2022年3月23日水曜日

日本軍が1937年12月12日に中華民国の南京に侵入する直前に、寺院の敷地内に多数の中国人女性や子供を虐殺した死体が散乱した。

日本軍が1937年12月12日に、南京に侵入する直前に、日本軍兵士が寺院の敷地内で、多数の中国人女性や子供を虐殺した写真である。南京に滞在していたアメリカ人宣教師のアーネスト・H・フォスターによって撮影された中国人の虐殺被害者である。南京大虐殺は、日中戦争中の1937年12月13日に、日本軍が中華民国の旧首都である南京を占領した直後から、約6週間に起きた大量殺人と戦争強姦である。この間、数十万人の中国人市民と武装解除した兵士が殺害されて、約2万~8万人の女性が日本帝国陸軍の兵士に強姦されたと喧伝された。

 上海での軍事占領を確保した日本軍は、最終目標である中国の首都である南京の制圧を目指した。1937年12月2日に、首都南京を守る長江の中国艦隊は、北から下ってきた日本軍によって全滅した。日本海軍は小さな木造船で長江を渡ってきた。南京までの道中に、日本軍は目をつけた中国人を片っ端から殺害した。

 1937年12月10日に、日本軍は長江の南岸に上陸し、約600年前に明初代の朱元璋が、最初の首都として築いた南京の最大の残存城壁を砲撃し始めた。1937年12月13日に、中国の首都は陥落した。日本軍は、中国軍兵士の大胆な抵抗に懲罰を与えるために、約6週間にわたり殺戮を繰り返した。日本軍の第65独立混成旅団は、首都を守る捕虜の中国軍兵士をほとんど殺戮した。日本軍の撮影隊が撮った写真では、日本軍将校が南京で中国人の民間人の首を切り刻んで断頭した。日本軍兵士が、南京にて中国人の幼児を殺害した。日本人の野蛮な行為は、孤立した初めて歴史事件ではない。実際に、日本人による中国人の赤ん坊の拷問、殺害、焼殺などは、明代の歴史にも記録されている。約500年前に、倭寇が中国の蘇州や上海から江蘇や浙江の東海岸に侵入したとき、日本人は刀で中国の子供たちに同様な虐待と虐殺をした。中国民国の首都南京を征服した日本軍兵士は、中国最大の城壁の上に誇らしげに立って万歳した。日本軍は約6週間で、民間人を中心に約20万から30万人の中国人を虐殺して、赤ん坊の女子を含む約2万人の中国人女性を強姦した後に、刺し殺したと喧伝された。中国の首都南京が征服されたことを知った日本人女性は、南京という名の特別な食事を作って祝った。

 南京大虐殺は、武装解除された中国軍兵士が大量に殺害され、老人、女性、子供などの平和な市民も虐殺された。戦後、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連、中国など11カ国で組織された極東国際軍事裁判と南京戦犯法廷が、南京事件の戦犯を裁く特別法廷を設置した。その結果、A級戦犯の松井岩根とB級戦犯の谷寿夫が、それぞれ死刑判決を受けて処刑された。極東国際軍事裁判の判決では、日本軍によって約20万人以上の中国人が殺され、2万人以上の女性が強姦、輪姦されたことが確認されている。この数字には、日本軍が焼却したり、長江に投げ捨てたり、その他の方法で遺体を処分した人たちのことは考慮されていない。南京戦犯法廷では「少なくとも30万人の中国人が殺された」と結論付けている。