1943年3月にドイツ軍将校とイスラム教徒のボスニア人から編成されたドイツ軍親衛隊の山岳部隊は、ユーゴスラビアのボスニアにて、ソ連軍から主導されたクロアチア人のパルチザンを掃討して虐待と虐殺した。ドイツ軍親衛隊の山岳部隊は、ボスニア地域の戦闘にて2人のクロアチア人のパルチザンを両手を縛ったままで虐殺した。1941年春、ドイツ国防軍がユーゴスラビアを占領し、多民族国家が崩壊した後、民族主義グループが、第二次世界大戦における最初のパルチザン部隊として、セルビアでドイツ軍との戦いに挑んだ。武装していない民兵と一緒に山の中に撤退し、そこから小規模な作戦でドイツ占領軍と戦った。民間人虐殺を避けるために、反乱軍は大きな反撃を控えた。本格的な武装蜂起は、ドイツ占領軍が小規模な戦争で疲弊して、一般的な戦況も不利になってから宣言された。
1942年に中隊として設立されたナチス親衛隊の山岳師団であるカルストイェーガー(カルストの狩人)は、第二次世界大戦中、ドイツのナチス党の武装組織である武装親衛隊(Waffen-SS)の山岳歩兵師団であった。正式にはドイツ国防軍の一部ではなかったが、ドイツ国防軍と一緒に活動した。戦後のニュルンベルク裁判で、Waffen-SSは、戦争犯罪や人道に対する戦争犯罪に大きく関与した犯罪組織であると宣言された。山岳師団は、Waffen-SSが配備した38師団のうちの1つでした。山岳師団は、大隊、師団、旅団としての存続期間中、主にユーゴスラビア、イタリア、オーストリアの国境にあるカルスト高原でのパルチザンの掃討に従事した。山岳地帯であるため、特殊な山岳部隊と装備が必要であった。
山岳部隊は、ユーゴスラビアやイタリアの南チロル州出身のドイツ系オーストリア人を中心に構成された。対パルチザン鎮圧に重点を置いていた。イタリア降伏後にはタルヴィジオでのイタリア軍の武装解除やイタリア国内のドイツ系民族社会の保護などにも活動した。第二次世界大戦末期にはオーストリアへの通路を確保して、ドイツ軍兵士がバルカン半島からソ連軍の追撃を脱出して、イギリス軍に降伏することを可能にした。1945年5月9日にイギリス軍に降伏したとき、山岳部隊の残党は武器を捨てた最後のドイツ軍の一部となった。ニュルンベルグ裁判のイタリアとドイツの合同調査では、イタリアが降伏してから戦争が終わるまでの間に、山岳部隊は合計約277人等のパルチザンの殺害からその他に23種類もの戦争犯罪に関与しているとされた。