戦艦武蔵の乗組員の約2,400人が、撃沈時には1,000人以上も太平洋にむなしく戦死した。
太平洋戦争末期、戦艦武蔵はフィリピンのレイテ島に侵攻するアメリカ軍と戦闘するため、戦艦大和と出撃した。三菱重工業の長崎造船所で大和の二番艦として建造された武蔵は、アメリカ軍の爆撃機による1944年10月24日午前10時頃からの猛攻撃で、1944年10月24日午後7時35分にシブヤン海上で沈没した。武蔵の転覆と同時に積載した爆薬で2回大爆発して大破した。戦艦武蔵の乗組員は主に10代から20代の若者で約2,400人が乗船していた。撃沈時には1,000人以上も太平洋にむなしく戦死した。その上に沈没時に救助された乗組員は、直ちにフィリピン・ルソン島の戦闘に送還されて、アメリカ軍と激戦に投入された。陸上戦に投入された武蔵の生存者約430人のうち、生き残ったのは50人に満たない。2015年3月に、フィリピン沖1,200mの深海で眠り続けてきた武蔵が発見された。