2023年7月26日水曜日

太平洋戦争のペリリュー島の戦いで、日本軍守備隊はアメリカ軍の水際撃滅を狙って、やっと木陰にたどり着いた2人のアメリカ軍海兵隊員も、日本軍に狙撃されて射殺された。

太平洋戦争においてペリリュー島の戦いにて、日本軍守備隊は、オレンジ海岸のアメリカ軍の水際撃滅を狙った。アメリカ軍を水際撃滅を狙って、日本軍は可及的に引きつけて爆撃するように命じられた。この2人の海兵隊員も、やっと木陰にたどり着いた地点で、日本軍に狙撃されて射殺された。椰子の木の陰に隠れていたアメリカ軍兵士は、両手で拳銃を持ち上げ、 狙いをつけようともがいた。日本軍兵士は、次から次へと倒しに、海岸へ突撃した。海岸では敵味方入り乱れての白兵戦が展開中された。軽機関銃や小銃で、狙いを定める余裕もなく、敵味方もただ引き金を引いた。

 アメリカ軍は、1944年9月15日午前8時に、ペリリュー島に上陸した。アメリカ軍兵士が、艦砲射撃に援護された上陸用舟艇や水陸両用戦車が、海岸に上がってきた。海岸にたどりついたアメリカ軍米海兵隊員たちは、予想を裏切られて、 日本軍の猛反撃に遭った。たのみの水陸両用戦車は炎上し、やむなく海岸に乗り上げた上陸用舟艇の陰に隠れた。

 至近距離で撃ち合いだけでなく、手榴弾の投げ合いとなった。海岸に上陸はしたが、日本軍の重砲火で進撃は困難となった。砲爆撃で椰子の木は全部倒されて、敵陣も不明で殺したり殺されたりの白兵戦となり、弾がつづくかぎり撃ちまくった。

 アメリカ軍の前線の第1線には、は黒人兵が多かく、かなりの黒人兵士が戦死した死体が散乱した。ペリリュー島に南洋特有のスコールが通り過ぎ、もうもうたる硝煙と火薬の異臭が洗い流された海岸線には、敵味方の死体が累々と陽に焼かれ、白波に洗われていた。死体の数は明らかにアメリカ軍兵士の迷彩服の方が多かった。アメリカ軍は、ペリリュー島の第1次上陸作戦で、上陸用舟艇約60余隻、シャーマン戦車約3輌、水陸両用戦車約26輌を損失して、約1,000人以上の死傷者を出し、午前8時すぎに、一時的な撤退のやむなきに至った。

 コンクリートで築いたり、珊瑚礁で、日本軍の防空壕や砲座が海岸のいたるところにあり、海にも陸にも機雷や地雷をギッシリと敷設した。交叉した道路には、対戦車砲と自動火器で厳重に防備した。突然と、横にいた兵士が動かなくなり、少し前まで喋っていた兵士が、もう誰が誰かわからない。砂の中に頭を埋め、足を高くして頭を低くしないとタマがよけられず、ペリリュー島の攻略はまったく地獄戦となった。

 ペリリュー島の戦いは、激烈をきわめたアメリカ軍は、ペリリュー島の占領後、上陸点の西海岸 (西浜)を、オレンジ・ビーチと名付けた。両軍兵士の血で白い珊瑚の海面がオレンジ色になってしまったからだ。オレンジ・ビーチは、いまやペリリュー島では正式名称化した。ペリリューの作戦はアメリカ軍は3日間で終了すると公言したが、11月27日に終結した。アメリカ軍は、戦死者約2,236人、戦傷者約8,450人、戦病者は約2,500人と日本軍は、戦死者約10,022人、戦傷者は約446人の犠牲を伴った。





















2023年7月26日  
Japan No War NGO  (JNWN)
日本平和市民連盟    
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