クロアチアのファシスト組織であるウスタシュ(Ustaše)は、1945年3月27日から28日かけた夜中に、サラエボのマリンドヴォル地区にて55人のサラエボ市民を木や街灯に吊るして絞首刑にした。「ポグラヴニク万歳!」と書かれた標識が、絞首刑されたサラエボ市民の首にかけられた。サラエヴォ市民の死体は、他の人々への見せしめとして吊るされたまま放置された。死体を回収しようとした人々には発砲された。2月18日から4月4日まで、ルブリッチとウスタシャはサラエボ市民に対して悲惨なテロを実行し、少なくとも783人のサラエボ住民を殺害した。殺人と暗殺に対する絞首刑による報復の処罰が執行された。
ウスタシュの幹部であるヴィエコスラフ・ルブリッチ(Vjekoslav Luburić)が絞首刑を命じた。ウスタシュによる強制収容所にて、セルビア人、ユダヤ人、ロマ人の同時期の大量虐殺を指揮した。1945年2月に、ウスタシュの独裁者であるパヴェリッチ政権は、ルブリッチをサラエボに派遣し、その後約2ケ月間に、数百人の共産主義者の拷問と殺害を指揮した。3月21日、ウスタシュはルブリッチの暗殺計画を摘発した。その後に4人のウスタシュが、パルチザンにより殺害された。その報復として、容疑者のサラエボ市民55人を見せしめの絞首刑を執行した。最も恐ろしい残虐行為は、ベルコビッチと呼称されたルブリッチの別荘の地下室でホロコーストが執行された。
ウスタシユは、1929年から1945年にかけて、クロアチアのファシスト組織であった。第二次世界大戦中にユーゴスラビアにて、ウスタシュは、数十万人のセルビア人、ユダヤ人、ロマ人、反体制のクロアチア人を、ホロコーストを執行して大量虐殺した。ウスタシュは、ボスニア人をイスラム教徒のクロアチア人とみなして迫害しなかった。1941年4月10日に、枢軸国の準保護国として、傀儡国家のクロアチア独立国(NDH)として、ユーゴスラビアの一部の統治を任命され、権力を握った。ウスタシュは軍事的に弱く、クロアチア人の支持を欠いた。1945年5月15日に、クロアチア独立国は崩壊した。ルブリッチは、枢軸国以外で唯一クロアチア独立国を承認したスペインに逃亡した。1969年4月21日に、スペインでユーゴスラビア国家保安局(UDBA)の諜報員であるイリヤ・スタニッチにより暗殺された。