2021年3月31日水曜日

第一次世界大戦の西部戦線異状なしで、ドイツ軍兵士のパウル・ボイメルは、塹壕に突撃したフランス軍兵士をナイフで胸を刺して殺害した。

第一次世界大戦の映画「西部戦線異状なし(All Quiet on the Western Front)」において、ドイツ軍志願兵のパウル・ボイメル (Paul Bäumer)は塹壕に突撃したフランス軍兵士をナイフで胸を刺して殺害した。失声の障害者であったレイモンド・グリフィスが演じたフランス軍兵士は、声も出せずに無言で苦悶して死亡した。パウル・ボイメルは、フランス軍兵士のポケットから手帳を見つけた。兵士の名前はジェラール・デュヴァル (Gerard Duval)で、妻と娘の写真を持っていた。パウル・ボイメルは再び大声でデュヴァルの死体に許しを請うた。1930年のアメリカの白黒映画「西部戦線異状なし」は第3回アカデミー賞の最優秀作品賞を受賞した。ルイス・マイルストン監督は最優秀監督賞を受賞した。主人公のドイツ軍の志願兵であるパウル・ボイメルを、リュー・エアーズが主演した。
 映画ではパウル・ボイメルは、塹壕からチョウに手をのばして、敵兵の連合軍兵士がライフルで撃たれ殺害されて息絶えると脚色された。1918年5月頃にパウル・ボイメルは射殺されて、前方に打伏して倒れて、まるで寝ているように地上に転がっていた。身体をひっくり返してみると長く苦しんだ形跡はない。まるで最後を遂げることを満足に感じて覚悟の見えた沈着な顔貌をしていた。パウル・ボイメルの死亡などには関係なく「西部戦線異状なし、報告すべき件なし」と文句が司令部に報告された。
 原作者は、ドイツで生まれたエーリヒ・マリア・レマルクは、第一次世界大戦中にドイツ軍に徴兵された小説家である。戦争の危険な年月を通して、多くの戦場を経験した。戦後に、学校教師、演劇評論家、レースカーの運転手、スポーツ雑誌の編集者を経歴した。彼の最初の小説である『西部戦線異状なし』は、1929年1月にドイツで出版された。それは250万部以上を売り上げ、初めて多くの文学的な勝利を得た。ナチス・ドイツが権力を握ったとき、レマルクはドイツを離れてスイスに逃避した。彼はドイツに帰国を拒否し、ドイツの市民権を失い、小説は焚書により燃やされ、映画は禁止された(写真)。彼は1938年にアメリカに渡り、1947年にアメリカ市民権を取得して、1970年9月に死亡した。

 

 

 

 

 

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住居 尚子『思い出の小説ーもう一度読みたい最高の作品』1997年4月25日

2021年3月30日火曜日

プノンペンの郊外でカンボジア内戦に巻き込まれた5人の市民の死体が散乱して、警察官が死体の周囲を取り囲んだ。

カンボジアのプノンペン内の寺内の中央に、1997年7月7日に白い布をかぶせた5体の死体が横並びに集積されていた。プノンペンの郊外でカンボジア市民の5つの死体が散乱していた。制服を着用した警察官が死体の周囲を取り囲んだ。5つの死体は無数の銃弾の弾痕が残存していた車の中で殺害された。遺体の財布の中から、ラナリット派の身分証明書が残存していた。彼らはフン・セン派の軍隊の捕獲から逃れるために、車でプノンペンを出た時に、フン・セン軍に発見されて射撃されて射殺された。
 カンボジアの首都プノンペンへ1997年7月5日に、フン・セン派の軍隊がなだれ込み市内を掃討した。市内から逃げ出すカンボジア市民が溢れる中で、軍隊の兵士が殺気だって銃撃した。軍隊は、ラナリット派を掃討するために、市民も含めて無差別な砲撃と銃撃をした。約2日間の悲惨な市街戦に巻き込まれて、多数の市民が犠牲となった。7月7日に、フン・セン派の軍隊が完全に首都プノンペンを制圧した。
 カンボジア内戦は、1991年10月23日のパリ和平協定により、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)がカンボジアを暫定統治した。1993年5月に特別代表が明石康であるUNTACが、カンボジアで総選挙を実施した。シアヌーク国王に由来するラナリット派のフンシンペック党が約45%、フン・セン派の人民党が39%を獲得した。第一首相にラナリット、第二首相がフン・センが就任して、カンボジア王国が成立した。それ以後から、ラナリット派のフンシンペック党とフン・セン派の人民党が衝突した。
 1997年7月5日に、人民党のフン・セン軍が、ラナリットが外国訪問中に、クーデターを引き起こして、ラナリット派勢力と武力衝突した。ラナリット派は敗走して、ラナリットは首相を解任された。ラナリット派勢力は、ポル・ポト派勢力とともにタイ国境で戦闘を継続した。

