2024年11月4日月曜日

カティンの森の集団墓地からソ連赤軍により虐殺されたポーランド軍将校の死体が掘り出された。ソ連西部のスモレンスク近郊のカティンの森の集団墓地に、死体を積み上げた。

カティンの森の集団墓地からソ連赤軍により虐殺されたポーランド軍将校の死体が掘り出された。ポーランド軍の代表団が証人としてドイツ軍のプロパガンダの作戦に立ち会った。ソ連西部のスモレンスク近郊のカティンの森の集団墓地に、死体が積み上げられた。

 ドイツ軍が1943年4月13日にカティンの森に8つの大規模の集団墓地を発見して、ソ連赤軍の虐殺を非難した。カティン近郊でポーランド軍将校の約4,000人の遺骨を含む死体が集団墓地から発見された。ドイツ軍が招集した国際赤十字の調査委員会は、犠牲者はドイツ軍の弾薬で処理されたが、虐殺による殺人はドイツ軍がカティンの森の地域に進駐する前の1940年初頭に行われたことを立証した。ロンドンを拠点にしたポーランド亡命政府は以前から、ソ連政府に対して、ナチス・ドイツに連行された捕虜に何が起こったのかを報告するように要求していた。 

 1939年にソ連赤軍がポーランド東部から連行したポーランド人捕虜は、将校が約8,000人、警察官が約6,000人、その他に約8,000人の知識人であった。ソ連秘密警察(NKVD)が、1940年4月と5月にポーランド人捕虜を殺害した。NKVDによる処刑は夜間から夜明けのみ、厳重に秘密裏に行われた。囚人たちは地下室に連行され、孤独な無音の部屋で、抵抗する者は縛られて、後頭部に銃弾を撃ち込まれて殺害された。

 熾烈な論争が起こり、ソ連とポーランド亡命政府の関係は決裂した。スターリンは、モスクワにポーランド民族委員会を設立し、その協力でポーランド軍の設立を決定した。ナチスのプロパガンダはカティンの森の虐殺を利用して、ソ連の捕虜の運命を非難した。1992年になって、ロシア政府は、ソ連の政治局とNKVDが虐殺と隠蔽に責任があったことを証明する文書を公開した。約2万人以上の犠牲者がいた可能性を示唆した。2010年11月に、ロシア連邦議会の下院は、ヨーゼフ・スターリンと他のソ連指導者がカティンの森のポーランド将校等の処刑を命じた責任があると公式に宣言した。




2024年11月2日土曜日

ロシア軍のミサイル攻撃の犠牲となった15歳のウクライナ人の息子の死体を見て、翌日の2014年10月31日に母親は涙を流した。10月30日夜に3人が死亡、30人以上が負傷した。

ロシア軍のミサイル攻撃の犠牲となった15歳のウクライナ人の息子の死体を見て、翌日の2014年10月31日に母親は涙を流した。その側にウクライナの警察官が寄り添って泣く母親を慰めた。ウクライナ北東部の都市ハリコフで、ロシアによる建物への砲撃があり、地元当局によると、2024年10月30日夜に、少なくとも3人が死亡、30人以上が負傷した。

 ウクライナ当局によると、ロシア軍が広く使用する強力な兵器である誘導空爆がハリコフ市内のビルを直撃して、ビルの数フロアを破壊した。検察当局は、死者は3人と35人の負傷を公表した。当初のの死者数は子供1人だったが、10月31日に救助隊がさらに12歳と15歳の男子の2人の死体を発見した。ハリコフ市はロシア軍の爆撃の標的になることが多く、ロシア国境から約30kmも離れていない。 

 アパート9階建ての建物が破壊された部分の瓦礫から、まず15歳の少年の死体が運び出された。救援隊は、建物の1階に祖父と祖母と住んでいた別の12歳の少年の死体を運び出そうと、救助隊員が破壊されたアパートの瓦礫をかき分けていた。12歳の子供のが頭部に傷と骨折を負い、瓦礫の下から引き上げるも、救命できなかった。10月30日夜、ロシア軍はハリコフ市サルトヴィスキ地区の多層ビルを攻撃して、入口の1つを部分的に破壊した。負傷者は子供を含め36人に達した。













Warning: Ukrainian law enforcement officers comfort a woman crying over the body of her 15-year-old son following a missile attack in Kharkiv on Thursday.(AFP-JIJI)

2024年11月1日金曜日

1945年2月19日、第二次世界大戦中の太平洋戦争の硫黄島の戦いで、日本軍の砲火に倒れた2人のアメリカ軍海兵隊員が、最初の犠牲者となり倒れたまま死体となつた。















1945年2月19日、第二次世界大戦中の太平洋戦争の硫黄島の戦いで、アメリカ軍が日本の火山島である硫黄島の攻略を開始した際、最初の犠牲者となった日本軍の砲火に倒れた2人のアメリカ軍海兵隊員が、硫黄島で倒れたまま死体となつた。1945年3月30日に、アメリカ軍海兵隊員たちが、日本の硫黄島の戦いで戦死したアメリカ人の仲間のために、第三海兵師団と第四海兵師団の墓地で、共同墓地の準備をした。アメリカ軍海兵隊員は硫黄島の第5海兵師団墓地で、アメリカ軍兵士の死体を埋葬するために墓穴を掘った。

 日本軍兵士は死闘を繰り広げたが、アメリカ軍海兵隊は、硫黄島の戦いでで最も血なまぐさい戦いの一つで、1945年3月26日に最終的に全島を確保した。上陸した74,000人のアメリカ軍海兵隊のうち、3分の1以上が死傷した。2月19日から3月26日までに、約6,800人のアメリカ軍兵士の戦死に加えて、約20,000人近い日本軍兵士が戦死した。

 3月26日に硫黄島の安全が宣言されるまでに約1ヶ月以上続いた戦闘で、約6,800人近くのアメリカ人が死亡して、硫黄島で戦っていた日本軍兵士は事実上全滅した。アメリカ人死者は硫黄島に仮埋葬されるか、沖合の船に移された。死体の所在が確認されたアメリカ軍戦死者は、最終的にはアメリカに全員送還された。

 日本軍兵士は、恐ろしい硫黄島の戦いで約22,000人以上の日本軍兵士が戦死し、そのうち約12,000人は身元が確認されず、回収もされなかった。日本軍の一部は地下の洞窟に閉じ込められ、アメリカ軍工兵が土嚢爆弾で入り口を封鎖したり、戦車や火炎放射器で火を噴き、居住者を焼き殺したり、酸素を奪ったりしたため、洞窟は墓場となった。硫黄島の戦いの後に、何千もの日本人の死体は、アメリカ軍によって集団埋葬地として地図にだけ記された集団墓地に埋葬された。