2025年11月18日火曜日

日本軍は1937年12月に、南京城門で日章旗をひるがえて南京に入城した。南京の中華門にいた多数の日本軍兵士が、虐殺された多数の散乱した中国人の死体を見詰めた。

日本軍は、南京城門で日章旗をひるがえて南京に入城した。南京の中華門にいた多数の日本軍兵士が、多数の散乱した虐殺された中国人の死体を見詰めた。中華門の3文字は、中国守備軍が残して、中国門の城壁には「誓復國仇」の4文字を書き残した。

  関東軍は、上海派遣軍から中支那派遣軍に昇格した。この中国軍を追って、南京に迫る態勢をととのえた。派遣軍が南京占領を強硬に主張すると、12月1日ついに南京占領を命令した。 11月20日には、大本営が設置され、事変の戦争がいよいよ本格化した。しかし、大本営は、日本政府との関係を断ち切り、独断専行がはげしくなった。

 関東軍は、12月10日に南京に進入、12月13日ついに南京を占領した。日本軍は、南京で大虐殺事件をひきおこした。無抵抗の市民たちが捕えられ、理由もなく凌辱され、虐殺された。南京だけで5万人に及ぶ婦女子が殺された。上海、南京 間の戦闘で殺された非戦闘員は30万人に及ぶとされる。このほか民家の略奪もはげしく、日本軍兵士は略奪した自動車や荷車で略奪品を運び去った。中国民衆の抵抗意識はますますかためられていった。国民政府は、屈服せずに、日本側の期待を破って、首都を漢口にうつし、抗戦の方針を強めていた。