2025年9月12日金曜日

1938年1月にスペイン内戦のテルエルの戦いで、電話線を引いていた共和派軍兵士が、フランコ派軍兵士に狙撃を受けた。冬空に凍りついた動けない兵士として戦場カメラマンのロバート・キャパが撮影した。

1938年1月にスペイン内戦のテルエルの戦いで、電話線を引いていた共和派軍兵士が、フランコ派軍兵士に狙撃を受けた。苦悶の表情、小枝を握りしめる手が、冬空に凍りついた動けない兵士として戦場カメラマンのロバート・キャパが撮影した。1937年12月15日から1938年2月22日のテルエルの戦いは、スペイン内戦で最も過酷な戦いの一つであった。人民軍の戦闘部隊は侵攻するも、共和派の敗北となり、代替が困難な精鋭部隊が壊滅した。

 テルエルはスペインの内戦当初には反乱軍に陥落していた。1937年末までに、北東側を除く全方向を共和派は包囲した。フランコ派が北部戦線を終結すれば、マドリードへの大規模な攻撃を開始しため、共和派は真冬にテルエルを攻撃した。共和派はより多くの兵員と物資で攻撃を開始した。悪化する天候と大雪と氷点下の気温は、フランコ派の守備隊に有利に働いた。反乱軍の数千人の兵士と志願兵は、兵力を集中させたテルエルの中心部で白兵戦で激しい抵抗を展開した。戦闘と砲撃により、多くの民間人が犠牲になった。フランコ派の増援は、間に合わず、戦況は絶望的になり、部隊は数棟の建物に孤立し、食糧も底をついて、1938年1月8日に反乱軍は降伏した。

 テルエルは、共和派が占領した最初の州都であり、勝利は広く祝賀された。フランコ派は、マドリードへの攻撃を中止した。失った都市を奪還するために軍隊を集中させた。1月中旬に反撃が開始されて、悪天候の中で、再び激しい戦闘が繰り広げられた。2月上旬、共和派が都市北東部のアルファムブラ川で壊滅的な敗北を喫して、戦況は一変した。数千の共和派兵士が戦死または捕虜となった。反乱軍により2月22日に共和派はテルエルから撤退して、双方とも甚大な犠牲を受けた。4万人が戦死し、さらに数千人が負傷または凍傷を負った。テルエルの戦いは、共和派に多くの人員と物資を犠牲にし、最精鋭部隊は失われ、スペイン内戦の戦況を決定づけた。多くの兵力を擁し、優れた装備を備えたフランコ派が、地中海に至るアラゴン地方に全面攻撃を仕掛けた。