早稲田大学の創設者である大隅重信は、外務大臣の時に1889年10月18日には国家主義組織玄洋社の一員である来島恒喜に爆弾による襲撃を受けて、一命はとりとめたものの、右脚を大腿下三分の一で切断することとなった。来嶋恒喜は、大隅重信を狙撃した後に、現場で自刃して自殺した。赤十字社により、アルコール漬より取り出した右下腿が撮影された。大隈重信は10月18日に内閣より外務省へ帰る途中で、外務省の門前において来嶋恒喜が爆裂弾を投げて、左脚を傷けて、遂にこれを切断するのやむなきに至った。これを機として黒田清隆内閣は総辞職し、次いで一時的に三条実美が総理大臣となった。12月には山県有朋内閣が成立した。右翼国粋主義団体の活動が頻繁に見られはじめた。未だ自由民権運動的な色彩をも加味するものから、急速に国権主義日本主義侵略主義的な運動となった。玄洋社はその代表的な日本で初めて創設された右翼団体であった。
1886年7月、猛烈な世論の反対を受けて外相の井上馨の条約改正案は中止となり、井上馨は辞職して首相の伊藤博文が兼摂した。1887年2月に大隈重信は外相となり、条約改正案に当り、11月に改正の趣旨を在外諸公使に訓令した。まずはアメリカの同意を得た。この間に、後藤象二郎を中心とする大同団結運動は、強硬外交を主張しながら華々しく展開した。当の後藤は、1889年2月に黒田清隆内閣 (88年4月成立)に逓相として入閣して、その変節は世人を驚かせた。大隅重信は、日本が江戸時代に締結した不平等条約にて、外国人が在留国にて外国の領事による裁判を受ける領事裁判権を改正を提案した。
大隈重信の改正案は、1889年4月19日、イギリスの「ロンドンタイムス」に暴露された。外人の内地雑居、外国判事の任用の規定等が、いたく朝野の人士を刺激し、時論は俄かに沸騰して、しきりに反対運動が起った。内は枢密院議長の伊藤博文をはじめ、逓信大臣の後藤象二郎、法制局長官の井上毅等、外は自由民権派、国粋保守派を問わず、反対運動は猛烈を極めた。8月には在野の熊本国権党、福岡玄洋社等保守団体の全国非条約大懇親会が開かれた。10月15日遂に明治天皇の御前会議の開催となった。賛成者は僅かに総理大臣黒田清隆等数人を数えるのみであった。10月18日閣議は改正商議の中止と決した。
大隅重信の右脚の切断は、直ちに外務省のソファ上で海軍軍医の高木兼寛が処置して、赤十字病院の佐藤勇主任等が切断して、ベルツ博士が支援した。切断手術がすんでから大隅の脚は大きなガラス瓶にアルコール漬となった。「邸へ届けて下さい」と命のままに早稲田の大隈邸へかつぎ込まれた。大隈は元来は酒は余り呑まない方であが、分身たる切断された脚は1月間に6.70円に上るアルコールを必要とした。大名生活の会計係もすっかり音をあげた。アルコールを飲んだくれた脚は、赤十字中央病院に参考品として引取られた。病院の「開かずの部屋」と云う薄気味悪い一室に安置された。