1945年4月にベトナムの飢饉にて、食物を拾いに行ったベトナム人達が共々に行き倒れになり餓死した。路上に横たわる死体を収容した。洪水時にコレラが急速に蔓延した。日本軍はベトナム人農民に稲作を放棄させジュートの栽培を強制した。ベトナム北部地域の食糧生産に深刻な影響を与え、深刻な飢餓を招いた。
1945年のベトナムにおける大飢饉は、別名アット・ダウの飢饉と呼称された。トンキンとアンナムにてフランス軍と日本軍の占領下で発生した。ともに、兵士を養うために農民から食料を強制的に接収した。この飢饉は北ベトナムで200万人の死者を出し、国際文書では死者数を約100万人、すなわち人口の約8%と推定した。より多くの土地を開墾し食糧不足に対処することが、ベトナム独立同盟(ベトミン)の宣伝活動の重要な要素となった。再び飢饉を防止が、共産主義政権の正当性の核心となった。大飢饉で死亡した200万人以上の犠牲者は、ベトナム共産党の国家救済には適合しなかった。
1940年9月、日本軍はフランス植民地当局との合意に基づき、ベトナム北部と中部地域に進駐した。日本軍は第二次世界大戦終結まで同地に駐留し続けた結果、ベトナム国民は二重の植民地支配下に置かれた。フランス植民地支配下では飢餓が頻発したが、日本軍による1945年の飢饉ほどの悲惨ではなかった。首都では餓死者は出なかったが、食糧不足は顕著であった。1944年から1945年に32省で発生した飢饉は、日本軍の占領下で極度に悪化した。