 

2021年3月29日月曜日

オーストラリアのカウラの捕虜収容所から日本人捕虜が、有刺鉄線を毛布で覆って脱走した直後に銃殺されて、柵外に死体が横たわった。

オーストラリアのカウラ周辺の捕虜収容所から日本人の囚人が、有刺鉄線を毛布で覆って脱走した直後に銃殺されて、柵の外に死体が横たわった。突如に日本人のラッパが鳴った。歩哨は警告の発砲した。日本人捕虜は、「バンザイ」と叫びながら集団で、北側、西側、南側から、有刺鉄線を突破し始めた。さらに多くの歩哨が発砲した。日本人捕虜は、毛布の助けを借りてワイヤーを横切って飛んで逃走した。日本人は、最も屈辱的な捕虜の身分を絶滅する行為となった。脱走した日本人は、電車の下に身を投げ、多くの人は首を吊った。日本人は捕獲されるよりも、何人かは撃たれることを懇願した。
 1944年8月4日金曜日に、日本人が大規模な脱走を話し合っている情報の密告に応えて、すべての日本人捕虜にヘイ捕虜収容所に移送されることを通知した。1944年8月5日土曜日の午前2時頃に、囚人である日本人捕虜が、収容所の門に向かって叫んだ。その直後に、許可されていないラッパの警笛が聞こえた。ナイフと即興のクラブで武装した日本人の囚人が小屋から急いでワイヤーフェンスを突破し始めた。歩哨は発砲したが、数百人の囚人が開かれたオーストラリア国内に逃げ込み、残りの囚人は収容所の建物に発砲した。
 太平洋戦争中の1944年8月までに、オーストラリア国内には約544人の商船員を含む約2,223人の日本人捕虜がいた。その中の約1,104人が、ニューサウスウェールズ州の中央西部にあるカウラ近くの第12捕虜収容所のキャンプBに収容されていた。日本人の囚人が大脱走したカウラ事件(cowra breakout)の夜に、3人のオーストラリア軍兵士が殺害されて、さらに3人が負傷した。その次の9日間で、約334人の日本人の囚人が再逮捕された。全部で約234人の日本人の囚人が殺害されて、108人が負傷した。

 


 

2021年3月28日日曜日

沖縄戦にて、沖縄住民の母親は子供を背中におんぶしたままで、裸足で戦場を逃げ回ってアメリカ軍に捕獲されて生き延びた。

沖縄戦において、母親が子供を背中におんぶしたままで、裸足で戦場を逃げ回って生き延びた。アメリカ軍によって捕獲された沖縄住民の集団の中で不安と恐怖に怯えた。壮絶な沖縄戦に巻き込まれて、沖縄の民間市民は逃げ惑った。女子から子供も含めて戦場の中を避難した。アメリカ軍と日本軍との戦場の中に取り残されて、追い詰められた民間沖縄市民は、日本軍からは最終的に自ら命を絶つように自決を命じられた。女子と子供らによる多数の集団自決も発生した。多くの沖縄住民が避難していた場所に、ただ戦争を避けるために日本軍が逃げ来て、壕などの避難所を強制的に徴用したために、沖縄住民は砲弾や銃弾の中に追い出されて、虐待と虐殺される事となった。
 沖縄の戦場にて逃げ場を失った沖縄住民だけでなく、日本軍と行動を共にした沖縄住民まで、それぞれが凄惨な戦闘に巻き込まれて、悲劇的な犠牲者となった。沖縄戦にて、両軍は総力を挙げて死闘をくり広げた。沖縄住民を一木一草にいたるまで戦力化して、軍官民共生共死を強要した。日本軍は沖縄住民を根こそぎ動員して、兵士と同じように民間市民も戦死することを叩き込まれた。沖縄住民の死没者数は約94,000以上にも及び、日本軍兵士の死没者数の約94,000人を上回った。
 アメリカ軍は大規模な武力によって、空襲や艦砲射撃などを無差別に加え、おびただしい数の砲弾を打ち込んだ。1945年4月1日に、アメリカ軍は、手薄な沖縄の中西部の海岸から上陸した。4月20日頃には沖縄の北東部の沖縄半島を制圧した。
 アメリカ軍は、1945年4月6日ころから沖縄中部の首里の軍司令部を中心に守備隊に激しい抵抗に遭遇した。約40日以上もの一進一退の攻防戦の後に、アメリカ軍は中部戦線を突破して、首里城下にある軍司令部の防衛線に達して、5月11日から総攻撃をした。日本軍は激しく抗戦するも、5月22日から突如として沖縄南部へ敗退して、首里はアメリカ軍に占領された。
 沖縄の南部にて、約6万人もの兵士を犠牲にした日本軍だけでなく沖縄住民も、アメリカ軍は掃討戦により追いつめた。南部一帯に敗走する日本軍と避難する沖縄住民民とが入り乱れる悲惨な戦場と化した。アメリカ軍は、艦砲射撃・爆撃・火炎放射器などあらゆる近代兵器を使って攻撃した。さらに日本軍兵士や沖縄住民が隠れている壕に対して、馬乗り攻撃を行ったため、多くの人々が犠牲となった。6月23日に日本軍の組織的戦闘は終結した。

