2019年10月6日日曜日

第1次世界大戦でドゥナジェツの悲惨な野戦病院に護送されたロシア軍兵士を老司教が見舞った。

第一次世界大戦。ロシア軍兵士がドゥナジェツで戦死傷者が野戦病院に護送された。カトリック教会の老僧が戦死傷者を慰めた。司教が戦地の野戦病院を見舞った。東部戦線の両側に塹壕が掘られ、戦局は膠着して固定化した。新兵器である航空機の空爆、毒ガスによる虐殺が塹壕戦に犠牲を拡大した。1916年末からのロシア革命によりる完全なる危機に直面した。
 ロシア帝国ニコライ2世は、1914年7月20日に第1次世界大戦の詔書を読み上げた。皇帝は、神につかわされた専制君主であり、絶対的な長であり王であった。ロシア軍は、総動員令により、1914年に約311万5000人から1915年末に約830万3000人も動員させた。皇帝は、家族から父と息子を奪い、戦場で残酷な運命に追い込んだ。ドイツ帝国の東プロイセンに速攻で侵攻した。ドイツ軍は、8月17日にタンネンベルクの戦いで、ロシア軍を分離させて包囲して壊滅した。ロシア軍には、約3万人が戦死傷と約9万2000人の捕虜の犠牲が出た。
 ロシア軍は第1次世界大戦の開戦から1915年末までに、約12万4987人が戦死して、戦傷者は約61万2119人、捕虜・行方不明は約44万4996人で、総計119万2102人が犠牲となった。1914年末には、あらゆる物資の補給が滞り、戦場は悲惨な墓場に陥った。ロシア軍は、1915年4月19日にガリツィア、5月20日にプシェミシル、6月9日にリヴォフ、7月23日にワルシャワ、8月5日にコヴノ、8月19日にグロドノから完全に大撤退した。1915年5月から7月だけで、戦死者は約6万3519人、戦傷者は約27万7110人、捕虜・行方不明は約5万2231人、総計約39万2906人の犠牲が昇った。さらに8月の1月間だけで、戦死者は約3万3054人、戦傷者は約14万6820人、捕虜・行方不明は約40万5057人で、総計は約58万4931人の犠牲となった。開戦以来からの犠牲者総数は、約216万9939人の犠牲に達した。ロシア軍には、悲惨で残酷な大量犠牲を強要した。ロシア軍が撤退したポーランドとガリツィアに残されたロシア人は、ドイツ軍から避難して難民化した。