を確保した日本軍は、最終目標である中国の首都である南京の制圧を目指した。1937年12月2日に、首都南京を守る長江の中国艦隊は、北から下ってきた日本軍によって全滅した。日本海軍は小さな木造船で長江を渡ってきた。南京までの道中に、日本軍は目をつけた中国人を片っ端から殺害した。

 1937年12月10日に、日本軍は長江の南岸に上陸し、約600年前に明初代の朱元璋が、最初の首都として築いた南京の最大の残存城壁を砲撃し始めた。1937年12月13日に、中国の首都は陥落した。日本軍は、中国軍兵士の大胆な抵抗に懲罰を与えるために、約6週間にわたり殺戮を繰り返した。日本軍の第65独立混成旅団は、首都を守る捕虜の中国軍兵士をほとんど殺戮した。日本軍の撮影隊が撮った写真では、日本軍将校が南京で中国人の民間人の首を切り刻んで断頭した。日本軍兵士が、南京にて中国人の幼児を殺害した。日本人の野蛮な行為は、孤立した初めて歴史事件ではない。実際に、日本人による中国人の赤ん坊の拷問、殺害、焼殺などは、明代の歴史にも記録されている。約500年前に、倭寇が中国の蘇州や上海から江蘇や浙江の東海岸に侵入したとき、日本人は刀で中国の子供たちに同様な虐待と虐殺をした。中国民国の首都南京を征服した日本軍兵士は、中国最大の城壁の上に誇らしげに立って万歳した。日本軍は約6週間で、民間人を中心に約20万から30万人の中国人を虐殺して、赤ん坊の女子を含む約2万人の中国人女性を強姦した後に、刺し殺したと喧伝された。中国の首都南京が征服されたことを知った日本人女性は、南京という名の特別な食事を作って祝った。

 南京大虐殺は、武装解除された中国軍兵士が大量に殺害され、老人、女性、子供などの平和な市民も虐殺された。戦後、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連、中国など11カ国で組織された極東国際軍事裁判と南京戦犯法廷が、南京事件の戦犯を裁く特別法廷を設置した。その結果、A級戦犯の松井岩根とB級戦犯の谷寿夫が、それぞれ死刑判決を受けて処刑された。極東国際軍事裁判の判決では、日本軍によって約20万人以上の中国人が殺され、2万人以上の女性が強姦、輪姦されたことが確認されている。この数字には、日本軍が焼却したり、長江に投げ捨てたり、その他の方法で遺体を処分した人たちのことは考慮されていない。南京戦犯法廷では「少なくとも30万人の中国人が殺された」と結論付けている。




2022年3月22日火曜日

ベスラン学校占拠事件で、チェチェン独立派のテロリストにより、186人の子供を含む318人の人質と特殊部隊等の16人が殺害された。

ベスラン学校占拠事件(Beslan school siege)により、チェチェン独立派のテロリストにより、186人の子供を含む318人の人質と特殊部隊等の16人が殺害された。膨大な殺害された人質の死体を黒いビニール袋をかけて校舎に集めた。ベスランの学校襲撃テロ事件は、チェチェンテロ化に対するロシアの安全保障と政治を戒厳化する影響を与えた。クレムリンのプーチン権力を強化し、ロシア大統領の権限を強化する一連の連邦政府改革につながった。ロシア政府の危機管理に対する批判は根強く、報道機関の偽情報や検閲の疑い、ジャーナリストの自由、テロリストとの交渉、最終結果に対する責任分担、過剰武力の使用に関する疑問などが潜伏した。 