 

2021年3月27日土曜日

広島原子爆弾が投下された爆心地から約410mにある本川国民学校の校庭にて、周辺の死体を大量に集めては火葬した。

広島原子爆弾が投下された1945年8月6日8時15分から、約2日後の8月8日に、爆心地の川向にある本川国民学校の校庭において、その周辺の死体を大量に集めては火葬した。翌日の8月7日から、外壁が焼け残った校舎は、臨時救護所となり被爆者であふれた。校庭では身元の確認を終えた多くの死体を火葬した。広島県警察部写真班員が、火葬場を撮影した。焼け果てた校舎は、被爆者の救護所にあてられ、校庭には死体の山が築かれた。
 広島市内の本川国民学校は、広島原子爆弾の爆心地に最も一番近い小学校であった。原爆ドームから相生橋を挟んで対岸にある。本川国民学校(現 本川小学校)は爆心地から、わずか約410mと最も近い小学校のために、甚大な被害を受けた。校舎は外部を残して全焼、壊滅し、校長ほか10人の教職員と1、2年生の子どもたち約400人のうち先生1人、生徒1人のみが奇跡的に助かった。校長を含む教職員6人と児童218 人は即死した。
 翌年の1946年2月に、授業を再開して校舎の建て替えのために、最小限の補修をした校舎で授業が再開された。被爆校舎は、その後も補修・改修を繰り返し利用された。1988年4月に、新校舎の落成とともに、被爆校舎の一部と地下室だけを残して撤去された。被爆校舎の一部と地下室は、平和資料館として整備・保存されて、1988年5月開館した。地下室を中心に当時の焼け跡が残存した。原子爆弾の被害を受けた状態を、被爆の証として保存した。展示品の多くはかつての同校教師が被爆地から集めた物品である。
 中沢啓治さんが描いた『はだしのゲン』(1973年刊行)に登場する学校は、この本川小学校である。6歳の時に爆心地から約1.2kmの神崎国民学校に登校する途中に、校門付近で被爆した。自らの被爆体験を基に広島で力強く生きる少年を描いた。1975年3月18日付の朝日新聞夕刊社会面に、原爆劇画、単行本にと題した記事が掲載された。約2カ月後の5月に汐文社から全4巻の単行本が刊行された。記事と単行本により、はだしのゲンは大きく注目を集めた。作者は、2012年12月19日に、肺がんにより死亡した。はだしのゲンは18カ国語に訳され、総発行部数は1千万部を超えた。

 


 

2021年3月26日金曜日

ハンガリーのファシスト軍は、マケドニアの首都スコピエのスタリベチェイで、パルチザンの12人を死の壁で射殺した。

ハンガリーのファシスト軍は、1941年11月11日にマケドニアの首都スコピエのスタリベチェイで、パルチザンの12人を射殺した。彼らが射殺された前壁は「死の壁」と呼ばれた。1942年1月20日にも、ナチス・ドイツは、死の壁の前で、さらに11人の共産主義者らを銃殺した。死の壁は今日でも存在して、文化的記念碑として保護されている。写真では、くいしばられた握りこぶしを持上げたり、拳を上げて目隠しを外した。銃撃された直後に、立ち上がって、ユーゴスラビア共産党は生きて-ファシズムへの死!と叫んだ。その直後に殴打されて射殺された。青年共産党連盟の地区委員会の書記も一緒に逮捕された。逮捕中に、ファシスト憲兵を殺害して、別の憲兵を負傷させた。
 親戚に別れを告げる若い男性の写真が保存されていた。1つは、青年が泣いている母親に別れを告げ、もう1つは、青年が父親に別れを告げ、3つ目は青年が兄に別れを告げている。1942年1月20日に射殺された11人の青年共産党連盟の中には、地区委員会の書記とメンバーoが含まれた。
 1942年1月27日に、ハンガリーのファシストは、スタリベチェイでさらに約244人のセルビア人、ユダヤ人、ローマ人を殺害した。凍結したティサ川の氷の下に投げこまれた。殺害された人々の中には、男性約124人、女性約86人、高齢者約19人、子供15人が含まれた。

 

