2020年3月28日土曜日

第二次上海事変で、宝山の戦地の中国軍陣地の塹壕下に、多数の中国軍兵士の死体が散乱して日本軍検閲部が掲載不許可にした。

第二次上海事変において、日本陸軍の第11師団の永津部隊兵士と田中隊兵士が、1937年9月20日に中華民国軍と奮闘した。宝山の戦地の中国軍陣地の塹壕下に、多数の中国軍兵士の死体が散乱した。大阪毎日新聞社の写真部が、9月23日に日本軍の新聞掲載の検閲を受けた。中国軍兵士の死体が撮影された写真のために掲載の「不許可」の赤字を左下に印章された。その他に死体の写っていない中国軍からの捕獲品と中国軍陣地の地形は、個人情報を削除した上で、掲載できる「検閲済」の赤字の印章を受けた。日本軍の検閲により報道写真には「検閲済」「不許可」などの印鑑や赤ペンでの修正指示が書き込まれた。毎日新聞社は戦後まで保管した日中戦争などの「不許可写真」を1977年に公開した。
 日本軍の第11師団は、9月末までに戦死者は約1,560人、戦傷者は約3,980人の犠牲を伴った。日本軍は、9月5日に上海から約25kmにある沿岸の中国軍の拠点であった宝山(Luodian)を包囲して占領した。宝山の地帯は悪路に加えて溝が網の目にめぐらされ、砲弾などの補充が困難となり、陣地から侵攻も困難であった。日本軍の砲撃が停止して、日本陸軍の突撃のみ前方に突進して、中国軍の死傷者率は50%にも達した。中国軍は、宝山がもはや保できず、9月15日に敗走した。宝山の周辺地域である羅店における中国軍と日本軍の悲惨な戦闘は「肉と血の粉砕機(血肉磨坊)」とも呼称された。第二次上海事変で、中国軍兵士は、約187,200人が戦死して、約83,500人が戦傷した。日本軍兵士は、約18,800人が戦死して、約35,000人以上が戦傷した。