 2004年9月1日に、旧ソビエト連邦であった北オセチア・アラニア共和国のベスランで、ラズル・ハチバロフが率いる30人以上のテロリスト集団が、小中学校第1校舎を占拠した。午前中の祝賀集会に、武装集団が突然にトラックから飛び出した。自動小銃で発砲して、ほとんど全員を校舎に押し込めた。人質の数は、当初の354人から後に1,128人と判明した。人質の大半は子供であり、両親や教師も人質に取られた。ブービートラップを仕掛けた学校の体育館に強制連行した。合計15個の即席爆発装置が、電気起爆回路に接続された。人質のうち約10人が、見せしめにテロ犯によって射殺された。ロシア連邦保安庁の特殊部隊が直ちにベスランに派遣された。ロシア内務省の特殊部隊は、学校を封鎖して、周囲に非常線を張って近隣の住民は避難した。

 当初、テロリストは何も要求しなかった。一部の報道では、ロシア連邦軍のチェチェン共和国からの撤退と先に逮捕したテロリストの解放を要求した。テロとの戦いに関する連邦法に基づき、政治的要求を考慮しなかった。9月1日から3日に、当局の代表者や公人らがテロリストとの交渉を試みた。テロリストは3日間も、人質への医薬品、水、食料の配達、人質解放の金銭の支給も拒否した。9月2日に、ゲリラが校舎に入れたのは、イングシェチア元大統領のルスラン・アウシェフのみだった。ゲリラを説得して、女性や子供など26人の人質を一緒に解放した。3日目に最初の数日間で殺害した人質の死体の引き揚げを交渉できた。9月3日の正午頃に、人質の死体を収容するため、職員4人を乗せた車が校舎に乗り付けた。直後に、学校の体育館で強烈な爆発音が鳴り響いた。特殊部隊が、学校へ襲撃を仕掛け、射撃して、人質は体育館の窓や壁の穴から飛び逃げた。体育館内の人々を救うため、特殊部隊が潜入した。同時に、人質を狙ったテロリストを狙撃で制圧した。

 テロリストは体育館にいた生存者を、廊下の反対側にある食堂に移動させた。まだ200人以上がテロリストの手に落ちて、体育館を占拠した特殊部隊は、残存した人質や負傷者の避難して、武装勢力との戦闘が勃発した。深夜遅くまで戦闘が続いて、校舎は半壊した。9月4日に、学校の瓦礫の撤去、死体の捜索・回収、掃討して検閲を実施した。犠牲となった死者は334人、うち人質は318人(186人は子ども)だった。人質の何人かは、遺伝子検査で検証した。死者の中には、ロシア連邦保安局(FSB)の特殊部隊10人が含まれた。ロシア連邦保安庁、ロシア非常事態省の職員2名、人質救出に参加したベスラン在住者と機動隊員が含まれ、約810人が負傷した。ベスランの学校に対する武装勢力のテロ攻撃で、合計1,315人の死傷者が検証された。

 ベスラン人質事件は、検察庁によると、学校を襲撃した一味は32人で、その中には襲撃前に自爆した女性のテロ犯の2人も含まれた。特別部隊は、ヌルパシャ・クラエフという1人の戦闘員を逮捕して、他の戦闘員は全て殺害した。クラエフの裁判は2005年5月に始まり、盗賊、テロ、殺人、法執行官の生命に対する危害、人質取り、武器・弾薬・爆発物の不法所持・携帯・取得など、刑法の8つの条項で起訴された。1年後の2006年5月26日に、北オセチア最高裁判所はクラエフを全容疑で有罪とし、無期懲役の判決を下した。2005年7月21日の連邦法「ロシアにおける軍事的栄光の日(戦勝記念日)」に関する連邦法の改正が制定された。

 2007年11月、約350人以上のベスラン事件の遺族や生存者が、ロシア政府を相手取り、欧州評議会の司法機関である欧州人権裁判所に民事訴訟を起こした。2011年には、さらに55人のベスランの生存者にが2度目の訴訟を起こした。2017年4月、裁判所は、ロシア当局が、包囲の前と最中に多くのレベルで失敗したと判断し、犠牲者に310万ドルの補償的損害賠償を命じた。判決では、ロシア当局が学校への攻撃が差し迫った具体的な情報を無視したことが判明した。火炎放射器、グレネードランチャー、重機関銃、サーモバリックチャージ、対戦車ロケット、T-72主力戦車など、軍の対応に使われた武器は、人質救出の目的には、過剰かつ無差別的とした。ロシア政府側は到底容認できないと拒否して、控訴を表明した。