2021年3月25日木曜日

ポーランド南部のクラクフ・プワシュ強制収容所で、ユダヤ人の女性たちが全裸にされて追い立てられ、ドイツ軍兵士の眼前を通り過ぎた(ニュールンベルグ裁判写真資料)。

ポーランドの南部クラクフの郊外にあったクラクフ・プワシュ(Kraków-Płaszów)強制収容所で、ユダヤ人の女性が全裸にされて、追い立てられるようにドイツ軍兵士の眼前を通り過ぎた。この写真は、ニュールンベルグ裁判の資料として提出された。有罪とされた者は、全裸にされて、丘の中腹の塹壕で射殺された。所長のアーモン・ゲーテは殺人罪で有罪となり、1945年9月13日にクラクフのモンテルピッチ刑務所で絞首刑に処された。
 ナチス・ドイツの親衛隊が運営する強制収容所であった。その囚人のほとんどは、ホロコーストの間にナチス・ドイツによって粛清の標的にされたポーランドのユダヤ人であった。多くの囚人は、死刑執行、強制労働、収容所の劣悪な状況のために死亡した。亡くなりました。強制収容所の主な機能は強制労働であったが、収容所はまた、外部から連れてこられた囚人だけでなく、囚人の大量殺戮の場所でもあった。他の収容所と比較して、女性と子供たちの人数が多かったが、男性と動揺の処置を受けた。主な標的は高齢者と病人でした。ガス室や火葬場がなかったので、大量殺戮は銃撃によって行われました。閉じ込められた囚人の最大数は約2万人を超えて、数千人が主に銃撃によって殺害された。証拠隠滅のために集団墓地を開けて、遺体を発掘して燃やした。強制収容所は1945年1月20日にソビエト赤軍がこの地域を解放した。
 クラクフ・ゲットーは、 ポーランドの大都市の一つであったナチス・ドイツが設置した。第二次世界大戦にて、ドイツがポーランドを占領中に、地元のポーランド系ユダヤ人を搾取、テロ、迫害を目的として設立された。ゲットーは後に、ラインハルト作戦の絶滅収容所に強制送還して、有能な労働者を分離するための分別地域エリアとして使用された。クラフト・ゲットーは1942年6月から1943年3月の間に清算された。クラフト・ゲトーで労働可能な囚人をクラクフ・プワシュ強制収容所に強制連行した。その他のユダヤー系住民のほとんどは、ベルゼック絶滅収容所とプワシュ強制労働収容所とアウシュビッツ強制収容所に送還されて虐殺された。 


 


  (ニュールンベルグ裁判の写真資料)

2021年3月24日水曜日

中米のニカラグア共和国での市民や学生の暴動に対して、廃墟の街路をヘルメットをかぶった隊員が殺害した。

中米のニカラグア共和国での市民や学生の暴動に対して、廃墟の街路をヘルメットをかぶった隊員がパトロールしていた。母親と父親は、我が子の青年が虐殺された死体の側で慟哭した。破壊れた街路にて、白いシースの下に青年の死体が横たわっていた。その死体は素足であり、泣いた母親によって運ばれたリネンをかけられた。近所の友人は、ハンカチを持って悲しんだり、立ち尽くし驚嘆していた。
ニカラグア共和国で、オルテガ氏退陣を求める抗議活動は約2か月続く中でエスカレートした。これに対し政府は容赦なく弾圧を行っている。2018年6月16日の抗議デモで少なくとも約8人が死亡して、4月から勃発した抗議デモで合計178人が殺害された。2018年4月16日に、社会保障の保険料の引き上げと年金約5%の削減を強行した。4月18日から抗議デモが勃発した。ニカラグアのオネテガ政権は、警察や与党武装集団を投入して強引に鎮圧した。4月21日から、各地の抗議デモ参加者に対して、実弾も発射する激しく攻撃して、死傷者が急増した。4月23日から、首都マナグアの市民や学生らが約20万人のデモを決行して、オルテガ政権の退陣を求めた。5月9日に抗議デモに対抗する与党による親オルテガの大規模な集会も強行した。市民や学生の反オルテガ集団と与党の親オルテガ集団が衝突した。
 ニカラグア共和国において衝突や暴力事件が継続し,多くの死傷者が発生している。暴力行為の即時停止を呼びかけるとともに,2018年6月5日,米州機構(OAS)定例総会において、ニカラグア国民の支援のための宣言が合意されて採択された。ニカラグア政府が、米州人権委員会(IACHR)による特別フォローアップ機構(MESENI)及び独立専門家グループ(GIEI)の派遣,並びに国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)の現地調査を受け入れと、円滑な任務遂行を期待されている。民主主義の諸原則に則った協議が重要であり、司教会議の仲介の下での対話を通じて諸問題が解決することが急務である。大規模なデモは少なく、一部の反政府市民団体による小規模なデモが突発的に発生し,警察が鎮圧している。


