ロシア革命後の内戦の中で、多くの無実の民間市民が大量虐待と大量虐殺された。殺害されて人命が奪われたロシア人の膨大な死体が路上に集積されていた。白軍の白色テロに対抗して、人民委員会も赤軍による赤色テロを喧伝した。その他に、ソビエト秘密警察であるチェーカーによる残虐なロシア人の抹殺も加わった。
ロシアのニコライ2世の君主制は1917年2月革命によって打倒されて、ロシアは政治的流動状態になった。ロシア共産主義であるボルシェビキ主導の十月革命により、ロシア共和国の臨時政府を打倒した。ボルシェビキ政権の共産主義のために戦った赤軍と政治的君主主義を支持する多様な利益を含む白軍が内戦に陥った。白軍側は複数の軍隊が別個に蜂起して分離していた。1917年4月から労働者にから紅衛兵を募集して、12月5日から秘密警察であるチェーカーで補強した。令状も無く無制限に市民を逮捕して、無実の罪で処刑された。その名称はGPU・OGPU・MVD・NKVDから1954年にKGB(プーチンは約16年間諜報員)に変更された。最高機関である人民委員会は1918年1月28日に赤軍を結成を開始した。1918年6月から地方の農民を赤軍に徴兵を開始して再編成した。
ボルシェビキ政権は1918年3月3日にドイツ帝国とは緊急和平のブレスト・リトフスク条約を締結した。バルト三国、ベラルーシ、ウクライナの広大な領域をドイツ帝国に割譲した。1918年3月からイギリス軍がムルマンスク、4月5日に日本軍はウラジオストックに上陸して、1918年5月からロシアのチェコスロバキア軍団がシベリアで反乱を起こした。連合国はロシア北部とシベリアへの介入を開始した。1918年7月17日にニコライ二世家族全員は射殺された。1919年3月から白軍が南方と北西と東方から侵攻するも、赤軍が6月に東方、10月に南方と北西の白軍を撤退して、白軍は大きな損失を被った。1920年3月に残存した白軍はクリミア半島に集結して11月14日に崩壊した。1923年6月にヤクートで白軍が壊滅してロシア内戦が終結した。フィンランド、エストニア、ラトビア、リストアニア、ポーランドなどの旧ロシア帝国の西部地域で独立した主権国家は、やがて共産主義のソビエト連邦に統合された。ロシア内戦にてボリシェヴィキの残虐行為は、帝政ロシア時代よりも非人間的犯罪行為であった。ロシア内戦中には、約700万人から1,200万人にも死傷者が出て、ほとんどが民間人が犠牲となった。
ウクライナでは、1917年2月ロシア革命によりロシア帝政が崩壊すると、3月14日にウクライナ中央協議会がキエフで成立した。1918年1月9日にウクライナ人民共和国はキエフで独立宣言して、2月8日にロシア赤軍が占領したキエフを2月9日に奪還した。ドイツ軍が撤退して、1919年1月6日にウクライナ・ソビエト社会主義共和国を樹立した。1919年から1920年に、ウクライナ軍・赤軍・白軍・緑軍・黒軍・連合軍が錯綜して、1920年冬に赤軍が全域を占領した。1921年3月18年にポーランドが侵攻して西ウクライナを占領した。1918年にクリミアは赤軍に占領された。1922年12月にソビエト連邦を形成して自治共和国となり、ウクライナは搾取されて2度の大飢饉で約400万から約1,000万人のジェノサイド(民族絶滅)された。
【ロシアのプーチン大統領は2014年2月23日にクリミア半島に侵攻した。2022年2月22日には、ウクライナ東部の親ロシア派の地域の独立を承認して、平和維持軍を名目にロシア軍の派遣を命令した。】