1945年5月25日から5月26日に、アメリカ軍が東京市街地の表参道への5度目で最後の低空夜間焼夷弾で空襲された。都電青山車庫には、膨大な犠牲者の死体が散乱した。青山通りから明治神宮入口まで続く表参道では甚大な死体が散乱した。焼夷弾攻撃は、5月25日から26日夜に464機のB-29が山手地区に3,258トンの焼夷弾を投下した。死者3,242人、家屋焼失による避難民559,683人、焼失面積約43平方kmに及んだ。山手大空襲後、東京の破壊面積は合計147平方kmに達した。
3,242人死者数は、山手地区の起伏に富んだ地形と開けた空間が避難を大いに容易にした。5月25日から26日夜、B-29爆撃機が周辺一帯に焼夷弾を降り注ぎ、恐るべき速度と強度で火の嵐を発生させた。5月27日朝には、約1kmの表参道の全域に焼け焦げて、特に青山通りの神宮前交差点付近に死体が散乱した。地下鉄駅の入口や近くの安田銀行前には無数の遺体が重なり合って積まれた。死体から出た油による黒い染みが、銀行の壁や歩道に残った。
東京は初めて1945年2月23日にアメリカ軍の爆撃を受けた。174機のB-29爆撃機が約2.56平方kmの市街地を崩壊した。3月10日の東京大空襲から全国66都市に、アメリカ軍はナパーム弾で集中攻撃した。3月10日の東京大空襲334機の爆撃機が2時間の空襲で、ドレスデン爆撃時の火の竜巻を引き起こした。約1000万人が住んだ41平方kmの市街地が焼け野原となり、住宅の40%となる33万戸が崩壊した。爆撃の結果は、8万から10万人以上の死亡が推定された。