 

2021年3月23日火曜日

殺害されたチェチェン軍の兵士の表情はあまりにも老けていた。戦場では日常茶飯事に死に直面しても、無感傷となり感情も消失した。

ロシア軍が1994年12月11日にチェチェンへ侵攻したときに、約2ケ月間過ぎた1995年2月でもウクライナの首都キエフの一角にはチェチェン人の決死隊が残存していた。グロズヌイ市街戦をゲリラ戦で奮闘した。しかし、ロシア軍は、武力で圧倒した。1995年6月にはチェチェン軍隊が、山岳地帯でのゲリラ戦では、チェチェン軍はロシア軍より優位となり、1996年8月にはグロズヌイに駐屯していたロシア軍を奇襲した。
 雑木林にて、燃え上がっている家屋から白煙が舞い上がっていた。ロシア軍の化学兵器と想定される異臭が立ち込めた。その異臭を吸い込んで約2時間後に、毒ガスと思われる吐き気、発熱、頭痛、下痢、嘔吐の多彩な症状を催した。次第に気力も奪って、弱気に落ち込んだ。地下壕の出口付近を砲撃されて、出口から4人の戦死傷者を引きずり込んだ。2人は頭部に破断されて脳死に陥った。痙攣の動作も消失して、死後硬直した。死亡したチェチェン軍の兵士の表情はあまりにも老けていた。戦場では日常茶飯事に、死に直面しても、無感傷となり感情も消失した。

 第一次チェチェン(Chechen)紛争が、1994年12月11日から1996年8月31日にかけて、ロシア連邦からの独立を目指すチェチェン共和国の独立派武装勢力と、それを阻止しようとするエリチェン政権のロシア軍との間で紛争が発生した。ロシア軍は圧倒的な軍事力にもかかわらず、ソ連崩壊後の混乱と軍事予算の削減により、ソビエト連邦と比較して大幅に弱体化して脆弱を露呈した。1994年12月31日から首都グロズヌイへロシア軍の無差別の空襲は多数の民間人の死傷者を出して、国際的非難を受けた。1996年8月に犠牲者は、ロシア軍が約5,732人以上で、チェチェン勢力は約16,299人に及んだ。民間人が少なくとも約30,000人以上が殺害された。1996年8月6日からチェチェン武装勢力はグロズヌイを急襲して、ロシア軍はハサヴユルト協定によりチェチェンから撤退した。1999年8月26日から2009年4月15日まで第二次チェチェン紛争が勃発して、プーチン政権はチェチェン武装勢力と徹底対決した。ロシア軍は、2000年2月に首都グロズヌイを再占領して、チェチェンはロシア政府の支配下となった。


 

2021年3月22日月曜日

第一次世界大戦において、ドイツ軍はベルギーのジェルベヴィエ村で、民間人を野原まで強制連行して射殺して虐殺した。

第一次世界大戦において、1914年8月24日にベルギーのジェルベヴィエのラ・プレルと呼ばれる地域で、約60人の民間人がドイツ軍に射殺されて虐殺された。野原に連れて行かれて、射殺された人々もいた。民間人の家から、あるいは燃えている建物から逃げようとして、殺害された。殺人に加えて、無数の暴力行為が行われた。(フランス公式委員会の報告書から複製された写真。)
 ドイツ軍は1914年8月4日に中立のベルギーに侵略した。8月5日から、侵略軍が最初の障害物であるリエージュ周辺の要塞の輪を侵攻して、民間人が一斉に処刑された。これらの要塞からの砲撃に報復するために、ドイツ軍は周囲の村の住民を殺害した。犠牲者は選ばれて、撃たれ、まだ生きている人々は銃剣で殺害された。8月8日までに、約850人近くの民間人が殺害された。その時までに、特定の虐待と虐殺が執行された。第一に、侵略軍が頓挫した場所で虐殺が起こった。ドイツ軍は、ベルギーの軍事防衛が非合法であると考えた。第二に、犠牲者は誤って民間の狙撃兵士として殺害した。地元の民間人がドイツ軍を攻撃していると誤認した。民間人を狙撃兵とした妄想は、ドイツ軍の指揮官によって選択された。第三に、犠牲者の中には女性、子供、老人がいたが、大多数は民間人であった。侵略軍は、引き裂かれた民間人が生活をまだ楽しんでいることに憤慨した。第四に、虐殺により、民間人はどれほど無力であるかを公開する儀式も一緒に行った。民間人は必ず軍隊を応援するように強要された。地元の高官らは公に虐待され、場合によっては殺害された。
 ドイツ軍の西部戦線への侵攻は8月18日に始った。8月28日までに、侵略軍はベルギーを横断した。その間の約10日間で最悪の虐殺が執行された。強制行進から疲れ果て、しばしばアルコールの影響下にあった軍隊は、大規模な虐殺を犯した。町や村を略奪して焼却して、生存者は国外追放した。最も被害が大きかった地域は、8月19日のアールスコートと8月20日のアンダンヌでした。8月22日にムーズ川の小さな工業都市タミンヌは、約383人の住民が殺害された。8月23日にはディナン市で、侵略の最悪の虐殺により、住民約10人に約1人の約674人が死亡した。大学の町ルーヴァンでは、貴重な大学図書館が焼かれて、約248人の民間人が殺害された。さらに南部では、何百人もの人々がベルギーのアルデンヌで処刑された。狙撃兵は約10人のグループごとに殺害された。最後は撃たれるために死体の塚に登らせた。小規模ではあるが、侵略されたフランスでも同様の殺害が執行された。最初の民間人は8月9日にモーゼル川北部で射殺された。他の虐殺の中でも、8月24日にロレーヌの大きな村ジェルベヴィエで約60人が殺害された。侵略軍は虐殺により優位性を強調した。ルーヴァンの北にある小さな町ウェルフテルに、集団処刑の犠牲者が埋葬された場所に、凱旋門が建立されて「勝利の戦士たちへ」という碑文がある。

