日本兵は支那兵捕虜を銃剣で突いて、胸部から出血して、銃弾で頭部を粉砕して眉間から脳髄が滴下した。
日中戦争の徐州作戦にて、日本軍は山東省南東部と江蘇省の長江以北の地域であった徐州を1938年5月18日に占領した。その後に河南省商丘市にて、捕虜にした武器を持たない炊事兵を虐殺した。まず銃剣で突かれ胸部から出血して(No.13)、銃弾で頭部を粉砕されて、眉間から脳髄が突出して滴下した(No.14)。日本軍による中国人捕虜を、豚のように遠慮なく虐殺することを、師団長は日本軍兵士に迫った。小林太郎上等兵が、1938年5月28日に支那兵が「一突き後(N0.13)」と「銃殺後(No.14)」と日誌に撮影記録して、戦後に密かに持ち帰り家族が公表した。その後の日誌には、10月8日、敗残兵2名を銃剣で刺殺した。11月20日、トーチカより引き出した16名の支那兵は頭部を切断して、13名の男性市民は銃殺したなど、無差別の虐殺を記録した。