2022年3月21日月曜日

大東亜戦争にてビルマでインパール作戦の白骨街道を撤退した途上で死亡した日本軍兵士頭蓋骨が、1956年に発見されて集積された。

大東亜戦争にてビルマでインパール作戦の白骨街道を敗退して撤退した途上で死亡した日本軍兵士の膨大な頭蓋骨を、1956年に発見して集積された。大東亜戦争の1944年3月から6月にビルマにおけるインパール作戦の白骨街道は、敗退した日本軍の退却路であった。日本軍は、退却戦に入っても飢えに苦しみ、空と陸からイギリス軍の攻撃を受けながら、撤退して行った。飢えて衰弱した日本軍兵士はマラリヤや赤痢に罹患し、負傷した身体を引きずって、白骨街道を約7万人の日本陸軍兵士たちが退却した。

 白骨街道の途上で約4万人の日本軍兵が死亡して、無事に帰還できた者はわずか約2万人であった。途中の退路には、日本軍兵士の白骨の死体や腐乱した死体が点々と折り重り散在して、白骨街道と呼称された。道筋では、死亡して約1か月経過すると死体は白骨となった。一週間程度の死体からはどす黒い汁が流れ出た。黒い大型の蠅が群がって、黒い大きな固まりが散在した。大量の蛆が、死体を貪食しながら動回り、すさまじい死臭であった。

 直前に息を引き取った死体が、道端に腰掛けて小銃を肩にかけ休んだ姿勢の死体もあった。手榴弾を抱いて爆破し、腹部が飛び散り血液が流れ出た死体があった。飯盒と水筒も散乱して、ガスが充満し牛腹のように膨れた死体もあった。白骨をたどれば、先行部隊の行った方向か分かり、白骨街道と呼んだ。白骨の道標を頼りに歩き、ぬかるみは少なく山道で緩い登り下りであった。雨があがり晴れれば、熱帯、強い太陽か照りつけた。暑く、衰弱しきった身体には猛烈に厳しかった。イギリス軍は、日本軍の退路にもしばしば出現して、容赦なく銃弾を浴びせた。射殺された日本軍兵士の死体、伝染病に罹患して餓死した死体や動けない日本軍兵士は、集団感染を恐れ生死を問わず、ガソリンをかけ焼却した。

 インパール作戦はインド北東部の都市インパールを目指して、ビルマ北部で展開された戦闘で、日本はインパールから敗退した。インパール作戦は、インド・ビルマ方面における日本軍のほぼ全軍と、イギリスのインド駐屯隊のほぼ全軍の大会戦であった。イギリスはインパールに約15万の兵力を展開し、日本軍は約9万であった。補給を無視した無謀なインパールの戦いであった。食料や弾薬がないだけでなく、医薬品もない。ジャングルの中で、ひるも、虫もいる、マラリアもデング熱もアメーバー赤痢もある。飢えや病魔とも闘わった。日本軍は、白骨街道を潰走して撤退した。マラリアに犯され、敵弾を受けて負傷し、食物もない痩せ細った姿で、街道をよたよたと下がり始めて白骨街道に変わり果てた。