2021年3月21日日曜日

フランコ勢力を支援するナチス・ドイツ軍の急降下爆撃機の3機が、街路に爆弾を落下して、遊んでいた約70人の学童が殺害された。

スペイン内戦が1936年7月17日に勃発した。その緒戦の1936年10月30日に、マドリッド近郊のヘタフェの太陽に照らされた通りで遊んでいた100人の学童に死者が出た。フランコ勢力を支援するナチス・ドイツ軍の急降下爆撃機の3機が、小さな村の上空を飛んだ。子供たちが遊んでいた街路時に爆弾を落下した。その爆弾が炸裂して約70人の男女の学童を殺害した。イギリスの取材記者は、スペイン人の両親が、我が子の死体を探しているのを見た。死体群は地元の食料雑貨店が所有する小さな配達用トラックに入れらた。その光景はあまりにも悲惨であった。写真は、ファシズムによる小さな犠牲者の破壊された死体と、彼らが通っていた学校で横たわって死んだ子供たちの死体も示した。
 スペイン内戦の中期には、バレンシア地方のカステリョン県の真中にある4つの小さな村を、ナチス・ドイツ軍は1938年5月に爆弾を投下した。その数日後に、ナチス・ドイツ軍の兵士が車に飛び乗って、空襲の被害を調査した。彼らは爆弾の衝撃によって引き起こされたクレーターの中心に、爆撃した影響を記録しながら、掃引した残骸から検証した。その後、ナチス・ドイツ群は、タラゴナ州のラセニア近くの空軍基地に戻り、任務の詳細を書き留めて報告した。ベナサル、アルボカセル、アレスデルマエストレ、ビラルデカネスの4つの村人は、1938年5月に村の中心部が、3機の新たな急降下爆撃茎によって、約38人の親戚や隣人を殺害を記録が示唆した。ナチス・ドイツ軍のコンドル軍団が、第二次世界大戦に向けて、将来の急降下爆撃の試験場としてスペインの4つ村を襲撃した。
 1936年11月12日木曜日号にDAILY WORKERS新聞が、スペイン内戦の学童の子どもたちの犠牲者を掲載した。それまで彼らは平和に遊んでいた。しかし、ファシスト政権の攻撃が、子供たちにも死の脅威をもたらした。その12日前の10月30日に、ナチス・ドイツ軍の急降下爆撃機は、同じように遊んでいた約70人のスペインの子供たちを殺害した。それ以前までは、スペイン内戦中に、フランコ政権の野蛮な武力による男性と女性の虐殺を示す写真の公表を控えた。それでは単なる恐怖だけでは、ファシズムと戦い、民主主義を擁護する決意を固めるには役立たない。
 しかし、新聞の写真は、無差別な児童の虐殺は単なる恐怖だけではない。ファシズムが、スペインの人々を傷つける内戦の最も恐ろしい犠牲を示唆した。写真の彼らは現実をほのめかすだけである。戦闘機や毒ガスなどの現代戦争で、平和な人口を大量の死を刈り取った。可憐な人形のような少女たちと、恐ろしい残虐な少年たちの死体が散乱していた。戦争には忌まわしきものがあり、それは子供たちを戦争の惨禍に巻き込んだ。もちろんショックであるが、死んだ子供たちが、平和な人々に対して残忍で軍国主義的な攻撃の代償であるに気付く衝撃を与えた。同じ死の代償は、死の虐殺者自身が破壊されるまで支払わなければならない。戦争写真を見ることで決心し、一撃一撃、民主主義が、平和への唯一の道を勝ち取るまで、私たちへの返事となるでしょう。

