沖縄戦の終末期に摩文仁の洞窟で自決した49歳の長勇参謀長と57歳の牛島満司令官とされる写真がある。手前が長勇参謀長、奥が牛島満司令官らしい。1945年6月23日(アメリカ軍記録6月22日午前3時40分)に、沖縄戦を観念した第32軍の司令官であった牛島満中将と参謀長の長勇中将は、摩文仁丘の司令部壕で割腹自殺した。剣道5段の坂口勝大尉が、日本刀で両将軍の着座の瞬間に首をはねた。死体と伝えられる写真や日時は、目撃者等による自決時の証言と死体の状況が異なっている。沖縄憲兵隊副官の萩之内清の6月25日の目撃証言では、摩文仁司令部壕の下方約30mの窪地に石を積んで埋葬した。牛島満の死体には首がなく、略章をつけた軍服に白い手袋を装着していた。長勇の死体は、敷布2枚をつなぎあわせた袋の中に入っていた。ズボンは軍服だが上着はなく白い肌着を着ていた。肌着には墨で「忠即盡命 盡忠報國 長勇」と記載された。第32軍の両将軍の頭部は、大混乱の中で行方不明となった。
6月23日を持って、沖縄戦の日本軍の組織的戦闘が終結した。アメリカ軍占領下の琉球政府が、1961年に6月23日を慰霊の日と定めた。1972年5月15日に本土復帰後も、沖縄県が条例を制定して、沖縄県民を上げて沖縄戦の全ての犠牲者に対する追悼日となった。
首里から摩文仁への撤退の決断は、住民を戦場に巻き込んだ。都市部からは、日本軍を追うように多くの沖縄住民たちが南部へ避難した。アメリカ軍の攻撃の巻き添えになり、日本軍兵士から壕から避難した住民が追い出され、艦砲射撃の犠牲になるなど多くが絶命した。首里撤退後に、約46,000人の住民が撤退後の1か月で死亡した。
沖縄方面防衛のために創設された第32軍は、圧倒的な戦力を誇る連合軍に対して沖縄本島の南部に主防御陣地を構築して、首里に司令部を構築した。アメリカ軍の猛攻を受けて1945年5月27日に首里司令部を撤退し、沖縄本島南端の現糸満市にある摩文仁に5月30日に最期の司令部の拠点を構築した。日本本土への攻撃を1日でも遅延させる捨石となり、増援もないまま全滅した。6月23日に司令官である牛島満中将と参謀長の長勇中将などが自殺した。残る日本軍部隊も玉砕して全滅した。組織的な抵抗が終結して、アメリカ軍はその後も生存する日本軍兵士に対する掃討作戦を続けて、7月2日に作戦の終了を宣言した。