2022年3月20日日曜日

イゾンツォの戦いの戦いで、オーストリア・ハンガリー帝国軍は、トリエステ北方のカルソ盆地でイタリア軍兵士を殺害して、イゾンツォ川を見下ろす山上に死体が横たわった。

第一次世界大戦で、イタリア北東部のイゾンツォ川沿いにて、イゾンツォ(Isonzo)の戦いが勃発した。イタリア軍兵士が、オーストリア・ハンガリー帝国軍により、トリエステの北方のイゾンツォ川東岸のカルソ盆地で殺害された。イゾンツォ川を見下ろす山上にイタリア軍兵士の死体が横たわった。イゾンツェの戦いの当初からのイタリア軍は、イタリアとオーストリアの境界線にあるアルプス戦線に配備されました。1916年5月と1917年5月にオーストリア軍を撃破した。逆に1917年10月には、オーストリア・ハンガリー軍に敗退した。イゾンツォの戦いは、1915年5月23日から1917年10月27日まで長期に11回も戦闘を繰り返して、最終的にオーストリア・ハンガリー帝国軍が占領した。イタリア軍の死傷者は約645,000人で、オーストリア・ハンガリー帝国の死傷者は約450,000人にも達した。

 イゾンツォ方面にも難関があり、イゾンツォ川は氾濫しやすく、戦争中は記録的な大雨と雪解け水が続いた。北部の山岳地帯では、イタリア軍が解決できないジレンマに直面した。川をうまく渡るには、見下ろす山上の部隊を無力化する必要があった。その山を占拠するためには、まずイゾンツォ川を渡らなければならなかった。海岸沿いの下流域は侵攻の可能性が高くても、防衛軍には有利な特異な地形があった。イゾンツォ川の数多くの戦闘の犠牲者は膨大となった。イタリア軍全体の戦死者総数の約半分、約60万人のうち約30万人がイソンゾ川沿いで戦死傷した。オーストリア・ハンガリー帝国軍の損失は、それでも約20万人(全体の死傷者数約120万人のうち)であった。約3万人以上の死傷者はスロベニア民族で、その大半はオーストリア=ハンガリー軍に徴兵された。ゴリツィアやグラディスカ地方のスロベニア民間人も、スロベニア難民がイタリア人から国家の敵として扱われて、イタリアの難民キャンプで数千人が栄養不良で死亡して、難民キャンプに再定住させられ何千人も犠牲になった。

  イタリア戦線は、第一次世界大戦中の1915年から1918年にて、オーストリア・ハンガリーとイタリアの国境での一連の戦闘である。1915年に連合国のロンドン条約のトルコ分割の密約に従って、イタリアはオーストリアのリトラル地方、ダルマチア北部、現在のトレンティーノと南チロルの領土の併合を目指し参戦した。イタリアは奇襲攻撃で、領土を手に入れようとしたが、戦線はすぐにフランスの西部戦線と同じように、標高が高く冬が非常に寒い塹壕戦に陥った。戦線での戦闘により住民の多くが離散して、イタリアやオーストリア・ハンガリーの難民キャンプで数千人の市民が栄養失調や病気で死亡した。ヴィットリオ・ヴェネトで連合軍の勝利、ハプスブルク帝国の崩壊、イタリアのトレントとトリエステの占領により、1918年11月にイタリア戦線はは終結した。ヴィラ・ジュスティの休戦協定は1918年11月4日に発効し、オーストリア・ハンガリーの統一体は解体した。イタリア統一の最終段階を完了した第4次イタリア独立戦争と呼称された。アーネスト・ヘミングウェイの『武器よさらば(A Farewell to Arms)』は、第一次世界大戦中のイタリア戦線の背景で作成された。




2022年3月19日土曜日

1973年5月に広島大学医学部資料館に、アメリカから発送された広島原子爆弾の写真、ホルマリン漬けの解剖資料、衣類、遺骨約4,000体など約23,000点が返還された。