2021年3月20日土曜日

1951年秋にネバダ核実験場での機動中に、原子爆弾の炸裂からそびえ立つキノコ雲は、見学者は約160kmも離れても見えた。

アメリカ陸軍部隊は、アメリカ原子力委員会と国防総省の共同管理の下で、1951年秋にネバダ核実験場での機動中に爆発する原子爆弾のそびえ立つキノコ雲は、約160kmも離れても見えた。核実験の多数の陸軍の関係者らが、遠方から目撃して歓声を上げていた。史上初の核実験は、1945年7月16日にニューメキシコ州アラモードで核実験をした。1946年7月1日からはマーシャル諸島で核実験をした。1951年1月27日からネバダ州で核実験をした。
 ネバダ核実験場(NTS: Nevada Test Site)は、アメリカ合衆国エネルギー省が管理している核実験場である。アメリカ合衆国ネバダ州のネバダ砂漠にあり、ラスベガスの北西約105kmの砂漠と山岳地域にある。1950年12月18日に、ネバダ州南部のネリス空軍基地の約1,760平方kmの区画をネバダ核実験場として、トルーマン政権は承認した。1951年1月11日に核兵器の実験場として設立された。2010年8月に正式名称は、ネバダ国家安全保障施設(NNSS: Nevada National Security Site)に変更された。かつては大気圏内核実験と1961年9月からは地下核実験も行われていたが、現在は臨界前核実験が行われている。
 大気試験からのキノコ雲は、約160kmmも離れたところまで見ることができた。ラスベガスの観光客の増加につながった。1950年代から1960年代初頭にかけて、多くの旅行客はホテルの窓から発光ときのこ雲を見ることができた。、ホテルはこれらの光景を宣伝しました。一部のカジノでは、「夜明けパーティー」を開催し、原子をテーマにしたカクテルを作成して、訪問者にテストの閲覧を促しました。街中のカレンダーには、爆発時間や、フラッシュやライト、キノコ雲を見るのに最適なスポットも宣伝されていました。
 核爆発により発生する放射能は、偏西風によって、セントジョージ州とユタ州南部にまで浮遊した。特に、大気圏核実験により、大量の放射性ヨウ素を大気に放出した。その放射能の被爆によって、甲状腺癌、乳癌、前立腺がん、消化器癌、白血病、リンパ腫の悪性新生物の発生が著しく増加した。放射性降下物に対する懸念から圧力を受けて、アメリカ陸軍は核実験を大気圏から地下実験に転換した。
 ネバダ核実験場での核実験は、初めて1951年1月27日に約1ktonのTNT(4.2TJ)爆弾が、フレンチマンフラットに投下された。その後の1992年までに、約1,021回以上の核爆発を実験した。実写カメラは、放射線と衝撃波の影響を捉えるために保護された場所から撮影した。アメリカは、包括的核実験禁止条約を批准しなかったが、最後の1992年9月23日のディバイダーの地下実験をした。それを核兵器兵器の地下核実験の終了として、亜臨海試験の継続を告知した。

2021年3月19日金曜日

ベトナム戦争にて戦場の中を、ベトナム人の母親は致命傷を受けた我が子を両手で抱きながら、猛烈な戦闘を避けながら小走りした。

ベトナム戦争にて、銃弾の飛び交う中を、ベトナム人の母親は、致命傷を受けた我が子を両手で抱きながら、猛烈な戦場を避けながら小走りした。母親はパニックに陥って、戦場をよろめきさまよった。恐怖と不安で目を異様に見開いて悲壮感で慟哭した。南ベトナムの中部海岸にあるバタンガン岬地区は、アメリカ軍の海兵隊の上陸で激戦となった。1965年からアメリカ軍が全面的にベトナム戦争に関与したことで、民間市民の死傷者数が激増した。
 1963年以来、ベトコン(VC)はバタンガン(Ba Làng An)岬を要塞の拠点に変えた。1965年8月24日に、アメリカ軍の海兵隊の情報本部が、ベトコンがバタンガン半島からの要塞から撤退したと思い込んだ。アメリカ軍海兵隊、ベトナム共和国陸軍、ベトナム海兵隊は、1965年9月7日から10日まで、半島でピラーニャ作戦を実施した。この作戦により、アメリカ軍は約178人のベトコン(VC)を殺害して、約360人VCと疑わしいベトナム人を捕獲した。連合軍の犠牲は、約2人のアメリカ軍海兵隊員と約5人の南ベトナム軍兵士が殺害された。無差別砲撃地帯により、行方不明数は民間ベトナム人であった可能性がある。
 ベトナムの共産主義を阻止するために、アメリカ軍は1965年から本格的に軍事介入して、南ベトナムを支援した。トンキン湾事件を受けて、特別権限により、3月2日から北ベトナム爆撃を開始した。4月21日にはアメリカ軍を約6万人に増員を公表した。8月31日にジョンソン政権は、徴兵カードの焼却を違法とする法律に署名して、禁固5年と罰金1千ドルが課せられた。アメリカ軍は、9月末にはベトナム駐留のアメリカ軍の兵員数が約130,000人を超えて毎月新たに35,000人が徴募された。1969年初頭で、アメリカ軍兵士の約544,000人まで膨隆した。

