2022年4月6日水曜日

キューバのマチャド独裁政権下に、抵抗運動した青年ルビエリタらは、秘密警察に強制連行されて暗殺された死体が放置された。

キューバの首都ハバナで1932年12月30日に、キューバの独裁者であるジェラルド・マチャド(Gerardo Machado)大統領の秘密警察が暗殺作戦を指揮して、対抗する青年らを尾行した。17歳のハバナ工科大学のフアン・ゴンサレス・ルビエラ(Juan Gonzalez Rubiera)は、同志たちと武器を取りに出かけた。彼らがガソリンを買うためのお金を得ようとして家に着いた。青年ルビエラは、車から飛び降りてコラレス通りを走り、民家に避難した。数時間後に、青年ルビエリタら3人は、秘密警察に強制連行されて、区画整理のミラマール地区に行った。6番街と15番街の角の寂しい場所で、暗殺されて放置されたルビエラの死体が発見されて、身元が確認された。

 15歳のルビエラはキューバの首都のハバナ工科大学に入学して、優れた学生運動リーダーであり、ジェラルド・マチャド政権に対抗する闘士であった。15歳のとき、大学学生理事会が結成されるきっかけとなった学生デモに参加した。1932年12月30日に、17歳の若さで暗殺された。1933年1月16日のエル・パイス新聞の表紙に、キューバの秘密警察の銃撃により、逃げようとした青年ルビエラらに対して11発の銃弾が突き刺さった。血まみれの顔で地面に倒れた17歳のルビエラの死体の禁断の写真が掲載された。ルビエラの死体が、新聞記者が撮影できるほど長い間路上に、秘密警察が放置していた。

 1932年9月に、秘密警察の車列から、キューバ上院の議長であったクレメンテ・バスケス・ベロ医師を自宅の前で銃撃された。その1時間以内に、秘密警察は反マチャドの指導者であるハバナ大学学長のリカルド・ドルツ博士を銃撃した。キューバのマチャド政権下では毎日のように人が銃撃された。秘密結社は12月30日に、秘密警察のラファエル・カストロ軍曹を銃撃して重傷を負わせた。その報復として、12月31日に秘密警察のオルティス署長が自分の車で青年らを路地まで追いかけて3人全員を射殺した。

 1924年に、マチャドはキューバ共和国の大統領に選出された。マチャドは1925年から1928年までの最初の任期中に、主要な公共事業プログラムを実施した。彼の任期が終了する前に、憲法制定会議はキューバ憲法を改正し、新たな6年間の大統領任期を創設した。マチャドは1928年に再選され、新法の下で1935年まで大統領を務めた。マチャドの第2期は、内戦と経済混乱により、砂糖の価格は大幅に下落し、多くのキューバ人は失業した。不安が高まる中1930年に、マチャドは警察に違法な政治集会とデモを解散させた。マチャド政権への反対は大きくなり、抑圧的措置を強化した。1932年に、マチャドは憲法を一時停止して、アメリカのフランクリンD.ルーズベルト大統領により、1933年8月12日にマチャドはキューバから追放されアメリカに定住した。