1973年5月に、広島大学医学部資料館のロビーに科学者、医師、要人らが集まり、大きな木箱がいくつも開封された。アメリカから返還された箱には、写真、解剖記録、衣類、遺骨約4,000体など約23,000点が収納された。ホルマリンに浸した心臓、肺、肝臓、眼球、脳など、1945年8月6日の広島原爆の放射線等で傷ついた臓器全体を二重に密封していた。アメリカ陸海軍合同委員会は1945年9月から12月にかけて、少なくとも218件の剖検資料と、皮膚生検、骨髄、血液塗抹など約1,400件のスライドと組織標本を収集していた。これらの遺体の一部は約28年間、ワシントンDCの地下壕の中で国家機密として扱われた。戦争が終結して、死傷を受けた身体はすべて勝者の象徴とされた。広島と長崎に投下された原子爆弾によって死傷した人々から採取された身体資料は、何千もの科学論文の根拠となってきた。放射線の生物学的影響に関する科学的評価は、これらの試料に依存している。

 1947年に広島と長崎に設置されたABCC(原爆傷害調査委員会)は約7,500人の被爆犠牲者の遺体を解剖し、その臓器をアメリカに送った。原爆投下後の数週間で死亡した被爆者や、原爆投下後10年間にわたりアメリカの医師や科学者によって、病気や癌の臓器が摘出された。被爆者の死産児や、家族がアメリカの科学者に被爆者の遺体を提供して、被爆者の臓器が摘出された。アメリカで検査後、1973年に広島大学に返還された。ABCCは、日本の科学者と研究結果を共有することなかった。日本人の被爆者の死傷体をデータ化し、その後に被爆者の被験者を加えた非人間化の実験した。人間をバラバラにし、断片化することで、傷害ではなくダメージを計算した。アメリカが日本の被爆者の痛みや苦しみを考慮することなく合理的な科学的言説を可能にした。

 放影研は残留放射線と内部被曝の影響を無視し、過小評価している。また、遺伝的な影響がないことも主張しています。原爆の長期的な人体への影響を調査するため、1947年にABCC(原爆傷害調査委員会)が広島と長崎に設置された。1951年、広島事務所は比治山公園の丘の上に移転した。この委員会の方針は、単に患者を診察し、病気を記録するだけで、治療は行わないという批判もあった。1975年、日米は施設の運営・管理を等しく分担することに合意した。委員会は改組され、放影研(RERF)と改称された。




2022年3月18日金曜日

1992年12月にカンボジアのコンポントム州ストーン郡で、ポル・ポト派勢力の砲撃により、カンボジア人の少年は大量出血して、若者が抱えて病院に搬送するも死亡した。

1992年12月にカンボジアのコンポントム州のストーン郡で、ポル・ポト派勢力の砲撃に巻き込まれて、カンボジア人の少年は大量出血して重態となる。ストーン郡の青年たちが、至急に両手で担いで病院に護送した。病院に着いた直後に絶命して死亡した。突如に砲撃が炸裂した後に硝煙が立ち込み、大量出血した少年が倒れ込んだ。意識を消失した少年は、鼻と口から出血して、胸部から血液が流出した。少年の母親が近寄って叫び声が響いた。その付近にいた若者が、少年を抱えて病院に搬送するも死亡した。1993年3月3日と5月20日にも、ストーンは共産主義のクメール・ルージュから激しい侵攻を受けた。コンポントム州の戦場では、日本の高田警視が虐殺され、日本人ボランティアの中田厚仁も殺害されたが、極秘に扱われた。カンボジアでは、パリ和平条件である停戦は頓挫して、武装解除されなかった。

 カンボジアのコンポントム州は、ポル・ポトの出身地であり、その軍隊であるクメール・ルージュが潜伏して、政府軍と猛烈な戦闘が勃発していた。コンポントムから約50mのストーンでは、政府軍、ポル・ポト派のクメールルージュ・ラナリット派のアンキが激突した。ストーン郡の周辺地域には、地雷が散在して、吹晒小屋内には骸骨や人骨が積み上がっていた。砲撃や襲撃しながら、地雷を埋めた。その状況下で、1992年2月に設置された国連暫定統治機構(UNTAC)の46カ国のPKO活動する文民警官が選挙権の有資格者の登録を継続した。1993年5月に総選挙、7月に暫定政権、9月には憲法が採決して、明石康は合法政権を樹立して、国連事務総長のガリはUNTACを終結した。

