沖縄戦にて、アメリカ軍兵士が殺害した膨大な日本人の死体を検死した。死体には、即座にハエがたかり、ウジが湧いて死臭が漂った。日中の気温は30度に昇り、衛生状態の悪化して、降雨で泥と炎の戦場となった。
太平洋戦争では、日本軍兵士の捕虜の数が極端に少なかった。沖縄戦でも、日本軍兵士はほとんど全滅して、わずかに約220人だけが捕虜になった。捕虜になったのは、主に重態な戦傷者であった。沖縄戦で戦死者数は、日本人は約244,136人とアメリカ軍兵士は約12,520人に上った。日本人の戦死者約244,136人の内訳は、兵士が約94,136人(約39%)と沖縄住民は約94,754人(39%)と戦闘協力者は約55,246人(23%)となった。沖縄戦は、市民を巻き込んだ悲惨な無差別の虐待と虐殺の戦闘になった。
1945年4月19日から、アメリカ軍は首里周辺に総攻撃した。日本軍は丘陵地帯や洞窟から攻撃し、沖縄住民は軍と行動を共にした。突入するアメリカ軍の戦車に対して砲撃だけだなく、日本軍兵士と沖縄住民の防衛隊や少年兵の鉄血勤皇隊も、特攻のように爆弾を抱えて突撃する肉弾戦法で、戦車もろともに自爆した。アメリカ軍は全ての洞窟をしらみつぶしに崩壊して掃討した。首里の戦いでは、多くに兵隊も住民も死ぬまで戦い果て、生き埋めにもなった。5月末までの首里の戦いで、戦死は約6万4000人に達した。アメリカ軍の死者・負傷者は約5,000人以上にのぼり、墓穴をブルドーザーで掘った。最大の犠牲者は沖縄住民で、首里周辺での死亡率は50%にのぼり、一家全滅が全世帯の約4分の1を占めた。
中部・首里戦線の戦闘では、約6万人もの日本軍兵士が戦死した日本軍に対して、アメリカ軍は、掃討戦により日本軍兵士・沖縄住民・日本人戦闘協力者を追いつめていった。南部一帯は、那覇・首里・中南部などからの避難民と敗走する日本軍兵士とが混乱する悲惨な戦場と化した。アメリカ軍は、艦砲射撃・爆撃・火炎放射器などあらゆる近代兵器を使って攻撃した。さらに日本軍兵士兵や沖縄住民などが隠れている壕に対しては徹底的な「馬乗り攻撃」を行って、膨大な人々が犠牲となった。1945年6月23日に沖縄司令官部の崩壊によって日本軍の組織的戦闘は終結して、最終的には8月15日の日本降伏後の9月7日なって降伏文書に調印して最終結した。