朝鮮戦争にて、虐殺された北側朝鮮市民の死体が1950年10月22日に平壌で散在していた。
朝鮮戦争(6・25戦争)期間に、平壌で虐殺された北朝鮮の民間市民の死体が1950年10月22日に散在した。南北ので起きた民間人虐殺は、戦争の残酷から、報復は報復を生み、悲憤と憎しみ、傷だけが大地に残った。
朝鮮戦争の傷や痛みは軍人だけでなく、民間市民にも及んだ。南北の民間市民は戦争の期間にわたって避難民の苦痛を経験し、戦争物資を生産するために動員されて、生存のために凄絶な虐待を受けた。膨大な犠牲者により、北朝鮮の民間市民の死者数だけでも約200万人にも達した。北朝鮮側は公式記録で、連合軍と韓国軍が38度線以北の地域を占領した1950年10月と11月50日余りの間に、約17万2000人を虐殺したと主張した。旧ソ連の文書では、朝鮮戦争期間に爆撃や虐殺による民間市民の犠牲者は約28万2,000人と推定した。北朝鮮で受けた民間市民の犠牲者は約40〜48万人と推算した。
朝鮮戦争中に左右翼の思想により報復が報復を生む悪循環が繰り返された。北朝鮮地域で戦争期間に起きた虐殺はほとんど右翼青年に執行された。北朝鮮政府は、アメリカ軍が最も深刻な被害の新川郡虐殺事件を起こしたと主張した。土地改革を巡って右翼青年は38度線以南に下り、地下に隠れた。朝鮮戦争期間に北朝鮮地域に投下された爆弾は、約47万6,000トンだった。第二次世界大戦中にドイツに投下された弾数をはるかに超えた。残っていた民間市民と後退して北に来た難民たちも疑惑を受けて処罰の対象となった。民間市民の犠牲は右翼が後退する過程でアメリカ軍の爆撃に遭遇して、約3万5,000人余りが死亡した。左翼と右翼の間に行われた虐殺の傷は南と北に深い不信と憎悪の感情を残した。
朝鮮戦争期間に北朝鮮地域で民間市民の死亡者数が増加したもう一つの要因は、アメリカ軍の大規模な空襲だった。戦争初期から制空権を掌握したアメリカ軍は、1950年6月29日から停戦発効前まで絶えず襲撃をした。戦争期間に北側地域に投下された爆弾は、約47万6,000トンであった。太平洋戦争期間である3年8ヶ月の間、各国に投下した爆弾量だけでなく、二次世界大戦の期間にドイツに投下した爆弾の数をはるかに超える量であった。米軍は爆撃で北朝鮮の都市地域と産業施設も破壊した。1952年6月23日の空襲で、アメリカ軍は、効果的な攻撃のために、空襲には空母四隻、約500機以上の飛行機を動員した。空襲で米空軍の爆撃機は、わずか数分の間に約900トンの爆弾を水豊ダム上などに投下した。アメリカ軍は、産業施設に加え、農業施設も空襲を敢行した。