 1990年6月に、カンボジアの各派閥は、民主的な選挙の実施を促進するために新しい最高国民評議会を設立し、国連が監督する停戦に合意した。11月にシアヌークはカンボジアに帰国した。ポル・ポトは国境沿いのパイリン付近に新たな本部を設置し、クメール・ルージュに対し、カンボジアの村々で支持を得る努力を求めた。6月には、サムパンが以前の合意に反して、ベトナム兵がカンボジアに残る間は武装解除しなかった。クメール・ルージュはカンボジア国民連合党を結成するも、3月にポル・ポトは投票をボイコットした。1993年5月の選挙では、ノロドム・ラナリッドが第1党、フン・センのカンボジア人民党は2位であった。シアヌークは両党の連立政権樹立を交渉し、2人の首相を置く制度を導入した。8月までにプノン・チャットを占領し、ポル・ポトはタイに逃亡した。クメール・ルージュは反攻を開始し、1994年5月までに領土の多くを取り戻したが、1996年末までに、クメール・ルージュはカンボジア内陸部のほぼ全ての領土を失い崩壊した。




2022年3月17日木曜日

ウクライナの大飢饉によって、1933年にハリコフにて餓死者が路地に横たわり、通行人は同情も薄れて、死体を通り過ぎた。

ウクライナの大飢饉によって、1933年にハリコフにて餓死者が路地に横たわり、通行人は同情も薄れて、死体を通り過ぎた。都市や道路には、食べ物を求めて村を去った途上で、人々の死体が散乱した。写真は、1933年にオーストリアのエンジニアであるアレキサンダーウィーナーバーガーによって密かに撮影された。大飢饉により共食い、無法、窃盗、私刑の執行、田舎に集団墓地が掘られた。ウクライナ人の抗議活動は、ソ連の秘密警察(GPU)と赤軍によって弾圧された。膨大な農民が反ソ連活動として逮捕され、銃殺されたり、強制労働収容所に送還された。

 ホロドモール(Holodomor)は、ウクライナ語のhold(飢饉)とmor(死)に由来して、1932年から33年に発生したウクライナの大飢饉の名称である。ロシア革命と第二次世界大戦の間に起こったホロドモールは、ソビエト連崩壊のわずか数年前まで、ソ連政府によって否定された。西側諸国は1980年代になって、ウクライナ大飢饉をスターリン政権による人災と捉えた。1980年代の最初の調査から、国勢調査やソ連の記録などが分析されるも結論は出ていない。ウクライナの大飢饉の餓死は、約300万人から約1400万人と異なる。ヨシフ・スターリン政権のウクライナ人に対する武器としての大飢饉が焦点となっている。現代のウクライナでは、ホロドモールを虐殺行為と定義したが、現在のロシアは歴史の視点に反対している。

 1929年に、ソ連共産党のスターリンは農業の集団化を加速させた。ソ連は、集団化によりウクライナの豊富な穀倉を支配した。穀物危機が起因であったが、工業化の過程で資金を調達し、農村を支配する手段を強要した。ウクライナから約200万トン近い食糧を輸出し、生き延びるわずかな食糧も引き離した。ウクライナの人々が他の地域に避難することも禁じた。食料もなく、逃げることもできず、ただ死を待つしかなかった。恣意的に選ばれた農民が収奪され、遠隔地へ追放された。集団化に抵抗する者は、強制収容所に入所や銃殺された。農民たちは、1931年末までは、家畜を屠殺し、穀物を隠した。1932年から33年には、大飢饉が起こった。ソ連政府は有効な対策を講じなく、ウクライナなどの穀倉地帯で、何百万人もの餓死者が出た。