2021年3月18日木曜日

戦場における破壊性が増加した現代の武器は、顔面は単純な破壊だけでなく、衝撃と距離に応じて最も深刻な粉砕を引き起こした。

第一次世界大戦の戦傷による顔面の損傷により骨組織と軟部組織が破壊的な影響を受けた。銃創は弾学の発射体の影響だけでなく、その爆発の影響が骨組織から破裂して、その骨破片が多くが新たな発射体に変換され、すべての方向に漏斗の形で噴出して、軟部組織が細断された。
 戦争の戦死傷者には外科的対応が困難であるままに、ドイツ軍は第一次世界大戦に突入した。ドイツ軍医は、普仏戦争、バルカン戦争、日露戦争の既往から、戦争における口腔外科により外傷処置がされた。軍事医療機関による撮影の記録写真により、口腔外科の残酷な解剖学的特徴が明確となった。
 口腔外科の原則は何処の戦争で何の変化も受けていなかった。戦争の拡大とともに、戦場での策略のように口腔外科も対応した。明らかに顔面の狭い範囲の外傷であるが、狭い枠組みに専門化している口腔外科は、まったく新たな手術で対応する必要があった。戦争で外傷した顎の骨折の治療は、外科と歯科の組み合わせを適用した。骨折顎治療は、矯正とブリッジなどの歯科治療で対応した。歯科矯正学には、顔面の形成外科も必要になった。顔面の表情や咀嚼機能を補助した。初期の歯科矯正器具は、機械製器具に置き換えられた。 
  しかし、破壊性が増加した現代の武器は、もはや単純な破壊だけでなく、衝撃と距離に応じて、最も深刻な粉砕を引き起こした。多くの場合、骨組織は粉砕した砂糖のように砕かれた。多くの場合は、全体が瓦礫のように引き裂かれた。下顎の全部または大部分が軟部組織で覆われても、粉砕物は行方不明となった。創傷の軟部組織と骨組織が、再生能力によって醜い奇形を伴った。まばらで真っ白な骨組織が、徐々に軟部組織に覆われた。欠損しているる部分は移植、つまり過剰に植えられた骨組織や軟部組織によって形成した。軟部組織の損傷は、口腔のすぐ近くまで修復しても、醜い奇形の顔面や他の部分にも影響を及ぼした。

 

 

2021年3月17日水曜日

オーストリア内戦の2月蜂起により、保守系政権により殺害された市民の死体がウィーンに横たわって散乱した。

オーストリア内戦の2月蜂起により、保守系政権により殺害された市民の死体がウィーンに横たわって散乱した。1934年2月12日から2月16日までの間に、保守的ファシスト政権勢力と社会主義勢力との間で内戦が勃発した。保守的ファシスト勢力が圧倒して、オーストラリアは国家全体主義に支配され始めた。犠牲者は、社会主義勢力は約1,000人が死傷され、保守系政権勢力は約118人が殺害された。保守系政権側のオーストリア軍が、参戦して社会主義勢力は一掃された。
 1932年にエンゲルベルト・ドルフースが保守系の首相に就任して保守系の祖国戦線(VF:VaterländischeFront)を設立した。イタリア系のファシストを導入して、1933年8月にイタリアのムッソリーニは、祖国戦線の政権を擁護することを宣告した。祖国戦線は、次第に市民の自由を縮小して、全ての運動組織と政党を禁止して、多くの政治犯を投獄した。新たなオーストリア系のファシズム独裁政権が発足した。祖国戦線の政権は、社会主義である共和国保護同盟を解体するために、1934年2月12日にホテル・シフで、保守政権の警察隊の捜索に対して共和国保護同盟が衝突して内戦が勃発した。相互の勢力間で銃撃戦が起こり、他のオーストリアの都市にも波及した。ファシスト勢力が、社会主義勢力の蜂起を2月16日までに鎮圧した。労働組合は禁止されて、社会主義勢力を弾圧した。5月1日に憲法を制定して、オーストリアにファシスト系政権を確立した。
 オーストリア系ナチスが、1934年7月25日にオーストリアの首相であるドルフースを暗殺して、他国に対するナチス独裁化が勃発した。約10人のオーストリア系ナチスが、首相官邸に侵攻して、非武装の警備員を排除して、ドルフースを暗殺した。