テレジン(Theresienstadt)収容所には、食料もなく、多くの被入所者は餓死したり病気で死亡した。テレジン収容所は、元の人口は約6,000人で、1943年には約10万人も強制収容された。毎日、病気・飢餓・過労で、1日に約300人が死亡していた。
1939年3月に、ドイツ軍はチェコスロバキアのプラハに侵攻して、チェコスロバキアは解体された。チェコスロバキアの首都プラハから北方約60kmに位置するテレジンに、1941年11月24日に強制収容所が設置された。テレジンは、18世紀に設置された周囲の深い堀と厚く髙い土塀で囲まれた要塞を、収容所で利用した。約40万人ものユダヤ人を、テレジンに強制収容した。1942年1月20日にウィンゼー会議にて、ユダヤ人絶滅計画を発表した。
1942年に、ナチスはテレジンに住んだ約7000人のチェコ人を追放し、ユダヤ人居住区の閉鎖的な環境に隔離した。ナチスは、テレジン収容所を、当初はドイツ、オーストリア、チェコ、西ヨーロッパから集まった高齢、特権階級、有名なユダヤ人の収容所とした。1942年秋から、十両以上もの貨物列車が、強制労働できない人をテレジンから東方の絶滅収容所であるアウシュビッツ強制収容所に強制連行された。テレジンを、アウシュビッツへの中継地となった。
約15,000人の子供たちがテレジン収容所を通過して、授業、運動活動、芸術などの厳しい日課で教育が継続された。彼らは絵を描き、詩を書いた。しかし、戦争が終わるまでに、生き残った子供は150人以下から1,100人以下だった。44歳の女性画家であるフリードル・ディッカ―・プランディスが、禁止されている命がけで絵画教育に立ち上がった。1944年10月6日には、画家のフリードルも東部に強制連行された。
1944年5月15日に、国際赤十字の視察団がテレジンを訪問した。恐怖や処刑により絶対服従させた被入所者には偽装させた。1944年11月がテレジンからアウシュビッツへの最後の強制連行となった。ドイツ軍は5月3日に国際赤十字に移管して、ソ連軍が1945年5月10日にテレジン強制収容所を解放した。その10年後に子どもたちの名前の入った約4000枚の絵画がトランクに発見された。テレジン収容所に送られた約144,000人のユダヤ人のうち、約33,000人がテレジンで死亡して、約88,000人がアウシュヴィッツやその他の絶滅収容所に送られた。終戦までに生存したのはわずか19,000人だった。